第583話 二人きりの夜更け 前編
――やがてすっかり夜が更け、メインストリートを歩く人影も酒場を行き来するばかりになった頃。
俺とガーネットは皆と別れて春の若葉亭を後にし、町から少しばかり離れた自宅へと戻っていた。
「……あー、くそっ。さすがにハメ外し過ぎたな……」
ガーネットは覚束ない足取りでソファーに腰を下ろして、ぐったりと背もたれにもたれかかった。
「さっきの蒸留酒、普通はお前の歳だと飲んだらいけない種類だからな。まったく、余所見した隙に俺のコップ空っぽにしたりするから、そんなことになるんだぞ」
「別にいいだろー……お前がどんなの飲んでるのか気になったんだから……」
何が好きなのか知りたかった――趣旨だけ抜き取ってみれば、満更でもない内容ではあるのだが、さすがに体は大事にしてもらいたい。
ぼうっとしているガーネットを横目に、前々からエリカが用意してくれていた薬箱から酔い冷ましと二日酔い予防の粉薬を持ってきて、作り置きのハーブティーと一緒にガーネットのところへ持っていく。
「ほら、エリカの薬と水分補給。明日に引きずったら面倒だぞ」
「悪ぃ……でも休んだらマシになってきたな……」
「油断大敵。俺はひとっ風呂浴びてくるけど、吐きそうなら明日にしておけよ」
ガーネットをリビングで休ませて、その間に自宅へ引き込まれた風呂の準備に取り掛かる。
グリーンホロウ・タウンは山中の温泉郷。
他の地域なら燃料を燃やさないと用意できない熱湯も、地面の底から次から次に湧いてくる。
古くは観光客向けに、現在は冒険者向けにも営業している温泉宿だけでなく、普通の住民向けの公衆浴場も数多くあり、住人の大部分は毎日最低でも一回の入浴が習慣になっているという。
しかし公衆浴場が発達している影響か、住民の風呂好き嗜好に反して自宅風呂の普及率はかなり低い。
温泉水の利用料や風呂場のメンテナンスの手間を被るくらいなら、毎日公衆浴場に通って入浴する方がずっと楽というのが大きいらしい。
俺達の場合、住居が町から少し離れた山道寄りにあって、風呂のためだけに往復するのが少し面倒だったため、こうして自宅に風呂場を併設することにした。
それに諸般の事情から経済的な余裕があり、掃除やメンテナンスを丸ごと外注できるので、忙しい日々の合間を縫って掃除に追われるということもないのだった。
「熱湯と冷水はこれくらいで……体は溜めながら洗うか」
アレクシア謹製の配管システムを使って湯船にお湯を溜めながら、服を脱いで人工の右腕を取り外す。
この義肢は耐水性で、たとえダンジョン探索中に落水したとしても機能が損なわれないのだが、それはあくまで『腕の機能の代替に問題が生じない』という意味だ。
義肢を体に固定する部分は普通の布や革なので、濡らしてしまうと乾くまで付け心地が悪くなってしまう。
体についた水滴は拭えば落ちるが、ベルトに染み込んだ水分はすぐには乾かず、そのまま服を着ると服の方を湿らせることになるわけだ。
さすがにこの手の問題は、機巧技術の工夫でどうこうできることではない。
「さてと……」
右腕を脱衣籠に置いて風呂場に入り、左腕だけで体を洗う準備をする。
泡立てた海綿で胴体をこすっていると、扉越しにガーネットの声が投げかけられた。
「おーい、ルーク。上がったら右腕のメンテもするんだろ? 一応リビングに準備しといたぞ」
「ありがとな、助かる」
「それと背中と左腕も洗ってやろうか」
「おいおい、そんなこと言って……」
冗談だと笑い飛ばそうとしたときには、もう遅かった。
背中を向けていた扉が開け放たれ、さも当然のようにガーネットが乗り込んでくる。
「おわっ……!?」
風呂場用の椅子に座ったまま思わず振り返る。
すると背後にしゃがみこんでいたガーネットと肩越しに視線が合い、にんまりと笑いかけられた。
「お前なぁ……」
「いーからいーから。たまにはやらせろって」
ちょうどお互いの目線が同じ高さになる格好で、なおかつほとんど距離が空いていなかったので、視界に入ったのはガーネットの肩口から上くらいだ。
しかしその範疇を見ただけでも、ガーネットがただ背中を洗うだけでなく、このまま湯船に浸かるつもり満々の姿であることは察せられた。
「ほら、海綿よこせ」
ガーネットが至近距離から肩越しに腕を伸ばしてきて、俺の手から泡だらけの海綿を奪い取る。
この時点で俺はすっかり抵抗する気を失ってしまい、とにかくガーネットの好きにさせようと諦めてしまっていた。
心身共に成長期の少年でもあるまいに。
慌てふためいて取り乱すなんて、そちらの方が恥ずかしいだろう。
ガーネットは何やらご機嫌に俺の背中をこすり続けていたが、不意にぽつりと呟きを漏らした。
「……やっぱでかいよな、お前の背中。羨ましいぜ」
「ろくなスキルもない上に体格まで悪かったら、ここまで長生きできずに野垂れ死んでただろうな。だけどこれでも、同期の連中と比べたら大したことないぞ」
「比較対象がトラヴィスとかだろ? あんなの比べる方がおかしいっての」
まだ酒精が抜けきっていないようで、ガーネットはけらけらと陽気に笑った。
それから今度は、スポンジを左手に持ち替えて、空いた右手で俺の右腕の断面をそっと撫で始めた。
「痛くは……ねぇんだよな?」
「ああ。きっちり塞いだからな。心配しなくたって……」
俺がそれ以上の言葉を発する暇もなく、ガーネットはしなだれ掛かるように俺の背中に抱きついてきて、肩に顎を乗せてきた。
「……なぁ、ルーク。ちょっとばかり、独り言に付き合ってくれねぇか?」




