第578話 心地の良い悪態
次に目を覚ましたとき、桜は自分がひんやりとした空気に包まれているのを感じた。
顔を上げるとそこは赤く灼けた第四階層の地表で、本来なら横たわっているだけでも火傷しかねない場所である。
しかし体に痛みは一切なく、心地よい冷たさだけが全身を覆っていた。
「これは……一体……」
「気が付いたか。まったく……暴れるだけ暴れて気絶するとはな」
桜は座り込んだまま身を起こし、ホワイトウルフ商店の耐熱服がまるでタオルケットのように、昏倒した自分を包んでいたことに気が付いた。
それだけではなく、体の下にも内側を上にした耐熱服が広げられていて、体が灼けた地表に接触しないような配慮もされていた。
「……霧隠、これはお前が?」
「お前がどうなろうと知ったことじゃないが、まかり間違って死なれでもしたら、ルーク殿に申し訳が立たないだろう」
梛は処置の繊細ぶりとは対照的に、心底迷惑そうな顔でそう言い捨てた。
きっと梛は心からの本音だけを喋っているのだろう。
突き放した言動とは裏腹に桜のことを心配していた……なんてことはなくて、一切の他意なく死なれたら迷惑だから尻拭いをしてくれたのだ。
梛がそう考えるだけの動機はいくらでも想像することができる。
本人が言っていた通りルークに顔向けができなくなるというのもあるだろうし、見捨てて死なせたら冒険者ギルドの今後の探索に不利益が生じてしまうというのもあるだろう。
生き延びて新たな力を授かれたのならまだしも、魔将との私闘で死んでしまったら、王国やギルドと魔王軍の同盟までもが悪影響を受けかねない。
そしてもう一つ、至って個人的な理由も思い浮かぶ。
「すまなかった。世話になったな」
「今日は嫌に殊勝だな。気色悪いぞ」
「個人的な事情で先走った私闘だったのは事実だ。ルーク殿や他の方々には謝らなければならないし、それに……メリッサにも心配を掛けてしまったようだからな」
桜がくすりと笑みを浮かべると、梛は忌々しげに口元を歪めて視線を逸らした。
やはりそうだったかと、桜は自分の想像が正しかったことを確信した。
霧隠梛という男が、危険を冒してまで桜の救助にやってきた理由は、パートナーであるメリッサのためというのも大きいらしい。
メリッサは自分達と比べて命のやり取りに慣れていない。
梛が危険な任務に飛び込めば、その身を案じて気もそぞろになり、死者が続出するような事態に巻き込まれれば人並みに憔悴してしまう普通の子だ。
それでも気丈に役目を果たすいい子でもあるのだが、そんな彼女に余計な負担は掛けたくなかったのだろう。
いくら想い人との関係を疑っている同郷出身者とはいえ、こんな形で人が死んでしまうのを、メリッサは肯定的には受け止められないはずだ。
桜も冒険者として、何度かメリッサと探索を共にしてきたので、梛がこういう心配をするのは自然と納得できた。
「あいつのことはどうでもいいだろ。そんなことより、立てるか? さっさと引き上げるぞ」
「……そうだ、スズリは? 魔将スズリはどうなったんだ?」
梛は自分の発言が聞き流されたことに少し苛ついたような反応を見せ、それから桜の質問に過不足なく答えた。
「奴なら五体満足で姿を消した。火之迦具土とやらを昔から知っていたようだから、攻撃を受ける前の時点で効果範囲から離脱していたんだろう。さもなければ……こんなものを回避できるはずがないからな」
呆れたような感嘆したような声で語りながら、梛は桜の最後の一太刀が残した痕跡を見やった。
「お前達の戦いぶりは幻影の淵から観戦させてもらったが……今となっても信じられないな」
少しばかり手前からダンジョンの奥まで、途切れることなくまっすぐ地表に刻み込まれた、一直線の刀傷。
それは子供程度であれば潜り込めそうなくらいに深く、そして断面は異様なまでに鮮やかで滑らかだった。
「これまで神だと思われていた火之炫日女が古代の人間だった……そこまではまだいいとして、火之迦具土とやらは一体何なんだ。それこそが本当の神なんじゃないのか?」
「スズリはあれが火之炫日女の古代魔法だと言っていたな」
「火之炫日女の魂の力を引き出したんだろう。その辺りの知識も入ってきていないのか」
「無理を言うな。そんな余裕なんかなかったんだ」
火之炫日女の魂の一部を再現し、彼女の記憶の末端と切り札の火之迦具土の力を引き出すことはできたが、これらがほんの序の口に過ぎないのは明白だった。
記憶は引き出せた力の扱い方に関するものだけで、その力すらも恐らくは基本中の基本を身につけられたに過ぎない。
「だがそれでも……大いなる力の一端を得られたことに違いはない。魔王軍ですら敗北したアガート・ラムと戦うための、必要最小限の資格は得られたはずだ。ルーク殿に、ご報告しなければな……」
そして桜はおもむろに立ち上がろうとして、襲いかかってきた立ち眩みに耐え切れず膝を突いた。
「……すまない。どうやらまだ動けそうにないようだ。悪いが先に戻ってくれ」
「馬鹿かお前は」
梛は辛辣に吐き捨てて、桜の片腕を自分の首の後ろに回させて、全身で体重を支えながら立ち上がらせた。
「こんなところにドラゴンの餌を置いておけるわけがないだろ。今のお前はただの生肉だ。大人しくしていろ」
「そうだな……生肉は生肉らしく、大人しく運んで頂くとしよう」
いつもと変わらぬ悪態の応酬も不思議と心地が良い。
きっと神降ろしの更なる深奥を垣間見、大きな壁を越えることができたからに違いない。
桜は黙り込んだままでも笑みが浮かんでくるのを堪えきれず、梛から何度も気味悪がられながら、腐れ縁の少年の肩を借りて溶岩の幻影を抜け、自分の帰りを待つ人々のところへと急いだのだった。
――その途中、心配そうに迎え出てくれたメリッサに今の状況を目撃され、かなり大騒ぎされてしまったのだが。




