第577話 火之迦具土
今一度、神降ろしの魔力を最大まで滾らせながら、桜は懐から薄い長方形の金属容器を取り出し、蓋を壊さんばかりの勢いでこじ開けて中身をばら撒いた。
それは無数の呪符であった。
ノワールの【道具作製】スキルによって描き上げられ、メリッサの【属性魔法】スキルの力を織り込まれ、梛の知識を反映されて生み出された東方呪術の疑似再現。
強大な火炎属性の塊である神降ろしを、外部から抑え込み制御する試作魔道具。
将来的には装備品として身に帯びられることを前提としつつ、それが完成するまでの繋ぎとして生産された急造品。
効果は短時間しか望めず、製造にも必要以上の時間が掛かるため、桜はこれを最後の切り札と考えて温存するつもりでいたが――今ここで切り札を切ることに躊躇いはなかった。
「貴様が言う、火之炫日女の魂の力……恐らく私は、以前に一度だけそれを引き出したことがある。いや……借り受けることができたと言うべきか」
無数の呪符が桜の纏う熱気に乗って渦を巻き、穹窿のように桜を取り囲んでいく。
「あれはアガート・ラムの幹部と対峙したときのことだった。心を一つにした、などという殊勝な理由などではない。お互いの動機に共感などできないまま、目的だけが一致したのだ」
桜の肉体を満たす魔力がひときわ輝きを増していく。
それはまるで夜を割く旭のようであり、纏う炎はまさに羽衣の如く。
熱風になびく長髪は光を織り成したと錯覚するほどに煌めき、ある種の神々しさすらも放っている。
赤を越え、緋色を凌駕し、金色へと至る鮮烈な光――太陽の顕現。
膨大極まる魔力と熱量の出現に、岩の天井を舞うドラゴンの一群が脅威を感じたのか、牙を剥き咆哮を吐き散らしながら急降下する。
しかし桜は、その場から一歩も動くことなく目にも留まらぬ斬撃を連発し、刃が届かない距離にまで閃光を繰り出して、ドラゴンの一群を瞬く間に斬り捨てた。
「火之炫日女! お前の愛した男はルーク・ホワイトウルフと共に在る! 彼らがアガート・ラムに……魔王イーヴァルディに挑む以上、私にも共に戦うための力が必要だ! 今一度……否! アガート・ラムを討ち倒す瞬間まで、力を貸してほしい!」
迸る魔力の圧が灼けた地表を圧し潰し、足元に陥没と地割れを広げていく。
桜色の刃は今や白熱を越えて金色に近い輝きを帯び、生身であれば触れただけで炭と化しうるほどの熱を放っていた。
「ここに誓おう! 私は誇りのため、友のために戦うと! ルーク殿の恩義に報いるため! ガーネットの復讐を支えるため! そして……!」
迷いなき桜の眼差しが見据えるは、父の肉体を仮初の器とする魔将スズリ。
アレを父と思ったことはただの一度もない。
けれど、けれども――魔将スズリが神降ろしを知り抜いている原因が、父の意識が残っていることにあるのではないか――そう思ってしまうのを止めることはできなかった。
だとしたらどうする? 泣きわめいて解放を求めるか? 絶望して膝を突くのか?
否、否だ。違う、断じて否。決してそうではない。
もしも魔将スズリの中に不知火蔵人の意識が残っているのだとしたら、不知火桜がするべきことはただ一つ。
「……私は遂に成し遂げたのだと、お父様にお見せするために」
その言葉を口にした瞬間、桜は己の内側からこれまでと比較にならない力が湧き上がってくるのを感じた。
制御不能な暴走する力などではなく、肉体と精神を塗り潰す侵略的干渉などでもなく、魂を揺さぶる熱さと力強さに満たされた衝動だ。
視線の先で魔将スズリが不敵に口の端を歪める。
「ふっ……貴様らの娘は大したものだ。あるいは万全の俺をも越えうるかもしれんな」
スズリはこの場から逃れようという素振りすら見せず、ただまっすぐに桜と対峙したまま、第四階層に響き渡らんばかりの声を張り上げた。
「不知火桜! 今の貴様ならば分かるはずだ! 火之炫毘古と火之炫日女が振るう魔法の名が! 魂に宿った真なる力を引き出す言葉が!」
「ああ……分かるとも。私の魂の一部が火之炫日女の写し身となり、力と記憶を引き出しているのだな……」
「叫べ! その名は!」
桜は刀身を担ぐような構えを取り、灼けた大地を力強く踏みしめた。
「――火之迦具土」
振り下ろされた刃から閃光が――光輝の斬撃が奔る。
それは第四階層の地表を引き裂きながら、目視できないほどの遥か彼方まで一瞬のうちに駆け抜けていき、その過程にあった全てを斬り裂き焼き尽くしていった。
果たして魔将スズリも斬撃の光芒に消え失せたのだろうか――桜はその事実の有無を、自らの五感で確かめることはできなかった。
強大で不慣れな力を急激に行使した反動か、桜は己の意識が急激に薄れていくのを感じた。
けれどこれは、火之炫日女に魂を塗り潰されているわけではなく、ただ純粋に限界を迎えて昏倒しつつあるだけだ。
根拠があるわけではなかったが、自然とそう理解することができた。
「(ああ……この力があれば、きっと私も……)」
従来の神降ろしとは桁違いの圧倒的な火力。
しかもまだ全ての力を引き出しきれていないのは明白だ。
桜は火之炫日女から託された真なる魔法――火之迦具土の強大さと底知れなさに身震いしながら、燃えるような満足感の中で、ひとまず意識を手放したのだった。




