第576話 それぞれが抱く決意
俺の右目――『叡智の右眼』に生じた異変。
ある程度以上の力を引き出そうとすると、目の周辺に陶器のようなひび割れが生じ、青い炎のような魔力の範囲が広がっていくという変化。
自分の顔のことなので、俺自身は実際に目視で確かめられていないものの、傍から見ていたガーネットが焦るくらいには大きな変貌だったようだ。
魔王ガンダルフが俺の『右眼』に起きた異変を知っていること自体は、もはや驚くようなことじゃない。
奴自身があらゆる意味で底知れないのはもちろんのこと、以前に第四階層で交戦した魔将達が想像以上に詳細な報告を上げた可能性もある。
いずれにせよ、ガンダルフが言わんとすることはただ一つだろう。
「肉体だけじゃなく、魂までアルファズルに近付きかけている……そう言いたいのか?」
「その通りだ。貴様は少しずつ着実にアルファズルの域に迫っている。だが、それを恐れて力の行使を躊躇うのであれば、貴様達はアガート・ラムに無残な敗北を喫することになるだろう」
脅しでもなければ誇張でもなく、本気のアガート・ラムと争った者だからこその一言に、俺は口の渇きを覚えずにはいられなかった。
「遠からず、アガート・ラムは貴様達を裏工作の対象ではなく倒すべき敵と認識することになる。そうなればアルファズルの力なくして抗うことはできん」
「……言われるまでもない。もしも俺が大した力を持たなかったとしても、アガート・ラムとの戦いから逃げるつもりなんかないさ。石にかじりついても戦い抜いてやる」
ガーネットの肩に手を置いて、魔王ガンダルフの怜悧な瞳をまっすぐに見据える。
俺はもう、魔王の企みに巻き込まれた被害者なんかじゃない。
自分自身の意志でこの場に立ち、使命を背負って対峙する当事者なのだ。
いつまでも、人間離れした威圧感に怯え竦んでなどいられはしない。
グリーンホロウ・タウンのために働く武器屋として。
陛下から直々に取り立てられた白狼騎士団団長として。
そして何よりも、ガーネット・アルマ・アージェンティアと共に生きると決めた一人の男として。
自己保身のために自分が果たすべき役目から逃げ出すなんて、とてもじゃないができるはずがなかった。
「けれど、お前達の狙い通りアルファズルに乗っ取られてやるつもりもない。魔法だろうと何だろうと……どんな力でも使いこなしてみせるさ」
「結構。期待させてもらうとしよう」
ここに来て初めて、ガンダルフが俺に向けて笑みらしい笑みを向けた――口の端を挙げる程度の表情の変化ではあったが。
「『全智の神眼』を開くがいい。創造の力を振るうがいい。神獣の因子を使役するがいい。貴様にはイーヴァルディに抗い得る可能性が眠っている。その力、どこまで引き出せるか楽しみにしているぞ」
そのとき、突如として地下空間に振動が走り、床や天井が小刻みに揺れ始めた。
ガーネットと勇者エゼルがすぐさま周囲を警戒し、その傍らでアンブローズが何もないはずの天井を見上げる。
そして俺もヒルドも反射的にガーネット達のガードの内側に入り、俺達の中で悠然としているのはアルフレッド陛下ただ一人となった。
無論、ガンダルフとエイルは顔色一つ変えずに佇んだままだ。
「案ずるな。これは第四階層で起きる定期的な現象に過ぎん。その余波が第五迷宮にまで振動として届いているだけだ」
「ダンジョンの自然現象……なのか?」
「第一と第四の階層に跋扈するドラゴン……これらがどこから現れているのか疑問を感じたことはないか?」
ガンダルフは高く薄暗い天井を仰ぎ、迷うことなくとある一点に視線を注いだ。
「第四階層の最奥には一体の神獣が眠っている。肉体は不完全で覚醒には程遠いがな。魔獣スコルが眷属としてフェンリルウルフを生み出すように、かの神獣も不完全な自身を守るための眷属を生み出している」
「それが、このダンジョンのドラゴン……」
「この振動は神獣が定期的に眷属を放出する際の余波だ。膨大な魔力が第四階層を駆け巡り、他の魔力の気配を塗り潰すゆえ、大掛かりな下準備には最適な時期であるな」
かつてアガート・ラムに敗北し、第三階層から追い落とされた魔王軍は、第二階層を経由して第一階層……魔王城領域に拠点を移したと思われていた。
しかしそれは、魔王も四魔将も仮初の器を用いたに過ぎない別働隊であり、本来の主力は人知れず第四階層へと逃れていた、というのが判明したばかりの真相だ。
これまでに長い年月が経過していたにもかかわらず、アガート・ラムが魔王軍の本体の居場所を突き止められなかった理由は、どうやらこの自然現象にあったらしい。
神獣とやらが大量の眷属を解き放つ際には、膨大な魔力の奔流と物理的な激しい振動が同時に発生する。
その間に第四階層で派手な行動を起こしても、神獣の自衛行動に紛れてカモフラージュされてしまうわけだ。
「それにしても、ドラゴンを眷属として生み出す神獣か……うちのドラゴンスレイヤーが泣いて喜びそうな代物だな」
「間違っても神獣を殺すなとそやつに伝えよ。元を断たれてしまっては取り返しがつかん」
大真面目な一言だったはずなのに、どういうわけか冗談のように聞こえてしまい、俺は思わず表情を崩してしまったのだった。
灼熱の第四階層を舞台に繰り広げられる剣戟が、唐突な大地の振動と最奥から吹き付ける熱波によって中断する。
桜は神降ろしを維持したまま魔将スズリから距離を取り、その場で両足を踏ん張って、膨大な魔力を帯びた突風に耐える姿勢を保った。
――岩の天井を無数のドラゴンが飛び去っていく。
一体一体が通常時の桜を苦戦させうるであろう魔獣が、まるで夕暮れ時のムクドリのような塊を成して頭上を横切っている。
「まずい! 探索拠点にドラゴンが……!」
「気にする必要はない。あれらは特定の標的を狙うために放たれたものではない。貴様らの拠点に達する前に散り散りとなるはずだ。そんなことよりも、己の現状を気にかけるべきではないか?」
スズリは仮初の器の顔を晒したまま、冷徹な態度で桜を見やった。
桜は辛うじて神降ろしを維持してはいたものの、その出力は落ちる一方だった。
炎のような輝きに染まった髪は、まるで消えかけた蝋燭のように色を失っては息を吹き返すのを繰り返し、その度に第四階層の熱気が素肌に襲いかかっては再び跳ね除けられる。
「どうやら俺の見込み違いだったのかもしれん。貴様は未だ実力が不足し――」
「――舐めるな!」
桜はスズリの言葉をかき消すように叫び、そして桜色の刀を構え直した。
「この程度で屈していては、ルーク殿にも父様にも申し訳が立たん! 魔将スズリ、目にもの見せてやろう!」




