第560話 深淵と蒼穹
マスター・ジャイルズの隣で、素性不明の大男が分厚いコートを脱ぎ捨てる。
露わになったその素顔を目の当たりにして、俺は魔王ガンダルフの直視を浴びたときよりも更に意識が遠のきそうになった。
――ウェストランド王国国王、アルフレッド。
偉大なるその男が、紛れもなくそこにいた。
「えええええっ! お父……!」
勇者エゼルが危うく自分の秘密を叫びそうになり、両手で口元を抑え込んで悲鳴を飲み込む。
アルフレッド陛下はそんなエゼルに、横目で微笑ましげな眼差しを向け、そして俺達の先頭に一歩進み出た。
そうか、そういうことだったのか――最初の驚きの波が引くにつれて、俺の頭の中に鮮明な納得が浮かんでくる。
護衛隊隊長のクライドの外見的特徴である赤目黒髪は、ホワイトウルフ商店で働いているレイラと同じく、近衛兵団の竜王騎士団を構成する家系に特有のものだ。
一族の出身でも、必ず竜王騎士団に入団するわけではないのだろうと思っていたが、陛下本人がいらっしゃったのなら話は別だ。
むしろ竜王騎士団の団員や縁者がいない方が不自然だろう。
ギルド幹部のマスター・ジャイルズも同様だ。
この人物は冒険者ギルドを率いるギルドマスターの一人であると同時に、冒険者時代のアルフレッド陛下と共に旅をした旧友でもある。
それを加味して考えれば、これほどの大人物が動いたことにも納得できる。
キングスウェル公爵が土壇場で使節団のリーダーになったという経緯も、ひょっとしたら陛下の件を隠蔽するための煙幕だったのかもしれない。
これらの事実を今の今までおくびにも出さなかったあたり、キングスウェル公爵は相変わらず都合の悪い情報を隠し通すことに長けている――これは大臣としては褒め言葉になるのかもしれないが。
「無礼とは思わん。余が対峙するに相応しい相手だ」
魔王ガンダルフが階段を下りきって、俺達と同じ高さの床に立つ。
その直後、魔王を見下ろすことを良しとしなかったのか、四人の魔将がそれぞれの性質が表れた姿勢で着地した。
最高齢のヴェストリはこうなるのを最初から理解していたような余裕を浮かべ、ノルズリとアウストリは気質が合わないにもかかわらず、どちらも魔王の行動に慌てているのが見て取れた。
スズリは相変わらず表情が物理的に見えないが、現状に動揺している気配は全く感じない。
「魔族王ガンダルフよ。こうして直接顔を合わせるのは初めてだな」
「言葉を交わすのはこれで二度目だがな。よもやあのときの若造が大陸を手中に収めるとは。人間とは分からんものだ」
せっかく落ち着いてきた思考が、追加の驚愕に激しく揺さぶられる。
二度目だって? 一体どういうことなんだ?
そんな俺の、いや、魔将も含めたこの場にいるほぼ半数以上の戸惑いを置き去りに、魔王ガンダルフは淡々と陛下との対話を進めていく。
「地上の覇王よ。我らは貴様らが対アガート・ラムに専念し、我らの作戦行動を阻害せぬことを望んでいる」
「こちらもそうしたいのは山々だが、肝心のアガート・ラムが一体何者で、何を企んでいるのかも分かっておらんのだ。これでは魔王軍と比べてどちらが脅威なのか推し量ることもできん」
「無論、理解している。返答の如何にかかわらず、貴様らの無知を埋めてやる程度のことはしてくれよう」
魔王ガンダルフの威圧感は、喩えるならば無限の深淵だ。
底の見えない暗闇の淵に立たされた恐怖にも似た感情によって、深層心理の奥底から縛り付けられてしまうかのような。
対するアルフレッド陛下が放つ威圧は、さながら無限の蒼穹のように感じられる。
見上げるだけで圧倒されるが、そこに恐怖はなく、ただただ心を奪われてしまう。
そんな存在が一定の距離を保って向かい合っているという事実に、俺は思考をかき乱されずにはいられなかった。
「へ、陛下……まさか、魔王ガンダルフのことを、以前から……?」
俺が思わず溢してしまった言葉に、アルフレッド陛下が普段と変わらぬ態度で返答する。
「戦乱の最中、ガンダルフ軍が地上のとある国家を滅ぼし、その跡地が魔物のはびこる『禁域』になった、という話は知っているだろう。世間には伏せられている出来事だがな」
「え、ええ……聞き及んでおります」
「まだ二十にも満たない若造の頃、俺は冒険者として『禁域』に挑んだことがある。そこで現地に残されていた魔王の残滓と対峙したのだ」
ふん、と魔王ガンダルフが言葉を差し挟む。
「あれは地上の様子を窺うために残していた精神体に過ぎん。ルーク・ホワイトウルフ。ちょうど、エイル・セスルームニルが貴様の『右眼』に残した封印のようにな」
魔王ガンダルフはおもむろに俺の方に片手を向けると、邪魔なものを振り払うかのように、虚空で手先を軽く振った。
するとたったそれだけの仕草で、俺の右目の奥が震えるように疼いたかと思うと、魔力の塊が目の横から弾き出される感覚がした。
「なっ……!」
「ルーク!」
俺と魔力の塊らしきモノの間に、ガーネットが素早く割って入る。
それは渦巻く靄のごとく形を変えていき、瞬く間に半透明な若いエルフの女性の形を取った。
『……ガンダルフ』
「懐かしい姿だ。アルファズルが生きていた頃の肉体に執着があると見た」
若いエルフの幻影――エイル・セスルームニルの精神体が、整った顔立ちを歪めてガンダルフを睨みつける。
俺は驚愕と納得を同時に感じながら、半透明で現実感のないエイルの姿を見やった。
以前、ハイエルフのエイルは俺が『叡智の右眼』から必要以上の――エイルがそう考えているだけだが――情報を引き出さないよう、度重なる隠蔽工作を働いてきた。
最終的に俺達はエイルの精神体を排除し、エイルはそれと引き換えに強固な封印を敷いた結果に終わったと思っていたが、まさかあれで終わりではなかったとは。
『あなたね、一体何のつもり?』
「もはや隠蔽は不要だと言っている。貴様が隠そうとしている歴史、余が全て語って聞かせてくれよう」
『……! 待ちなさい! それはアルファズルの遺志に……!』
「手段と目的が入れ替わるとは、まさにこのことだな。アルファズルが望んでいたのは永久的な隠蔽ではあるまい」
ガンダルフは冷たい声色でそう言うと、エイルの幻影から完全に視線を離して俺達に向き直った。
「心して聞くがいい。我々とアルファズル……そしてアガート・ラムの真実を教えてやる」




