第541話 嵐の前の静けさの始まり
その日、俺はいつもと違う部屋で目を覚ました。
自宅であるホワイトウルフ商店のベッドよりも一回り大きく、それなりの大男でもゆっくり眠れるように配慮された寝床。
天井は普通の民家よりも高く、窓が東向きではないせいか明るさの具合も普段と違う。
寝ぼけた頭で、とにかくベッドから下りようと思い、上半身を起こしてから右手を突いて立ち上がろうとする。
……が、何故か全く体を支えることができず、体勢を崩してベッドから下りるのではなく転がり落ちてしまう。
「うおわっ! ……痛たた」
その衝撃で眠気がすっかり吹き飛んだ。
体を支えられなかったのは当然だ。
今の俺には右腕がないのだから。
「おいおい、大丈夫か? 寝ぼけてんじゃねぇぞ」
同じ部屋に宿泊していたガーネットが、呆れと心配の混ざった顔で駆け寄ってくる。
と言っても、いわゆる同衾をしていたわけではない。
ここは元から複数人の宿泊を想定した部屋であり、両端の壁沿いにそれぞれベッドが配置されているだけである。
「多少なりとも慣れてきたつもりだったけど、やっぱり無意識の動作はどうしようもないか」
照れ隠しの苦笑を浮かべながら、改めて立ち上がる。
「ったく……分かってんだろーな。王宮が魔王軍と話をつけて右腕が返ってきたら、すぐに【修復】で繋いじまえよ」
「分かってるって。とはいえ、返答は一ヶ月先だからな。それまでは騙し騙しやっていくさ」
ガーネットは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに首を強く横に振って気弱さを振り払い、普段と変わりない態度で俺の背中を叩いた。
「しゃーねーな。とにかくさっさと身支度して朝飯にしようぜ」
「そうだな、せっかく食堂もあるわけだし、たまにはそっちで食べようか」
「地下にいた間は味気ない飯ばっかりだったからな。俺も騎士団の遠征で慣れちゃいるんだが、そればっかりってのは気が滅入るもんだ」
気持ちを切り替えた様子のガーネットを引き連れて、宿の食堂へと足を運ぶ。
ここは開放型ダンジョン『日時計の森』の第五階層。
冒険者ギルドホロウボトム支部の民間向けフロアに設けられた、春の若葉亭の支店の一室である。
――事の起こりは、Aランク冒険者のセオドアが主導する第四階層探索の準備に、俺達ホワイトウルフ商店も協力を表明したことだった。
第四階層は炎や溶岩、光熱を発する鉱石などに満たされた灼熱の階層であり、装備品にも拠点にも特別な工夫が必要となる。
ノワールやアレクシアに新装備を開発をしてもらう傍ら、俺は【修復】スキルを活用した手法によって、重要設備――探索拠点や第四階層へ下りるための特別な通路の建設に乗り出した。
そして魔物を退けながら拠点の建築予定地へ向かう俺達に、魔王軍四魔将の一人である氷のノルズリが襲撃を仕掛けてきた。
実はあの第四階層には、魔王戦争で敗走して行方を晦ましていた魔王軍本隊が隠れ潜んでおり、第三階層に陣取る真なる敵に対する反撃の機会を伺っていたらしい。
――地上の人間が不十分な備えと覚悟で下りてきたのなら、不用意にアガート・ラムを刺激して好機を失いかねないので、ただの一人も帰還させずに排除する。
――逆に充分な準備をして下りてきたのなら、対アガート・ラムを前提とした会合の場を設けるため、地上の代表を魔王ガンダルフの居場所へと招く。
魔王軍はこうした方針で俺達に接触を図ったのだが、ノルズリが独断専行で攻撃したことで話が少々ややこしくなってしまった。
もう一人の魔将であるスズリは、場を収めて後者の方向性で話を進めるために、人間側と魔族側がそれぞれ担保を預け合い、その上で国王アルフレッドの判断を仰ぐことを提案。
このとき人間側から魔族側へと預けられた担保が、ノルズリとの戦いで偶然にも斬り落とされていた俺の右腕だったわけである――
そうして魔王軍とのやり取りを終わらせてすぐ、俺達は本来の目的である探索拠点の建設を急ピッチで終わらせて、交代要員のパーティと入れ替わる形で『元素の方舟』を後にした。
別パーティとの交代は当初の予定通りの手筈である。
建築作業が魔物を退けながらの難作業になることは明白だったので、輸送や護衛を含む建築作業に携わった人間がそのまま駐留するのは、いくらなんでも負担が大きすぎると判断されたわけだ。
同じく第四階層に下りていたセオドアや、サクラとチャンドラーも俺達と一緒に支部まで戻ってきていて、そして今頃は勇者エゼルを含めた後続部隊が探索に取り掛かっているはずだ。
「セオドアとサクラは一休みしたらまた地下に引き返すんだよな。オレ達はどうするんだ?」
「地上に戻ってしばらく待機だ。王都の方から返事が来るなり、探索パーティが何か発見するなり、進展があるまでは通常営業だな」
ガーネットとそんな会話を交わしながら宿の廊下を歩いていると、すれ違う宿泊客達が誰も彼も俺に視線を向けてくるのが分かった。
「……やっぱり目立つか?」
「目立つに決まってんだろ、この馬鹿」
中身のない右袖をぎゅっと握り潰される。
「お前みてぇな有名人が片腕失くして戻ってきて、しかもどうしてそうなったのかは秘密ときた。オレだって聞き耳の一つや二つは立てるだろうな」
ガーネットに非難がましく睨み上げられてしまったが、本当に批判するつもりがあるわけではないことは、言葉にされなくてもちゃんと伝わってくる。
こいつは理屈や損得勘定とは別のところで、俺が傷つき失うのを快く思っていないだけなのだ。
心からそう思ってくれるのを嬉しく感じる一方で、どうしてもその思いに応えることができないのを心苦しくも感じてしまう。
複雑な思いを抱えながら宿の食堂に足を踏み入れた直後、給仕をしていた少女――シルヴィアが俺達に気が付き、大慌てでこちらに駆け寄ってきた。
「ルークさん! 大丈夫ですか!」