第538話 未探索領域にて
――『元素の方舟』第四階層、未だ冒険者の視界にも収まらぬ未探索領域に、魔将スズリの姿があった。
そこは文字通りの玉座の間。
見上げるほどの高座に王の姿はなく、広間全体も夜のような薄暗闇に満たされている。
唯一の光源は廊下から漏れる明かりのみであり、スズリはその光を背負い、開け放たれた扉の前に佇んで広間を見渡した。
「……陛下はご不在のようだな」
「カカカ。ようやっと戻ったか」
背後から投げかけられた薄気味悪い老人の笑い声に対し、スズリは驚く様子すら見せずに応じた。
長命種でありながら老いさらばえたダークエルフの男――魔将ヴェストリ。
古代魔法文明の末期を生きた魔王ガンダルフが、今もなお青年同然の若々しさを保っているにもかかわらず、こちらは顔も肉体も著しく老化しているという事実。
それはヴェストリが重ねてきた幾星霜もの年月が、文字通りに規格外であることを意味している。
「ヴェストリ、陛下は何処に?」
「無論、来たるべき日への備えを整えておられる。して、首尾はどうだ。人間共は素直に従いそうか?」
「奴らの王に伺いを立てるとのことだ。陛下の指示通り三十日の猶予期間を与え、担保の品も預かった。腐敗せぬよう保管させておけ」
スズリは振り返り様に、布で包まれたものをヴェストリの手元目掛けて投げ渡した。
「腐るものだと? 何と無駄な手間を。もっと相応しい代物はなかったのか」
「相応しいとも。それはルーク・ホワイトウルフの右腕だ。この世に二つとない質草だろう」
「ほほう!」
深い皺が刻まれたヴェストリの顔に喜色が浮かぶ。
「人間が、腕をのぅ。よくぞ差し出したものだ」
「回収できればいくらでも【修復】が利くという魂胆だろう」
「何にせよ、余計な真似をさせぬ担保としては申し分なし。彼奴らが約定を違えたとしても、取り上げた品に最低限の使い道があるのは有り難い」
ヴェストリはエルフに属する身でありながら老人と化すほどに加齢した体を揺らし、喉を鳴らして一頻り笑ってから、ふと思い出したように周囲を見渡した。
「ところでノルズリの姿が見当たらんが……さては人間共を挑発でもして、返り討ちに遭って死んだか。いやそれならば、一足先に戻っているはずだな」
「当たらずとも遠からずだ。詳細は省くが、奴はこの腕の代わりに残してきた。こちらが差し出す担保としての人質としてな」
「カカカ!」
笑うヴェストリの声に被さるように、それとは別の笑い声が謁見の間に響き渡る。
『ふはははははは! 何と滑稽な! この目で見てやりたかったわ!』
それはスズリやヴェストリの声でもなければ、ましてや玉座の主などでは断じてない。
笑い声の発生源は高座に設けられた玉座の更に後ろ。
暗闇の奥にそびえる五つの板状の柱――その一つが淡い光を帯び、声に合わせた明滅を繰り返している。
『奴が進んで人質になるとは到底思えん! 先の話と合わせて考えるに、私情に突き動かされて戦いを挑み、あえなく敗北して捕らえられたといったところか!』
「捕縛される前に俺が動いた。奴の独断専行で状況がこじれかけたのでな。俺の判断で自ら責任を取ってもらうことにした」
『何にせよ滑稽だな! 血肉がないことをこうも残念に思ったのは始めてだ!』
薄暗い謁見の間に豪放磊落な笑い声が響き渡る。
スズリもヴェストリもそれを訝しがることもなく、当たり前の出来事として受け流している。
声の主は、その名を嵐のアウストリという。
四魔将の一角にして、魔王戦争において肉体を失って以来、ノルズリやスズリと異なり人間の前に姿を表わすことがなかった魔将である。
アウストリが物理的な姿を見せず、代わりに玉座の裏の巨大な石版が音を発するという現象は、他の魔将にとって意に介する必要もない当然の光景であった。
「……それともう一つ、陛下にお伝えしたいことがある。俺はこれから再び外に出なければならぬので、お前の口から伝えてもらえるか」
スズリはノルズリの醜態を嘲笑うアウストリを無視して、再びヴェストリに声を掛けた。
「案の定、陛下の佩剣は人間共の手に落ちていた。ノルズリは気が付かなかったようだが、現在はルーク・ホワイトウルフの手中にあるようだ」
『何だと! 人間風情が陛下の剣を! 不遜にも程がある! 何故取り返してこなかった!』
「陛下は捨て置けと仰っていただろう。無意味な回収を優先して策を蔑ろにしては、それこそ陛下を失望させるというものだ」
『ぐぬ……では何故それを陛下にお伝えするのだ』
声色に感情の起伏が激しく反映されるアウストリとは正反対に、スズリはただひたすらに冷静冷徹、淡々と必要な情報のみを語り続けている。
「陛下の剣はミスリルと一体化させられていた。更に魔獣ハティの凍気を利用して、氷の槍の穂先となったうえでノルズリを討ち倒す武器となった……陛下にお伝えしたいのはこのことだ」
『ハティだと? 確かそれは、スコルと対になる氷の魔獣で、神獣フェンリルの……』
「カカカカカ! 何と、何と! あやつはそこまで至っていたか!」
突如、ヴェストリが老体にそぐわぬ声量で高笑いを始めた。
「これはお伝えせねばならぬ! 陛下の耳にお届けせねばならぬ! きっとお喜びになろうぞ!」
『ヴェストリよ……それはこうも興奮することなのか? アダマントの剣にミスリルを足し合わせることに、何かしらの大きな意味でもあるというのか』
「いやいや、それは全くない。確かに強力無比な武具となるだろうが、それ以上でもなければそれ以下でもないとも。重要なのはその過程でな」
『……意味が分からん。俺はノルズリと同じく、お前達ほどには長く生きておらんのだ。遠回しな言及は止めろ』
姿なきアウストリが困惑を深める。
ヴェストリはその反応も愉しむように言葉を続けた。
「アダマントとミスリルの合金化は至難の業。古代魔法文明の優れた技術を持ってしても、終ぞ実現されることのなかった難業よ。ただし、例外が二つ――」
「……アルファズルとイーヴァルディ。前者は魔法的手段によって、後者は物理的手段によってその難業を実現した」
「然り。更に言えば氷の槍とやら。ルーク・ホワイトウルフの力は【修復】だったはずであろう。元あった形の復元に過ぎず、新たな形を与えることなどできなんだはずだ」
くくく、と痩せ細った喉が鳴る。
「では氷の槍とやらの『形』はどこから来た。あの剣が槍であった時代など一瞬たりとも存在せん。ハティの氷も同様だ。あやつは一体どうやって『槍』を成したのだろうな?」
もしもアウストリに生物的な肉体があったのなら、きっと息を呑み表情を強張らせていたことだろう。
陛下がお喜びになる――その発言の意味を理解したことによって。
「あやつは少しずつ、しかし着実に近付いておる。かのアルファズルの領域にな。これは是が非でも陛下にお伝えせねばならんことよ」




