第537話 ひとまずの幕引き
「返答、確かに聞き届けた。滞りなく陛下にお伝えしよう」
相変わらずスズリの表情を窺うことはできないが、俺の返答に満足したというのは伝わってくる。
「次の接触は三十日後だ。貴様達がこの階層に設けるであろう拠点に使者を送る。陛下の御前に馳せ参ずるにせよ、拝謁を拒むにせよ、返答はそのときに受け付ける。では――さらばだ」
スズリが高く跳躍してこの場から姿を消す。
独り後に残されたノルズリは、心の底から忌々しげにスズリを目で追ってから、勢いよくその場に腰を下ろした。
そして、鞘に収めた剣を思いっきり放り投げ、ガーネットの足元まで届くように地面を滑らせる。
「ふん……とても納得できんが、ここで覆せば陛下の威信に傷がつくというものだ。煮るなり焼くなり好きにしろ」
「煮るなり焼くなりって……無事に帰さなきゃ腕が返ってこないだろ。分かって言ってるだろ」
「んなことより、白狼の! いいのかよ、あんな約束なんかしちまって! つーか、右眼! ヤバいってそれ! ちゃんと治るのか!?」
ガーネットが焦りも露わにまくし立てる。
俺の主観だと、さすがに顔がどうなっているのかまでは視えないのだが、この慌てようを見る限り相当危ういことになっているのだろう。
とにかく左手をかざしてスキルを発動させ、右眼の周りに【修復】を掛けておく。
するとガーネットの表情が少しばかり穏やかになったので、外見的にもきちんと元通りになったようだった。
「(けど、何だろうな、これは……右目に妙な違和感がある気がするというか……見え方は変わってないと思うし、何がおかしいのか言葉にできないんだが……)」
果たして本当に違和感と呼べるものがあるのか、仮にあったとしても『叡智の右眼』と関連しているのか――単なる生理的な疲労や痛みの類ではないのか。
判然としないことが多すぎて、今はまだ口に出して伝えようという意思すら起こらない。
とにかくこの『右眼』は、これまで通り濫用せずに気をつけて扱うべき代物だ。
同じ能力を持つ人間の前例すら、遥か昔のアルファズルまで遡らなければならない以上、何かあっても参考にできる事例が存在しないのだから。
「……いやいや! 顔だけじゃねぇって! 腕だ腕! 後で【修復】するにしても、こいつに人質の価値がどこまであるか分かったもんじゃねぇんだ! しかも! 適当な管理で腐らせるってこともありうるだろ!」
「陛下を愚弄するか! 地上の凡百共ならいざしらず、陛下の名において交わされた約定が違えられることなどない! 我らがアスロポリスの法を遵守していたこと、よもや忘れたとは言わせんぞ!」
俺に詰め寄るガーネットと座り込んだままのノルズリの間の空気が、またもや一戦交えることになるのかと思うほどに張り詰める。
その緊迫を打ち破ったのは、まるで空気を読む素振りがないチャンドラーの割り込みであった。
「キャンキャン騒ぐなって。柄でもねぇぞ、アージェンティア。小難しいことは陛下に判断を仰いで丸投げすりゃいいんだよ。こいつらを信じるかどうかも陛下が決めればいいんだ。どっちもそれなら文句はねぇだろ」
押し黙って矛を収めるガーネットとノルズリ。
ガーネットは発言をそのまま受け取って不承不承も納得し、ノルズリは一介の騎士の発言に気を荒立てるのは無意味と割り切った……といったところだろうか。
何にせよ、陛下の判断を仰がなければ何も始まらないのは間違いない。
「んで、大将。こいつをどこに置いとくんです? 地上に連れ帰って銀翼の独房にでも入れますか? それともまさか、白狼の空き部屋でも宛てがいます?」
「さすがに地上はまずい。一般人からは離しておかないと……セオドア卿、この階層の探索拠点に留め置くことはできますか」
俺に話の矛先を振り向けられたセオドアは、スキルを解除して地表に下り立ってから「そうだね」と軽く考え込んだ。
「数日程度ならまだしも、長期間になるなら遠慮したいところだ。魔将を監視しながら探索もするというのは、いくらなんでもこの規模の集団では荷が重い。黄金牙騎士団あたりに任せられないかな」
「確かに、その条件なら黄金牙が一番か……問題は首を縦に振ってもらえるかどうかだけど……」
「ルーク卿からの要請なら彼らも受け入れるだろうさ。これまで何度も恩を売ってきたんだろう?」
セオドアの発言はあまり真に受けられるものではないが、ここは黄金牙を頼るのが一番だというのは間違いない。
候補地としては旧魔王城かホロウボトム要塞か。
どちらもノルズリを置いておけるだけの設備と人員が揃っているはずだ。
彼らにしてみれば、ノルズリは戦場で対峙した敵将なわけだが、陛下の判断を仰いでいるところだと言えば問題はないだろう。
黄金牙騎士団は王国の軍事を司る上級騎士団。
陛下の不興を買うような軽挙は起こさないはずだ。
「いよっし! そうと決まれば、さっさと連れて行こうぜ!」
ガーネットが俺の左腕を引っ張っていこうとするが、いくらなんでもそれは気が早すぎる。
「待て待て。まずは拠点と通路を作ってからだ。そうじゃないと地上にも帰れないんだからな」
一応、ロープに捕まって引っ張り上げてもらうという手段もあるにはあるが、利き腕を失った状態で試すのは危険過ぎる。
ノルズリを上の階層へ連れて行くのは、当初の目的を果たしてからにするべきだろう。
俺がそう説明すると、ガーネットは渋々といった様子で手を離した。
――一連のやり取りを見やっていたノルズリが、何とも言い難い訝しげな表情を浮かべながら、何気なく口を滑らせたかのようにポツリと呟く。
「まるで駄々を捏ねる子供だな」
「んだとっ!?」
ノルズリは自分を睨みつけるガーネットを無視して、俺の方に顔を向けた。
「人間の年齢はよく分からん。実際のところはどうなのだ」
「……年頃としては、親の仕事を手伝うとかで働き始める時期だけど、普通なら一人前にはまだ遠いってところか。こいつの場合は早くから修行を始めてたから、とっくに一人前の戦士だけどな」
あまりにも自然な流れで話しかけられたので、つい雑談感覚で返答してしまう。
ノルズリは呆れやら何やら、諸々の感情が混ざった表情で短く息を吐いた。
「そうか……本当に子供だったというわけか」
「誰が子供だ、誰が!」
次回から3話ほど、幾つかの視点でのエピローグを書いて章の締めくくりとする予定です。




