第534話 氷の魔将と氷細工の職工
「魔王軍四魔将……氷のノルズリ……!」
その姿を目の当たりにした瞬間、俺の頭の中を無数の思考が瞬く間に駆け巡った。
かつて第一階層における戦いに破れた魔王軍は、魔王城の地下を経由して第二階層へ逃走した。
戦線離脱を余儀なくされた兵士や氷の魔将と火の魔将が中立都市にいたことからも、魔王軍が第二階層に逃れたことは明白なはずだった。
それなのにどうして、ノルズリがここにいるというのだ。
奴らにとっても宿敵であるアガート・ラムの目を盗んで、第三階層を突破してきたとでもいうのか。
――全ての思考は一瞬の出来事。
俺は驚きに硬直することもなく、即座にリピーティング・クロスボウをノルズリに振り向けて引き金に力を込めていた。
「反応が遅い」
しかしノルズリはそれよりも更に速かった。
連射された矢弾を容易く回避しながら瞬く間に距離を詰め、その勢いのままに白刃を走らせる。
「……っ!」
俺は咄嗟に【修復】の魔力を全身に巡らせて、どこを斬られても即座に回復できる態勢を整えた。
「もはや貴様を殺せるとは思わん」
しかし刃が俺の右腕を切断するその瞬間、ノルズリは俺の右手首を掴み、腕全体を切断面から力任せに引き剥がした。
「ぐっ、があっ……!」
「抵抗できん程度に解体したうえで、陛下の御前にお連れする。貴様なら、意識さえあればぶつ切りからでも戻れよう」
切断された右腕の付け根が凍結して出血が止まり、切り離された腕は丸ごと氷漬けにされてノルズリの手中に収まる。
その拍子にクロスボウが俺の手から滑り落ち、赤黒い地表に音を立ててぶつかった。
「管理者が定めた面倒な法も、この階層には何の影響も及ぼさん。中立だの不戦だのはアスロポリスにおいてのみ。こうして出逢った以上、見逃す道理はない」
「……その割に、命は取らないんだな」
「本来の目的は別にある。貴様はいわゆる『行き掛けの駄賃』だ。そもそも貴様までここに来るとは思いもしなかったのだからな。どうせ冒険者とやらばかりだろうと高を括っていたが……」
ノルズリはそこで一旦言葉を切り、眼光鋭く俺を睨みつけた。
「続きは後だ。陛下の御前へ運ぶ間に語り聞かせてやる」
「くっ……!」
俺はノルズリから少しでも距離を離そうと横に飛び退こうとした。
ところが、そのために力を込めようとた右脚が、右腕と同じように切断と同時に引き離され、氷漬けにされて【修復】の影響から切り離されてしまう。
俺は立っていることすらままならず、その場に崩れ落ちて片方だけの膝を突いた。
「(まずい……! 【修復】の作用を見切られている……!?)」
奥歯が砕けんばかりに力を込めて歯を食い縛る。
よもやこれまでの戦いで、ノルズリの前で【修復】による自己再生を使い過ぎたことが、巡り巡って自分自身の首を絞めたのか。
このままでは、周りの誰かが異変に気付くよりも、四肢を斬り落とされて連れ去られる方が早い。
抵抗しなければ。時間を稼がなければ。
ほんの少しでもいい。ほんの一瞬でもいい。
例えばガーネットが刃を振るってノルズリを退けるその瞬間まで、岩に齧りついてでも耐え抜かなければ。
けれど、どうやって?
右腕と右脚は奪われた。
きっと返す刃で左腕も斬り落とされる。
クロスボウに次弾を装填することはおろか、左腰に下げた剣を引き抜くことすら叶わない。
永遠にも思える一瞬の間に、思考が際限なく加速と加熱を重ねていく。
視界が歪む。今にも頭が破裂しそうだ。
痛みすら覚えるほどに見開かれた『叡智の右眼』は、ノルズリが剣を振るう瞬間を、異様なまでの低速で捉え続けている。
もはや俺に打つ手など残されては――
「(――いや、ある。一つだけ――)」
その手札を切ったところで現状が覆せるとは限らない。
けれど、何もせずに敗れ去ることだけは、絶対にできない。
刃が届くまでの刹那、俺はコートのポケットに入れたままだったメダリオンに手をかざし、渾身の魔力を注ぎ込んだ。
――ノルズリは思わず我が目を疑わずにはいられなかった。
抵抗する術などなかったはずのルーク・ホワイトウルフが、回避不可能な速度と角度で繰り出された斬撃を、あろうことか右腕で防ぎ止めたのだ。
それは生身の骨肉に非ず。
甲冑のように荒々しい造形で、赤い血液が大理石模様に染み込んだ、透明な氷細工の美麗な腕。
この人間は、如何なる手段によってか生成した氷を用い、失った右腕を【修復】してのけたのだ。
ルーク・ホワイトウルフの身に起きた異変はそれだけに留まらない。
食い縛った歯は牙の如ように鋭く尖り、人の形を保った左眼球は狼の如き灰色に染まり、頭髪は濃淡の斑な灰白色に変わり果てた。
そして『叡智の右眼』と化した右の眼窩は、まるで陶器の人形の破損が広がっていくかのように、眼窩の縁から砕けては孔を広げ続け、青い炎にも似た魔力が激しく噴出している。
「オオオオオオッ!」
「貴様ッ! よもやそこまで……!」
獣同然の咆哮を受け、後方へ飛び退くノルズリ。
ルーク・ホワイトウルフは腰に下げた剣を氷の右腕で引き抜き、その勢いのままに、取り落して地面に放置されたままのクロスボウを両断した。
――否、それだけではない。
クロスボウを断ち切ると同時に、その内部に用いられていたミスリルを、剣の側に取り込み一体化させたのだ。
後方へまっすぐ飛び退いたノルズリに向けて、ルーク・ホワイトウルフが左腕を伸ばす。
逃走を食い止めようという無駄な足掻きなどではない。
右手に握った剣を軸に氷が集まり、ミスリルを取り込んだ剣身を穂先とした氷の槍が形作られる。
それはミスリルが有する魔力との親和性の高さが為せる技か。
伸ばした左腕は槍を擲つための予備動作。
もはや頬骨まで孔と亀裂の広がった『叡智の右眼』がノルズリを捉え、右腕と同様に氷で補われた右脚が地表を踏みしめ、渾身の投擲が繰り出される。
「おのれっ!」
ノルズリが投擲を迎撃すべく剣を振り下ろす。
しかしその剣身は、氷の槍の穂先と化した剣に触れた瞬間、まるでガラス細工のように容易くへし折れた。
「……がはっ……!」
金属鎧をまるで意にも介さず、氷の槍の穂先がノルズリの胴体に突き刺さる。
穂先は本来の剣としての柄まで深々と肉を穿ち、背中からは血塗れの切っ先が突き出して、胴体から溢れた鮮血が氷の柄を赤く染めていく。
深手を負ったノルズリが膝を屈し崩れ落ちるのとほぼ同時に、力の限りを振り絞ったルークもまたその場に倒れ伏したのだった。




