第530話 大仕事の前のささやかな日常
アレクシアとの打ち合わせも終わり、後は第四階層へ下ろす建築資材の準備を待つばかりとなったある日。
俺は武器屋の仕事の合間を縫って、ガーネットを連れて昼食を取るために春の若葉亭を訪れていた。
もはや常連客としか言いようがない馴染みようで、ごく自然に注文を済ませ、雑談を交わしながら届いた料理を口に運ぶ。
何ということはない、ごく当たり前の日常風景。
もうすぐ身を投じることになる危険を思えば、こうして平穏を謳歌するのも大事な下準備だ。
いわゆる心の手入れ。
肉体だけでなく精神も休ませておくことも、休息の大きな意義の一つである。
そうしてガーネットとの食事をのんびり楽しんでいると、シルヴィアがおもむろに俺達のテーブルにやって来て、注文していないはずのケーキセットを二つ置いた。
「あん? オレらは注文してねぇぞ。他のテーブルと間違えてんじゃねぇか?」
「うちの宿からのサービスです」
訝しがるガーネットに、シルヴィアが笑顔で答える。
「もうすぐ大変なお仕事に取り掛かる予定だって聞きましたから。ダンジョンの探索が進むのは町のためにもなりますし、やっぱりお礼くらいはしておかないとってことで」
「礼なんざ気が早ぇっての。成功するかどうかも分かんねぇんだからな」
と言いつつも、ガーネットはしっかりと自分の分のケーキを確保して、フォークで大きめに切り分けて頬張った。
本人は自覚がないのかもしれないが、甘い物を食べるときのガーネットは、いつも本当にご機嫌な表情を浮かべている。
しかしいつまでもガーネットに見とれていては、周囲に怪しまれてしまうしガーネットからも見咎められてしまうだろう。
「成功はさせてみせるさ。ここまで皆が頑張ってくれたのに、俺達が最後の最後でヘマをするようじゃ、それこそ皆に申し訳が立たないからな」
なので適当なところで視線を外し、シルヴィアの方へと顔を向けることにする。
「ところで、町の方だと探索状況についてどれくらい知られてるんだ?」
「ええっとですね……私が知ってる範囲の話になるんですけど……」
シルヴィアはしばし考え込むような仕草をしてから、軽い雑談感覚で俺の質問に答えた。
「火山みたいに熱い階層が見つかったというのは、色んな人が噂していますね。多分ですけど、噂の出どころは冒険者の人達じゃないかなと」
「昔から、人の口に戸は立てられないって言うからな……依頼の情報を漏らすのと違って処罰対象ってわけでもないし」
ギルドが仲介した依頼の内容を外部に漏洩させるのは、説明するまでもなく重大な違反行為だが、依頼外の探索で見聞きした情報については、ギルドから特段の指示がない限りは各パーティの判断に任せられている。
そしてこの『元素の方舟』の場合、探索はAランク冒険者達の主導で行われ、重大な情報には箝口令が敷かれているが、そうではない情報についてはさほど厳しく制約されていない。
何故なら、多少なりとも情報を広めておかなければ、グリーンホロウの住人達に要らない不安を与えてしまいかねないからだ。
「ひょっとしたらグリーンホロウの温泉も、その階層で地下水が熱されたんじゃないかって噂されてるんですよね。火山が近くにあるわけじゃないのに大きな源泉がある理由……その説明になるんじゃないかって」
「断言はできないけど、可能性は高いかもしれないな」
「新しく見つかった階層にも温泉があったりするかもしれませんね」
「固茹で卵が作れるくらいに沸騰してるんじゃないか?」
冗談交じりのシルヴィアの一言に、俺も軽く茶化しながら言葉を返す。
第四階層に液状の水があったとしても、それはきっと泡立つほどの熱湯になっているに違いない。
冒険者が利用しようと思っても冷やすのに一苦労しそうである――沸騰したまま使いたい場合を除いて。
「ミランダさんの製品も量産が進んでるみたいですし、またルークさんもダンジョンに潜って、しばらく地上に戻ってこないんですよね」
シルヴィアは微笑を浮かべ、単なる事実確認であるかのようにそう言ったが、その表情の裏には隠しきれない不安の色が見え隠れしている。
きっとシルヴィアは、俺達が遠く離れた場所で危険に身を投じているにもかかわらず、自分が何の助けもできないことを心苦しく感じているのだろう。
魔王戦争の終盤には、グリーンホロウの住人達も第一階層に集まり、黄金牙騎士団や冒険者達の後方支援に参加していた。
しかし今回は、あくまで特定の冒険者パーティの探索という体裁に過ぎず、普通の住人にダンジョンへ来てもらうようなことはない。
そもそも第四階層の環境は過酷すぎて、ダンジョン探索に慣れていない人達を連れ込むことなど、到底できそうにない階層である。
「……冒険者にとって最も大事なのは、探索を終えて疲れ果てて帰ったときに、安心して休める場所があることなんだ。それがなけりゃ、トラヴィスもセオドアも高ランクダンジョンに潜ったりはしないね」
だから俺は、シルヴィアの優しさ故の不安を解きほぐそうと、あえて軽い態度で言葉を重ねた。
「例外はダスティンみたいに自分の生還を重視しない奴くらいだし、俺みたいな奴にとっては、シルヴィア達が町にいてくれること自体が何より有り難いものなんだよ」
「それに、白狼のにはオレもサクラもついて行くんだぜ? きっちり戦力まで向上させてな。魔王軍の幹部がひょっこり出てこようと遅れは取らねぇよ」
ガーネットも不敵な笑みを浮かべて俺に同調する。
口の端にクリームが付いていなければもっと様になっていたのだろうが、これでは妙な可愛げが出てしまっている。
俺がさり気なく自分の口元を突いてクリームのことを教えると、ガーネットは素早く舌を動かしてそれを舐め取り、素知らぬ顔で頬杖を突いた。
まるで最初からクリームなんか付いていなかったと言わんばかりの態度である。
「……そうですよね! 皆が自分にできることをする、それが一番です! 私も頑張りますね!」
シルヴィアは不安を吹っ切ってくれたらしく、満面の笑みを浮かべながら、胸の前でぐっと手を握り締めた。




