第452話 それが何よりも大事だから
実験室に頭蓋が殴打された音が響き渡る。
吹き抜けの広間に訪れる静寂。
ガーネットがゆっくりと拳を持ち上げると、ヴァレンタインの白覆面に滲んだ血が糸を引いた。
「……ガーネット!」
戦いの終わりを悟るや否や、俺はすぐさまガーネットの傍へと駆け寄った。
大きな負傷をしていないことは『右眼』を通して分かっていたが、それでも不安にならざるを得ないのは当然だ。
ガーネットはヴァレンタインに馬乗りになるのを止めて立ち上がると、物哀しげなようにもすっきりしたようにも見える微笑を浮かべた。
「何ともねぇよ。服も体もやたら頑丈になってるみてぇだ」
「それならいいんだけど……」
本人が大丈夫だと言っていて、なおかつ『右眼』も異常を見出していないなら、過剰に心配するべきではないだろう。
なのでひとまず、俺は視線をガーネットからヴァレンタインへと移動させた。
ヴァレンタインはガーネットの足元で仰向けに倒れたまま、先程からずっと微動だにしていない。
呼吸は続けているようだし、命に関わるダメージを受けている様子はなかったが、あれほど強烈な殴打を受けて無事ということもないはずだ。
「……【修復】は必要ですか?」
「結構。この程度ならすぐに治るさ」
返答は意外にも明朗な声であった。
やはりヴァレンタインに対しても、無理強いをするより意思を尊重すべきだろうと考えて、傷の【修復】はやらないでおくことにする。
代わりに、実験室の床に手を突いて【修復】を発動させ、戦闘の影響で破壊された床と壁を直しておく。
それが済んだタイミングを見計らったかのように、アンブローズがゆったりとした足取りで近付いてきた。
「二人ともお疲れ様。何か得るものはあったかな」
「……知らねぇよ。充分に強化できたってことを理解させられたんなら、それで充分だ」
「まぁ、君の場合はそうなるか」
アンブローズはひとしきり納得してから、俺の方に首を向けた。
「君達は先に休んでいてくれないか。ヴァレンタインのことは任せてもらいたい。そう長くは待たせないつもりだ」
「分かった……この場は任せた」
俺からヴァレンタインに掛けられる言葉など、何一つとして思い浮かばない。
友人を名乗るアンブローズに一任した方が賢明なのは明白だった。
ガーネットを連れて実験室を出て、分厚い扉を閉めたところで、ガーネットとメダリオンの融合を解いていなかったことを思い出す。
一応『叡智の右眼』で見ている限り、何らかの異常が発生しそうな予兆はなく、しばらくこのままでも問題はなさそうだったが、さすがにこのままほっつき歩くわけにはいかない。
メダリオン……厳密にはそれに魔力を注ぐことで生じる魔獣の因子と、生きた人間を一つにする技法なんて、まだ公にできるものではないのだから。
とにかく【修復】で戻そうと腕を伸ばしたところ、ガーネットが手首を掴んで止めてしまった。
「白狼の。単刀直入に聞くぞ? お前から見て……今のオレはどうなってる?」
「どうって……狼の耳と尻尾が生えて、犬歯が牙みたいに伸びてるとしか……」
「ちげーよ。察してるくせにとぼけんじゃねぇ」
「……そりゃあ、分かってるけどな」
困り果ててもう片方の手でがしがしと頭を掻く。
ガーネットが確かめたがっているのは客観的な説明などではない。
俺個人から見た主観的な評価……もっとはっきり言えば、美的にどうか、異性としてどうかという問題だ。
その証拠に、表情は真剣そのものではあるものの、緊迫感とはまるで無縁の穏やかな空気を帯びているし、頬もほんのりと赤らんでいる。
だがこの質問は、俺にとっても非常に答えにくいものだった。
嫌だというわけではない。そんなことはあり得ない。
返答に詰まった理由はただ一つ、言葉にするのが気恥ずかしいからである。
……けれど、答えないわけにはいかなかった。
最初からずっと、俺もガーネットもそれを気にかけてきたのだから。
戦闘能力の向上が申し分ないと確認できた以上、残る問題はこれだけなのだ。
「あー……その、あれだ……」
「…………」
俺が視線を泳がせている間にも、ガーネットはまっすぐ俺を見上げている。
こいつだって直接的に尋ねるのが平気なはずはない。
躊躇やら羞恥やらを踏み越え、気合を入れて問い質しにかかっているのだ。
ならば、俺も覚悟を固めるしかないだろう。
「……率直に言うぞ。最初に見たとき、正直目を奪われたな。普段よりもこっちがいいとは言わないけど、何というか……これはこれでって奴だ」
「煮え切らねぇな。まぁオレも、どっちがいいとか妙なことは聞かねぇけどよ」
眉をひそめて憎まれ口を叩くような態度でそう言いながらも、ガーネットは口の端が緩むのを抑え切れていないようだった。
しかも視線を更に下ろせば、腰の裏側で金色の尻尾がふさふさと左右に揺れている。
――動くのか、アレ。
戦闘中は体全体の動きに釣られて揺れるのと区別できなかったが、今は明らかに尻尾だけが独立して動いている。
犬が尻尾を振るときの感情はよく知られているが、果たして狼の場合はどうだったか。
ガーネットは俺が妙なところを見やっていることに気がつくと、訝しげに目線を追って顔を動かし、そして尻尾が揺れていることに気付いて一気に赤面した。
「うおわっ!?」
がしっと尻尾を鷲掴みにして、勢いよく振り向いて俺を睨み上げる。
「おいこらっ! 見てねぇでさっさと元に戻せっての! 全然慣れてねぇんだよ、この体!」
更に間の悪いことに、実験室で繰り広げられた戦闘の轟音と振動が外部にも伝わってしまったせいか、廊下の向こうから何人かが駆け寄ってくる声と気配がした。
「大丈夫ですか、ルーク団長! 先程の爆発みたいな衝撃は一体!」
「わーっ! 何でもねぇから来んな! 引っ込んでろ!」
大慌てで騒ぎ立てるガーネットの胸元に手を回し、すぐさま【修復】スキルを発動させて、メダリオンを引き剥がすと同時に肉体を元の形へ復元する。
間一髪のところで【修復】が間に合い、ソフィアやマークが廊下の角の向こうから現れたときには、ガーネットの肉体はすっかり元通りになっていた。
ただし、俺もガーネットも酷く慌てて焦っていたので、ソフィアからは何事かと不審がられてしまったのだが。
「問題ないならいいのですが……私も騎士団監査としての役割がありますから、後で報告をいただけませんか?」
「……ああ、報告できるようになったらちゃんと教えるよ……」
この力を実戦で使うのならば、誰にも秘密にしておくということはできない。
ソフィアに後々の報告を約束して、俺とガーネットは一旦この場を離れ、ヴァレンタインとアンブローズを待つことにしたのだった。




