第398話 蘇る過去の幻
「ブラン!」
思わず口をついて出た言葉。血を分けた双子の妹の名前。
サクラが驚き振り返り、窓の人影もハッと路上に目を向ける。
その顔は――ノワールとよく似た色白の顔は、言いしれない驚きと恐怖に目を剥き、怯え竦んでいた。
言いたいことは山程あった。
聞きたいこともたくさんあった。
しかしノワールは、高階の窓から身を乗り出したブランを見上げたまま、喉から声を絞り出すことができずにいた。
右側の横顔だけが見えていたときには気が付かなかったが、互いに正面から向かい合う形になったことで、それまで気が付かなかったことを理解してしまったのだ。
怯えるブランの顔の左側には、歪に抉れたような痕が刻み込まれていた。
「あ、あああ、嘘、嫌……!」
ブランは右腕だけで空っぽな左袖ごと自分の体を抱き締め、小さく首を横に振りながら、青ざめた顔で後ずさっていく。
彼女の肉体に一体何があったのか――それを察せられないノワールではなかった。
魔王城における戦いで、ブランは魔王軍が施策した召喚魔法の呪紋を左腕に施され、ノワールの干渉によって呪紋を暴走させられたことで、空間の歪みに引きずり込まれて消失した。
左腕を奪い、醜い傷を刻み込んだのは、他ならぬノワール自身なのだ。
「どうして、こんな、駄目、だって、でも、違うの、嫌、私は……!」
「待って! ブラン!」
ブランが明らかに錯乱した様子で頭を抱え、フードが外れて白い髪が露わになる。
白と黒の色違いでお揃いだった腰まで届く長い髪は、左腕と同じようにちぎれ落ちてしまったのか、項を覆い隠す程度にまで短くなってしまっていた。
そしてブランは、ノワールの必死の呼びかけに耳を傾けることもなく、今にも倒れそうな足取りで部屋の奥へと後ずさった。
「ブラン!」
「駄目だ、ノワール!」
思わず敷地内へ駆け込もうとしたノワールを、サクラが腕を強く掴んで引き止める。
――次の瞬間だった。
二人から程近い木製の壁に、ブランとは別の小柄な人影が軽やかに降り立った。
「騒がしいですね。お客様の予定はないはずですが」
上質な布地で仕立てられたスカートをふわりと翻し、白いタイツに包まれた脚を露わにしながら、一人の少女が壁の上からサクラとノワールを睨み下ろす。
外見的な特徴は魔族ではなく、まさしく人間だ。
こんなところに少女がいるのかという疑問は、そもそもサクラ達自身が反証となって、浮かぶ側から泡のように弾けて消えてしまう。
探索に適したスキルを磨き上げたのであれば、十五を越えたかどうかも怪しい可憐な少女であっても、熟練の冒険者と肩を並べてダンジョンの奥まで踏み込めるものなのだ。
「君はこの居住区の住人か? 少々話をさせてもらいたい!」
サクラがすかさず声を上げて呼びかける。
しかし少女は、薄手の長手袋に包まれた指先で自分の細い顎を撫でながら、警戒心に満ちた視線を返すだけだった。
「お断りします。何のためにこんな壁があるとお思いですか。我々は部外者との関わりを望んでいません。先住者との近所付き合い程度ならともかく、昨日今日やってきたばかりの地上の人間など、とてもとても」
取り付く島もない返答に、サクラは未練を覚えながら一旦言葉を切った。
少女はしばし無言のまま二人を見やり、そしてサクラではなくノワールに向けて口を開いた。
「ブランとよく似たそこの貴女。一体どのような関係かは知りませんが、おそらく彼女は貴女のことを覚えていないでしょう。先程のように中途半端な苦痛を与えるだけです。どうかお引取りください」
「ど、どういう、こと……!? 覚えて、ないって……!」
普段からは考えられないほどに声を張り上げるノワール。
壁上の少女が辟易とした態度で長々と息を吐いたところで、後方から明朗な老人の発言が投げかけられた。
「事情は俺が説明するぜ」
「アルジャーノン様、お早いお帰りですね」
そこにいたのは、背筋がまっすぐ伸びた健康的な老齢の男だった。
ルークから聞いていた黒いローブは纏っていないが、あれが人間代表の評議員のアルジャーノンなのか。
アルジャーノンの後ろには数名の人間が荷車を動かしており、アルジャーノンの指示でそれを居住区の内側に運び込んでいった。
「後は頼んだ。いつも通り倉庫に突っ込んどいてくれ」
「……わかりました。この場の対応はお任せします」
「おう。さてと……俺も暇じゃないんでな、手短に済ませるぜ」
少女が壁の向こう側へ下りたのを見届けてから、アルジャーノンはサクラとノワールの方へと向き直った。
「俺がブランを拾ったのは、アスロポリスにもだいぶ住み慣れてきた頃だった。何かの魔法の実験でも失敗したのか、全身ズタズタの状態で地面に転がってやがったのさ」
「……うっ……」
「これでも評議員なんで放っておくわけにもいかなくてな。連れ帰って治療を受けさせたはいいが、片腕を含めた結構な量の部分と、ボロボロになった心までは治せなかったわけだ」
淀みなく続くアルジャーノンの語りに、サクラが素早く割って入る。
「先程の少女は『覚えていない』と言っていましたが、本当に記憶を失っているのですか?」
「さぁな。別に俺らは専門家ってわけじゃねぇ。名前以外のことを聞き出せてねぇ以上、適当な憶測しか言えないなぁ。覚えてないのか言いたくないのか……ま、俺らにとってはどっちでもいいこった」
サクラはあまりにも素直な返答に却って面食らってしまった。
こうもハッキリと『自分達には分からないから聞いても無駄だ』と言い切られてしまったら、これ以上の疑いをぶつけても無駄だと納得せざるを得ない。
仮に追及を続けたところで、分からないものは分からないし分かる必要もない、と言い続けられるだけで打つ手がなくなってしまう。
サクラはノワールと目配せをして小さく首を横に振り、今回の偵察はここまでだと言外に伝えてから、再びアルジャーノンへと視線を戻した。
「……そうですか、お騒がせしました。ところでこれは個人的な質問なのですが、不知火蔵人という名前に覚えはありませんか?」
「シラヌイ・クロード? 何でお前さんがその名前を……ん、んん……?」
アルジャーノンは訝しげに顔を歪めたかと思うと、まじまじとサクラの顔を覗き込み、そして大袈裟に感情を露わにしながら両腕を広げた。
「マジかよ! 信じられねぇ! もしかしてあんた、シラヌイ・サクラか! クロードの奴が故郷に残してきたっていう!」
「覚えておいででしたか。父が……不知火蔵人がどうなったのかは……」
「忘れるわけもねぇ! あんたらの頭領にも話したと思うが、俺達が魔王城を密かに通り抜けようとしたときに、あいつが一人で全員逃しきってくれたのさ! しっかし、参ったなぁ……」
嬉しさと困惑が入り混じった表情で目元と口元を歪めながら、アルジャーノンは豊かな白髪頭を掻いた。
「大恩人の娘を追い払うのはいくらなんでも道理に悖るぜ。かといって自由に入ってくれとも言えねぇが……そうだな、茶の一杯でも楽しむくらいの時間なら、俺の裁量でどうにかなる。どうだ、寄ってくかい?」




