第391話 その頃のグリーンホロウ 前編
――団長のルーク・ホワイトウルフが地下に発って数日。
留守を託された騎士の一人であり、ルークの血を分けた弟でもあるマーク・イーストンは、作業机の椅子の背もたれに体重を預けながら、疲労の込もった息を吐いた。
目の前には割り当てられた大量の書類仕事。
マークはちょうどそれらをこなし終えたばかりであり、しばらくは書類に目を通したくないという思いが、胸の内で絶え間なく渦巻いていた。
「やっと一段落……一息入れよう。確か、好きに使っていい茶葉がまだ残ってたような……」
マークはおもむろに席を立ち、真新しい廊下を休憩室に向かって歩いていった。
戦闘技能に秀でたわけでもない新人騎士という立場上、こういった場面で留守番に回されるのは当然だと考えてはいたが、まさか事務仕事を基本から叩き込まれることになるとは思ってもみなかった。
将来的な仕事の役に立つと分かってはいても、やはり大変なものは大変だ。
そうして休憩室の前まで来たところで、まさに思い浮かべていた本人とばったり出くわしてしまう。
「げっ……」
「おや、マーク卿。作業は終わりましたか?」
青孔雀騎士団の女騎士、ソフィア・ウェッジウッド。
マークは同僚であり先輩騎士でもある彼女に対し、何とも言えない苦手意識を抱えていた。
そもそも、青孔雀騎士団は他の騎士団の活動に不正や怠慢がないかを確かめる、いわば監査役を担う騎士団である。
決して少なくない数の騎士が、自分達の仕事ぶりを疑いの目で調べる青孔雀を快く思っておらず、マークも所属騎士団の紫蛟の先輩達から色々と吹き込まれていた。
頑固さ、しつこさ、抜け目のなさ。
どれも監督役としては必要不可欠な能力だが、その対象となる側にとってはたまったものではない……と。
「……ええ、ちゃんと終わりましたよ。なので一息入れようかと」
「それは結構。適切に休息を取るのも騎士の素質ですから。多忙になったときに時間を工面して体を休められるかどうかで、仕事の効率も格段に変わってくるものです」
ソフィアはまるで教官のようなことを語って聞かせてきた。
これまでにマークが知らずしらずに積み上げてきた、苦手意識という名の先入観とは明らかにずれている。
確かに厳しくはあるのだが、不正と怠慢を追及する監督官としての厳しさではない。
まるで、今のうちにマークを一人前に鍛え上げて、白狼騎士団の力になるようにしているかのようだ。
「この前からずっと思っていたんですが。ソフィア卿の任務は白狼騎士団の監査でしょう? 事務仕事やら新人教育やらは管轄外なのでは?」
「……それも仕事のうちですけれど、今の私は白狼騎士団の一員でもあります。ルーク団長から直々に託された以上、全力で任務を遂行するまでですよ」
確かにルークは、留守の間の本部管理と会計処理を、自分から望んでソフィアに任せていた。
活動を始めたばかりの騎士団に探られて痛い腹などなく、これまでの金銭処理も全て見せたのだから、青孔雀出身だろうと心強い仲間であることに変わりはない――というのが理由だったはずだ。
だが新人教育までは命令していなかったはずなのだが。
マークの記憶が正しければ、ソフィアに信頼を寄せるルークに対し、他の騎士団が青孔雀に向ける警戒心の理由を説明したところ、半ば報復のようにソフィアから言い出したことだった。
「……ソフィア卿。念のために確認しておきますけど、あの人は王都に婚約者がいますからね? 銀翼騎士団のご令嬢で、我が兄ながら言葉を失うくらいに若……」
またもや藪をつついて蛇を出す羽目になる気配を感じ、マークは発しかけた言葉を飲み込んだ。
ただ単に、団長と婚約者の年齢が倍も違うことに言及しようとしただけであり、他意は一切合切全くない。
間違ってもソフィアのことを若くないと言おうとしたわけではない。
そもそもマークとソフィアの年齢に大差はなく、騎士としての経歴の違いも、一般人から採用されて十五から訓練を始めたマークと、騎士の家に生まれて幼い頃から基礎を学んで早くに叙任されたソフィアの違いでしかない。
マークは頭の中で様々な角度からの言い訳をフル回転させながら、おずおずとソフィアの方へと視線を戻した。
しかし、ソフィアは呆れたようにふるふると首を横に振るだけだった。
「私が恋慕の情で動いているとでも? 確かに信頼していただいたことは喜ばしいですが、そんなことで横恋慕に走るほど子供ではありませんよ」
「ああ……下世話な誤解をしてすみません」
「それはそれとして、断じて行き遅れということもありませんのであしからず。せっかくですので簡単な仕事をもう一つお願いしましょうか」
にっこりと笑うソフィア。
マークは頬を引きつらせながら、差し出された封筒を受け取ることしかできなかった。
「冒険者ギルドへの依頼書です。必要書類は全て入れてありますから、ギルドハウスに届けてきてください。それが済んだら今日の仕事は終わりでいいですよ。現地で夕食でも取ってください」
「……いいんですか? いつもより早いですが」
「たまには構いません。こちらも少し野暮用がありますから、教官の真似事は一休みしようかと」
怒っているのかいないのかよく分からない応対に、マークは少しばかり困惑を抱いていた。
最初からこう伝えるつもりでいたが、多少腹の立つことを言われたので、軽く脅しを含ませたといったところだろうか。
団長なら他人の顔色を読むことに慣れているはずだから、ソフィアの意図を汲んだ対応ができたのかもしれないが、マークは曖昧な表情で了承を伝えることしかできなかった。
「分かりました。ギルド支部に届ければいいんですね」
「いえ、ギルドハウスで構いませんよ。そちらの方が比較的近いですし」
マークは軽く天井を仰ぎ、グリーンホロウの主要施設の位置関係を思い浮かべた。
冒険者ギルドのシステムについての知識は一般人に毛が生えた程度だ。
いつかどこかで聞いた話だと、ギルドは二種類の出張所を大陸全土に持っていて、地域の活動の中心となる大規模拠点をギルド支部と呼び、地方の町や村に設けられた小さな拠点をギルドハウスと呼ぶのだったか。
「ギルドハウスの利用者は低ランク冒険者が中心だったと思うのですけど。騎士団の依頼なら支部が適切では?」
しかしソフィアは、くすりと小さく笑い返した。
「大袈裟ですね。この建物の周りの掃除を依頼するだけですよ。山の中だけあって、少し気を抜いたらあっという間に木の葉や枝で大変なことになりますから」




