第367話 出立前の一夜 後編
――ノワールは冷たいシャワーで汗と汚れを落とし、長い黒髪が吸い込んだ水気をタオルで吸い取りながら、女同士の歓談が続く寝室へと戻った。
四人部屋にちょうど四人。
過不足なくスペースが使われている感覚だ。
ノワールは話の輪の隅にひっそりと腰を下ろすと、自分が水浴びをしている間に変わったことがなかったか確かめようと、さり気なく視線を巡らせた。
会話の中心にいるのは変わらず勇者エゼルだ。
同性とお喋りがしたい欲求を、ここぞとばかりに満たそうとするかのように、自分から積極的に話題を振り続けていた。
サクラはしっとりと湿った長い髪を、普段のように括らず自然に背中へ垂らした状態で、刀の手入れをしながら会話に加わっている。
そしてヒルドはフード付きの部屋着で頭を隠したまま、興味のある話題については饒舌に口を挟んでいるようだった。
状況は先程と全く変わっていない。
ノワールは奇妙な安堵感を覚えながら、エリカが調合してくれたヘアオイルを荷物から取り出して湿った髪に塗り始める。
しばらくそうしているうちに、いつの間にか勇者エゼルがじっとこちらを見つめていることに気がついた。
「……あ、あの……?」
「うーん……やっぱり長い髪っていいなぁ」
ヘアオイルをくれたエリカもそうだが、不思議とこの髪を褒めてもらえることが多い気がする。
自分としてはむしろ、サクラのようにまっすぐな黒髪の方が綺麗だと思っているのだが。
「手入れも大変なんだろうけど、何ていうか工夫のしがいがありそうで羨ましいよね」
「伸ばしてみようとは思われないのですか?」
決して長くはない自分の髪を弄るエゼルに、ヒルドが素朴な疑問を投げかける。
「んー、やっぱり激しく動き回ると邪魔になりそうだからなぁ。戦うときだけいちいち纏めるのも面倒だし。肩くらいまでなら何とかなるかも?」
エゼルはそこまで言ってから、目の前に長髪の剣士が座っていることに気がついた顔をした。
「そういえばサクラってその辺どうなの? 凄く長いけど邪魔になったりしない? 【縮地】で瞬間移動して戦うから気にならないのかな」
「私か? 実のところ、邪魔に感じることがないと言えば嘘になるな」
「えっ、ほんと!?」
意外な返答にエゼルが身を乗り出す。
ノワールも目立つ反応こそしなかったが、内心ではかなり興味を惹かれていた。
「頭髪は呪術的な媒体として優れていると聞く。だから、もしかしたら神降ろしを安定させる助けになるのではと考えて、時間を掛けて伸ばしておいたんだ」
「なるほどー……実用性重視だったんだ」
「実際に、神降ろしの最中は頭髪と炎が混ざり合う感覚がするから、一定の効果はあったんだろうと思っているぞ」
頭髪と魔力の親和性の高さはノワールもよく知っている。
古い様式の魔道具には、女性の長い頭髪を材料として編み込むことになっているものも少なくない。
ただし最近はより優れた材料が普及しているので、魔道具に頭髪を用いるのはあえて古典的なスタイルに拘りたい場合か、少数生産かつ低コストで済ませる場合くらいのものだろう。
また一方で、他の魔法使いとの交友関係に乏しいノワールでも、サクラのような目的で髪を伸ばしている魔法使いを何人か知っている。
効果の程はそれなりでも、ただ生きているだけで伸び続けるものを有効活用してやろうという考えは、決して珍しいものではないのだろう。
もちろん、動きにくさや手入れの煩わしさを理由に、頭髪を短く切り揃えてしまう魔法使いも珍しくはないのだが。
ユニークな事例だと、毎日のように調合中の大釜に髪を浸してしまうから長髪を止めたという、真偽を疑うレベルのうっかり者の噂を聞いたこともあったほどだ。
「(……やっぱり、上手には話せないな)」
内心で自分の口下手ぶりに辟易する。
何かと社交的だった双子の妹なら、こうして頭の中で思い浮かべた内容を、面白おかしい話題として語って聞かせることができたはずだ。
昔は頭髪を魔道具の材料として使っていたこと。
粗忽ぶりのせいで何度も長髪を台無しにし、諦めて短髪に変えてしまった魔法使いがいること。
どちらもこの場を盛り上げるには充分な話の種だったに違いない。
「ノワールさんもやっぱり、そういう理由で伸ばしてるんですか?」
「えっ……!? ま、まぁ……そんな、ところ、だ……」
エゼルから急に話の矛先を向けられたことに驚き、つい中身のない返答をしてしまう。
けれど本当は違う。
髪をこんなにも伸ばし始めた理由は、ブランが自分達には長い髪が似合うはずだと言い出したからだ。
またもや話題を提供する機会を逸した形だが、今回ばかりはそれで良かった気がする。
――そもそも、ブランは批難されて当然のことをしてしまったのだ。
探索を継続するためとはいえ、ルークを『奈落の千年回廊』の只中に置き去りにしてしまおうと提案したこと。
人ならぬものに改造されるのを回避するためとはいえ、人類を裏切って魔王の尖兵になってしまったこと。
前者については黙認した自分にも責任の一端があり、後者についてはブランの死亡をもって解決した扱いになっているが、だとしても繊細な話題であることに代わりはない。
しかも、ブランに手を下したのは姉である自分自身なのだ。
身内として果たすべき責任であったと確信してはいるが、妹を殺めた事実を重く見る者がいることも理解している。
こんなにも楽しげな空気を壊しかねない発言は、間違ってもするべきではない。
胸の痛みは心の底に押し込んで、今はただ歓談の席を楽しむだけだ。
「……ノワールさん。そのヘアオイルはどこでお買い求めになったんですか?」
不意にヒルドが全く違う話を持ちかけてくる。
ノワールは戸惑い言葉に詰まりながらも、どうにか声を出して返答した。
「エ、エリカ、が……作って、くれた、んだ……」
「なるほど。アンジェリカ様に差し上げたら喜ぶかも……あっ、アンジェリカ様というのは私達の騎士団の団長です」
「……それなら……後で、もっと作って……と、頼んで、みる……」
「本当ですか? ありがとうございます。さすがは薬術師……こういったものも作ることができるんですね」
何気ない日常的なやり取り――自分がこんな風に他の誰かと話をすることができるのは、数え切れないほどの偶然と心優しい人達の存在があってこそ。
ノワールは言いしれない幸運を噛み締めながら、それを掴むことができなかった妹に思いを馳せるのだった。




