第362話 管理者との接触
――冒険者のキャンプを後にしてしばし。
幾つかの丘を越えたところで、これまでの野山の夜景とはまるで違う光景が視界に飛び込んできた。
地下空間の暗い天井から降り注ぐ、星明かりと月明かり程度のささやかな光に照らされる、ひときわ広大な地底湖。
その中央付近に眩い光の塊が浮かんでいる。
先頭を歩いていた勇者エゼルは、丘の頂上の最も見晴らしのいい場所で立ち止まって感嘆の声を上げた。
「凄い……ひょっとして、あれが……?」
「魔族の町、アスロポリス。報告書にあったとおりの風景だけど、こいつは想像以上だな」
俺も勇者エゼルの隣に立ち、眼下の光景を注意深く観察する。
地底湖の中央で光の塊のように見えているのは、町の随所を照らし上げる照明の光に満たされた島の姿だ。
比較対象にできる物がないので規模の推察は難しいが、町というよりも小規模な都市に片足を突っ込んでいるようにも思える。
「とにかく、まずは湖畔まで行ってみよう。そこまで近付けば、管理者とやらも俺達が来たことに気がつくだろうからな」
『――いいえ、その必要はございません』
どこからともなく響き渡る、聞き慣れない声。
次の瞬間には全員が臨戦態勢を取り、ガーネットとエゼルが俺を挟むように剣を構えて周囲を睥睨した。
『警戒をお解きください。我々に敵意はありません』
声が聞こえてくる方向に注意深く視線を動かす。
そこにぽつんと生えている一本の枯れ木――その表面が波打つように動いたかと思うと、まるで人間の輪郭のような形で隆起し始めた。
『ようこそ、ルーク・ホワイトウルフ。私は管理者フラクシヌス。故あって仮初の器でお話をしなければならないこと、誠に申し訳なく思います』
声は間違いなくあの枯れ木から聞こえている。
しかし人間の口から発せられた音ではなく、まるで別の音を組み合わせて声のように仕立て上げたかのようにも受け止められる、本当に奇妙な響きの声であった。
「管理者フラクシヌス……あなたがアスロポリスの長ですね。白狼騎士団団長のルークです」
枯れ木に浮かび上がる輪郭はどんどん鮮明になっていき、最終的には極めて精巧な木製の胸像のようになり、瞼までも開いてしまうほどだった。
俺は驚きを押し殺し、可能な限り落ち着いた振る舞いをするように心がけた。
これも既に冒険者ギルドからの報告で聞いている。
アスロポリスの管理者を名乗る存在は、本体ではなく仮初の肉体で冒険者達に言伝を残したのだと。
「人類側の責任者との直接対話を望まれていたと聞いています。一体どのような交渉の必要があるのでしょうか」
対話を試みながらも警戒は緩めない。
万が一、フラクシヌスが手の平を返して俺に攻撃を加えた場合、俺自身に抵抗する術はないだろう。
そのときはガーネットやヒルドを始めとした仲間達に頼るしかなく、また何があっても守り抜いてくれるという信頼もあった。
『――しばしお待ちを。接続の確立を完了させます』
数秒の間を置き、枯れ木の表面に浮かび上がったフラクシヌスの瞳に光が宿る。
その瞳はまず俺を見据え、次にガーネットを見やり、そして勇者エゼルを視界に納め――突如として動きを止めた。
人間でいうなら『驚きに言葉を失っている』とでもいうのだろうか。
表情の変化に乏しいので本当のところは分からないが、何か注意を引くことがあったのは間違いない。
「え、ええと、私が何か……?」
エゼルが困惑気味に声を漏らす。
フラクシヌスは再び無機質な目を俺に向け、口を動かすことなく言葉を発した。
『失礼しました。あの剣はドワーフがとある人間のために拵えたもの。今は貴方達の手中にあるのですね』
「代々保管していたドワーフから正式に譲渡されて、俺が修理も兼ねて手を加えました。もしや気に障るようなことでも?」
『いいえ、その剣が現代まで受け継がれた事実を喜ばしく感じただけです。それを振るいながら攻撃技能を用いたことはありますか?』
発言の後半はエゼルに向けられた質問のようだったので、俺はエゼルに顔を向けて回答を促した。
「実はまだ……試しに使わなきゃと思ってはいるんですけど……」
『機会があれば遠慮なく振るうとよいでしょう。きっと驚くはずですよ』
エゼルに対して思わせ振りなことを告げてから、フラクシヌスはすぐに脱線を正して本題に入った。
ここまでのやり取りだけでも、この樹人が無機質で無感情な存在ではなく、知性と感情を備えた知的生命体であることがひしひしと伝わってきた。
今の肉体は仮初の代用品なので、表情らしい表情は全く浮かんではいないのだが。
『アスロポリスはあらゆる勢力に対して中立を貫き、いかなる種族であっても受け入れるという理念を掲げています。しかしそれは、我らの中立と理念を尊重する方々に限っての話……』
「俺達がアスロポリスのルールを守ると約束しないなら、地上の人間を町には踏み込ませないということですね」
『はい。ですから、この階層を探索している人間達を統括する責任者……すなわち白狼騎士団を率いる方と交渉する必要があります』
まったく、逃げ出したくなるくらいに責任重大だ。
こういう用件であることは事前に分かっていたので、ギルド支部の支部長であるフローレンスからも、交渉と判断を白狼騎士団に委任する同意を取り付けてある。
なので、いちいち他の組織と話し合うために地上へ戻る必要はなく、この場で判断を下すことも許されているのだけれど――だからこそ重圧も大きかった。
俺は呼吸を整えながら、横目で一瞬だけガーネットの方を見やった。
ああ、そうだ。こんな重圧がどうしたというのだ。
アージェンティア家の令嬢の伴侶に相応しい男になってみせると、レンブラント卿に正面から啖呵を切ったじゃないか。
この程度で怯んでいるようでは、とてもじゃないが成し遂げられるわけがない。
「承知の上です。条件を教えてください」
『ご理解いただき感謝します。まずひとつは……』
フラクシヌスは人類側に対する要求を簡潔に並べ立てていく。
――一つ。都市内における勢力および個人の諜報活動と、自衛を除いた武力行使を禁止する。
ただし、管理者に申請した上での情報収集および決闘はこれにあたらない。
――一つ。都市から移動する勢力および個人への攻撃は、該当者が一定の範囲から離れるまで禁止する。
たとえ戦争中の敵対勢力に対してであっても、都市を出た直後の対象に攻撃を加えた場合、攻撃者は都市に全面敵対したものとして扱う。
――一つ。都市の恩恵を受ける勢力および個人は、都市の安全と中立を保つための奉仕活動を請け負う。
具体的な内容は、各自の能力に応じたものを管理者が都度割り振るものとする。
『この他にも細かな法律はありますが、まずはこの三条件を受け入れていただかなければ、アスロポリスへの立ち入りを許可するわけにはまいりません』
正直、驚かなかったといえば嘘になる。
一体どんな要求を突きつけられるものかと身構えていたが、蓋を開けてみれば真っ当そのもの。
中立を堂々と名乗るだけはある内容であった。
「町への出入りや、決まり事を破らない範囲での行動は自由なのですね?」
『もちろん。我らはあらゆる種族が、その体を休めるためのとまり木です』
「三番目の条件……奉仕活動の内容に同意できない場合は?」
『アスロポリスでの滞在継続は許可できませんが、それ以上は特にございません。ご自由にアスロポリスを離れて頂いて構いませんし、その場合も二つ目の条件が適用されます』
俺はしばし考えを巡らせ、挙げられた三つの条件と質疑応答の内容に落とし穴がないことを念入りに確かめてから、前に進むための返答を返した。
「条件を受諾します。もっと踏み込んだ話は町の中でいたしましょう」
『畏まりました。それでは湖畔へご移動を。アスロポリスへの道をご用意します』




