第334話 それは恋する乙女の如く 後編
メリッサが地表に広げたスクロールに勢いよく両手を突き、ウォーターヴェールよりも更に高出力な水の魔力を注ぎ込む。
「ええと……属性定義変換、四大より五行へ! 陰陽属性、陰! 癸を以て丙に剋する! ええい! オンミョウジのマネごとだぁ!」
次の瞬間、五ヶ所に打ち込まれたポイントから膨大な魔力が迸り、ルークとサクラを中心とした五芒星の陣を形成する。
水属性を帯びた魔力の障壁のおかげか、周囲に放たれる熱気と光輝が薄まりを見せ、皮膚をじりじりと焼かれる感覚も消えていく。
ノワールのスキルで魔道具に加工された短剣と、様々な属性の魔法を使いこなすメリッサのスキル。
それらにナギがもたらした東方魔術の知識をかけ合わせた、大規模な対火炎封印術式。
これが神降ろしの暴走に備えて用意されたという対抗策なのか。
しかし、ナギは現状の結果に対して苦々しげに表情を歪めていた。
「駄目だ。外への影響だけしか防げていない……メリッサ! もっと出力を上げられないのか! 力負けすれば逆に焼き切られるぞ!」
「水虚火侮でしょ!? 全力でやってるけど……これ以上は……!」
「……仕方ない」
苦しげなメリッサに負荷を強いることはできないと考えたのか、ナギはもう一本の魔道具の苦無を腰から引き抜いた。
「本体に直接楔を打ち込む。今なら間に合うはずだ」
「ちょ……ちょっと待ってよ! ルークさんだから耐えられてるんであって……!」
「安心しろ、一瞬で片付けてみせる。それなら十分に――」
「――オレが行く!」
そう決めてから行動に移るまでの間は皆無に近かった。
ガーネットは横合いからナギの魔道具を力尽くで奪い取り、強化された脚力で一気に駆け出した。
ナギのスキルであれば即座に追いつくことが可能なはずだが、奪い返しに追ってくる様子はなかった。
きっと何も言わずともガーネットの意図を理解したのだ。
ガーネットが携えるミスリルの剣は、ノワールによって魔力の斬撃を放つ機能と魔力防壁を展開する機能を付与されている。
この防壁とメリッサのウォーターヴェールの護りがあれば、規格外の高熱であってもしばらくは耐えられるはずだ。
更にかつてルークが都合してくれたこの服は、多くの部位がドラゴンの革で、即ち炎と熱を強力に防ぎ止める素材で作られている。
そして何よりも――ルークを守るのは自分だという決意があった。
隣にあるべきは自分だという誇りがあった。
灼熱に焼かれて苦しむルークをただ見ていることしかできないだなんて、そんなもの自分が焼かれた方が百倍マシに決まっている。
「……ぐうっ!」
五芒星の結界を踏み越えたその瞬間から、ウォーターヴェールの護りが数秒と持たない勢いで消えていく。
逆手に構えた剣から防壁を展開し、灼熱の壁に穴を穿つ勢いで更に加速。
だがそれでもガーネットの顔には耐え難い苦悶が浮かび、足を前へ運ぶ力すらも焼き尽くされそうになってしまう。
――そのとき、どこからともなく投げつけられた分厚い布が、防壁の範囲外の側面から顔面めがけて投げつけられた。
「わぷっ……!? こ、こいつは……」
スズリが纏っていた外衣、その一部だ。
本人の火炎にも、神降ろしを発動させたサクラの灼熱にも耐え抜く素材というだけあり、激流のごとき熱波すらも見事に防ぎ止めている。
どこかから自然に飛んできたというのはありえない。
熱波はルークとサクラを中心に拡散しており、外衣が自分に向かって飛んでくるのは流れに逆らっている。
元の持ち主の姿はどこにもないが、炎の塊と化した首を断たれてなお生き延び、どこかからこれを投げ渡してきたのは間違いない。
「……借りとは思わねぇぞ!」
ガーネットはスズリの外衣を大雑把に引っ被り、剣の防壁を翳して最後の間合いを全力の踏み込みで駆け抜けていった。
総身を焼かれる苦痛を堪えながら腕を伸ばす。
絶え間ない全身【修復】の影響か肉体の動きが鈍く、普段なら一秒も掛からない距離が永劫のようにも感じられる。
俺が苦悶と共にサクラの――炫日女の体に触れようとする間に、炫日女の方がおもむろに腕を上げて、俺の頬を両手で挟み込んできた。
――【修復】速度を越えた加熱が頬を焼く。
奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛る俺のことなど気にも留めず、炫日女は恍惚とした表情で『右眼』を覗き込んでから、視線だけを動かして左目を見た。
「こっちは邪魔ね。違うものが見えているみたい」
まるで余所行きの服についた綿埃を摘み取るかのように無造作な仕草で、炫日女は頬に添えたままの右手の親指を、俺の左眼窩にずぷりとねじ込んだ。
「が……っ! ぐああああっ!」
視界の半分が焼き潰され、『右眼』が捉えた光景だけが眼前を埋め尽くす。
そこにいる炫日女は無邪気な少女だった。
俺に対して何の価値も見出していないことを除けば、想い人との再会に胸を躍らせる乙女としか感じられなかった。
けれどだからこそ、どこまでも残酷なのだ。
「邪魔なところを焼いて捨てればいいのかしら。それとも中身を空っぽにすれば出てきてくださる?」
「……そういうわけには、いかねぇな……!」
感覚の薄れた手で炫日女の両肩を掴み、【修復】に支障がない程度の魔力を割いて【解析】を発動させ、『右眼』から得られる情報と合わせて現状を分析する。
「(まだ、間に合う……【修復】さえできればサクラを元に戻せる! だけど……この状況じゃ、これ以上の魔力を割くことは……!)」
絞り出せる魔力を片っ端から【修復】に回すことで、辛うじて装備と肉体の焼却と復元を釣り合わせているのが現状だ。
サクラを元に戻せるだけの魔力を割けば、結果が出る前に俺の体が燃え尽きてしまうだろう。
だが、魔力残量を競い合っても俺に勝ち目は一切ない。
伝令として送り返した精霊獣がキャンプに到着し、異常を知ったロイが応援に駆けつけてくれるとしても――間に合う気は全くしなかった。
「(死なない程度に体の【修復】を絞ればどうにか……いや、それでもギリギリだ……試してみる価値は、あるのか……?)」
いや――あるはずだ。
このままではどうせ俺は死ぬ。
仮に今すぐロイが到着したとしても、現状を打破する対抗策を思いついて実行するまでの間に、残りの魔力結晶も含めた俺の魔力が底を突いてしまうだろう。
ならば分が悪かろうと賭けるしかない。
もしも失敗してしまったときは――
「――ごめんな、ガーネット」
焼き潰された視界の左半分にあいつの姿が浮かんでくる。
これまでに色んなあいつの表情を見てきた。
敵前では勇ましい戦士の如く。ホワイトウルフ商店の仲間達の前では生意気な悪童の如く。
そして静かな夜に二人きりのとき――それは恋する乙女の如く。
迷いを振り切ってサクラの【修復】に魔力を注ぎ込もうとしたまさにその瞬間。
「おおおおおおおおっ!」
灼熱の空間を突っ切って、ガーネットがサクラの背中に短剣を突き立てた。




