第333話 それは恋する乙女の如く 前編
もはや躊躇する理由はない。
俺は迷うことなく右目に手をかざし、眼球を分解して『叡智の右眼』を発動させた。
「ぐっ……!」
膨大な魔力の輝きが『右眼』に飛び込んできて、目が眩みそうになる。
うごめく炎の帯。太陽さながらの光輝。
サクラの長い髪が、震える四肢が、端から炎と化して瞬く間に解れていく――そんな光景を幻視する。
まさかと思って『右眼』を細め、視界の主軸を左目に切り替える。
左目で見たサクラは体の端から帯状の炎の渦に包まれ、瞬く間に人の形をした炎の塊に変わり果てていく。
肉体が焼かれているわけではない。
あくまで衣のように纏っていた炎が広がっているだけだ。
しかし『右眼』は今もなお形を失い続けるサクラの姿を捉えている。
「(まずい……! 何が何だか分からないけど……あれは止めないといけないモノだ……!)」
あの現象が何を意味するのか『右眼』は教えてくれなかったが、放置していいものであるはずなどない。
一刻も早く【修復】すべく駆け出そうとするも、たった一歩踏み出しただけで肌を焼く熱気の壁に阻まれて、それ以上の身動きが取れなくなる。
「アレの顕現は我らとしても看過できん。第一拘束解放、火焔躯体起動――」
スズリが肉体を炎の塊に変じさせ、これまで以上の速度でサクラに肉薄する。
瞬き一つの間に、人の形をした二つの炎の塊が接敵し、灼熱の刃が振り抜かれた。
断ち切られて宙を舞う右腕。
握り締められていた鋼色の刀が滑り落ち、焼けた地面に突き刺さる。
間髪入れずに二の太刀が繰り出され、緋色の刀が炎に変じた首を水平に斬り落とす。
――とてもじゃないが視認できない早業だった。
俺が見えたのは結果だけ。
炎の魔人へと姿を変えたスズリが、一瞬のうちに右腕と首を斬り落とされたという結果だけが、俺の視覚で捉えられた全てだった。
サクラの全身を包んでいた炎が爆発するように弾け飛ぶ。
閃光と熱風が周囲を薙ぎ払い、視界の外でメリッサが耐えきれずに地面を転がる気配がした。
「つっ……!」
俺は吹き飛ばされないように全力で踏み止まり、両腕で熱風から顔面を庇いながら、見開いた『右眼』でサクラの姿を見据えようとする。
炎の衣の内側から姿を現したのは、明らかにサクラとは異なる少女であった。
明らかにサクラよりも幼い容姿。太陽のように煌めく長い髪。
共通しているのは人種と性別くらいのものだろう。
しかしその姿は『右眼』を通したときだけで、左目はこれまでと変わることなく、神降ろしを発動させたサクラの姿を捉えている。
二つの異なる姿が一つに重なって見えるという異常。
あまつさえ、俺にとってその少女の姿は、嫌というくらいに印象深く見覚えのあるものだった。
「……あれは……まさか……!」
以前、ハイエルフにして北方連合議員のエイルの策略で、『叡智の右眼』が内包する記憶世界――らしきものに引き込まれたとき。
俺は蝋人形のような過去の人物の似姿を見た。
それは生きた人間だった頃のアルファズルの姿であり、まだ若さの残る魔王ガンダルフとエイル議員であり、見知らぬドワーフとドライアドであり。
――そして赫く輝く髪を持つ東方人の少女であった。
今ならば分かる。俺の『右眼』が少女の名を告げている。
「……炫日女……」
その名を呼んだ瞬間、赫い髪の少女と重なり合ったサクラがこちらへ振り返る。
嬉しそうに、まるで子供のような笑顔を浮かべ、手を伸ばして駆け寄ってくる。
無邪気な歩みが踏み出されるたびに、地面を覆う草が焼尽し、焼けた鉄を押し当てられたかのごとき痛みが表皮を苛む。
もしも【修復】の魔力を全身に巡らせていなければ、とっくに激痛でのたうち回って息絶えていてもおかしくはなかった。
スズリも先程の爆風で吹き飛ばされて視界から消え失せ、もはや彼女の歩みを阻むものは何もない。
吸い込んだ息が喉を焼くほどになった直後、サクラが俺の胸に飛び込んできて、背中に腕を回して力を込めてきた。
「がっ……! あぐっ……!」
度を越した熱量に、もはや熱さを熱さとして感じることすらできず、肉体が欠落したかのような冷たさが全身を駆け巡る。
焼ける服を、焦げる肌を、一瞬ごとに焼き切れる視覚を全力の【修復】で復元し続けながら、どうにか腕を動かしてサクラにも【修復】を掛けようとする。
腕を僅かに動かすごとに【修復】が要る。
さもなければ即座に肉が焼け固まってしまう。
しかしサクラは――否、サクラの肉体を乗っ取った炫日女はそんなことなどお構いなしに、恋する乙女さながらに頬を染めて俺の顔を見上げた。
「やっと会えた、アルファ!」
「違、う……俺は……アルファズル、じゃ……」
「ええ、貴方は違うわ。今はまだね。だけど、もうすぐ!」
「……っ!」
ここに至って俺はようやく気が付いた。
炫日女は俺のことなんか見てはいない。
俺の『右眼』にアルファズルの存在を見出して、ただそれだけを見つめているのだと。
眼前で巻き起こる異変に、この場の誰もが射竦められたように動けなかった。
太陽が地上で産声を上げたと錯覚するほどの光輝と灼熱。
衝撃の事実に茫然自失になり、自らの炎に包まれたはずのサクラが、目にも留まらぬ斬撃でスズリを斬り捨てたかと思うと、歓喜を露わにしてルークに抱きついたのだ。
こんな異様を何の前触れもなく見せられて、己が何をすべきか即座に判断できる人間などいないだろう。
そもそもにおいて、灼熱の発生源がどこなのかすらも判然としないのだから。
「……ルーク! サクラ!」
しかし、この場の誰よりもルークやサクラと共にあったガーネットだけは、誰よりも早く彼らの窮地を悟った。
灼熱の発生源はサクラだ。明らかに彼女は正気を失っている。
そしてサクラに抱かれたルークは、全身を【修復】し続けることで原型を保っているものの、普通ならば焼死してもおかしくない熱に晒され続けているのだ。
「まさか、神降ろしの暴走か! 不知火め……!」
ガーネットの尋常ならざる反応を見て、ナギもまた異変の原因を理解する。
「メリッサ! 起きろ! 水剋火の陣を敷くぞ!」
「えっ!? あ、わ、分かった! とにかくまずは、ウォーターヴェール!」
魔力の水気が三人の体をヴェールのように覆う。
ナギは即座に高速で地表を駆け、熱波をウォーターヴェールで凌ぎながら、灼熱の中心にあるルークとサクラを大きく取り囲むようにして、等間隔な五ヶ所に独特の形状の苦無を突き立てていく。
「やれ! メリッサ!」
「了解っ!」
メリッサが地表に広げたスクロールに勢いよく両手を突き、ウォーターヴェールよりも更に高出力な水の魔力を注ぎ込む。
「ええと……属性定義変換、四大より五行へ! 陰陽属性、陰! 癸を以て丙に剋する! ええい! オンミョウジのマネごとだぁ!」




