第332話 第一被検体
「ぐうっ……!」
スズリの刃を受け止めたガーネットが、踵で地面を削りながら後ずさる。
スキルで肉体を強化し、人間の数倍もあるゴーレムを投げ倒すほどのガーネットが、ああも一方的に力負けする――普通なら信じ難い異常事態であるが、相手が魔将ならば何の不思議もない。
巨漢と呼べる氷のノルズリや嵐のアウストリと比べれば小柄だとはいえ、スズリもまた魔王軍四魔将の一角。
真っ当な常識が通じる相手であるはずがないのだ。
「……おおおっ!」
ガーネットが膂力を振り絞り、スズリを後方へ弾き飛ばす。
着地して瞬時に態勢を整えるスズリ。
一秒にも満たないその隙を突き、神降ろしを発動させたサクラが、閃光と共にスズリの背後に横薙ぎの斬撃を繰り出しながら出現する。
全身が転移を終えた瞬間には、既に刃がスズリの首元に迫る必殺の間合い。
しかしスズリは恐るべき反応速度で身を翻し、総身を捻るように斬撃を掻い潜ったかと思うと、その回転力を乗せてサクラに打ち上げるかのような蹴りを叩き込んだ。
「がっ……は……!」
力任せに宙へ浮かされたサクラをスズリが斬り裂かんとする。
だがサクラは、何と刀の柄を握る手と鍔を靴底で蹴りつけ、その踏み切りによって【縮地】を発動させて再びスズリの背後を取った。
踏み切りの勢いを乗せた斬撃が繰り出されると同時に、気配を察知したスズリが身体を反転させて刀身をかざす。
刀身と刀身の接触によって軌跡にズレが生じ、斬撃はスズリを捉えることなく宙を切ったが、僅かに掠めた切っ先が灼熱を放ち、スズリの頭部を覆う布を焼き払う。
「霧隠ッ!」
炎に視界を塞がれながらも、スズリが的確な刺突をサクラめがけて放つ。
しかしサクラは既に【縮地】で離脱し、入れ替わりで間合いの僅か外に現れたナギが、親指大の小さな魔道具を幾つか放り投げて飛び退いた。
炸裂する魔道具。
迸ったのは爆風ではなく、視覚を眩ます閃光と煙幕、そしてほんの僅かでも動きを阻害するための、パラライズを始めとする微弱な魔法効果の数々。
ほんの数秒程度の足止めにしかならないだろうが、それでも値千金の時間稼ぎだ。
「今だっ!」
俺の合図でメリッサが魔法を発動させ、俺自身もリピーティング・クロスボウの引き金を引き絞る。
煙幕の向こうのスズリめがけ、氷の槍と疾風を帯びた矢弾の雨が横殴りに降り注ぐ。
装填した矢弾は風の魔法効果による高速弾。
それに同じ魔法のスクロール・カートリッジで加速の重ねがけを施して、弾速と貫通力に重点を置いた代物だ。
「(事前に取り決めておいた、手に負えない怪物が現れたときのための連携戦術……まさか魔将に使うことになるなんて思わなかったが、どこまで通じた……?)」
当然だが、これで倒せたとは微塵も思わない。
この程度でどうにかなる相手なら、魔王戦争のときに俺達はああも苦労しなかったのだ。
三秒程度の沈黙の末、ガーネットが口惜しげに表情を歪める。
「……クソッ、駄目か」
煙幕が燃え盛る斬撃で切り払われる。
そこに凝然と佇むスズリの肉体は、恐るべきことに全くの無傷であった。
「悪くない戦術だ。しかしあの程度の術式では、陛下より賜りしこの体躯を縛るには、到底足りなかったようだな」
俺達はただの一人の例外もなく驚きに言葉を失い、次の一手に取り掛かることを忘れていた。
――それは五人がかりの連携がまるで通じなかったからではない。
頭部の布を取り払われたスズリの素顔が、ダークエルフのそれではなく人間だったからだ。
壮年も終わりに差し掛かった東方人の男――しかし眼球はドラゴンと同じ爬虫類的な瞳孔を持ち、首筋から頬にかけてを厚い鱗が覆っている。
思い出すのは、竜人に改造された勇者ファルコンと剣士ジュリアの姿。
彼らほど無残に変わり果ててはいないものの、同系統の技術によって肉体を作り変えられていることは明白である。
魔王ガンダルフの言を信じるなら、ファルコン達よりも前に改造を受けた人間が一人おり、その成果によって改造技術が確立したのだという。
そしてファルコンよりも前に『奈落の千年回廊』を踏破した可能性がある東方人を、俺は既に知っている。
「……第一、被検体……そうか、そういうことなんだな……」
「ほう? さすがに察しがついたようだな。ならば隠すことはあるまい。この体躯は用済みになった第一被検体を調整し、我が器として下賜された――」
直後、スズリが言葉を切ってどこかを睨む。
その視線の先にいるサクラは――
「……■■■……■■、■……」
――絶望に目を見開き、うわ言のように口を動かしていた。
俺には聞き取ることができても理解はできない言語。恐らくは東方語だ。
理解することは不可能でも、どのような感情を抱いているのかは否応なしに伝わってくる。
もはや心はここにあらず、神降ろしの光と熱に滾る体は脱力しきり、緋色の刃も力なく地面に垂れている。
「■■■■……」
「……っ!」
続いて発せられた言葉に反応したのはナギただ一人。
ナギは俺が説明を求めるより早く振り返り、想像だにしなかった一言を叫んだ。
「あれはっ! 不知火の父親だ!」
「なっ――」
驚愕と納得が同時に思考を駆け巡る。
サクラの父親は死んだはずだ。
神降ろしの試みの失敗によって力に飲まれ、屋敷諸共に燃え尽きて。
しかし、そもそもにおいて、果たして彼の人物の死体は確認されていたのだろうか。
屋敷が跡形もなく燃え尽きたため、中にいた男も死んだものと思い込まれていたのではないのか。
手記を残した冒険者が本当にそうだとしたら、深い後悔と懺悔の感情を抱いていた妻子とは――そして彼が恐れていた、我が身を乗っ取る『何か』とは。
「莫迦が! 己を手放すな! 取り込まれるぞ!」
そのとき突如として、俺の知る限り初めてスズリが張り上げた声が響く。
想定外の展開に対応する暇もなく、サクラの総身を羽衣のように包んでいた炎が渦を巻く。
「――っ!」
もはや躊躇する理由はない。
俺は迷うことなく右目に手をかざし、眼球を分解して『叡智の右眼』を発動させた。