第328話 黒い瘴気の侵蝕
「な……何だこれは……何があったんだ……?」
丘の上に立ち並ぶ天幕には、どれを覗いても苦しみに喘ぐ負傷者が横たわっていた。
全身のあちらこちらを包帯で覆われ、酷く咳き込みながらも、簡易ベッドに力なく横たわる冒険者達。
野戦病院でなければ疫病流行の真っ只中だ。
想定外の惨状を前に、俺達の誰もが言葉を失ってしまう。
エリカは目眩を堪えきれずにふらつき、メリッサは口元を手で押さえて立ちすくみ、マークも青褪めた顔で周囲を見渡している。
そんな俺達のところへ、顔面に魔獣の爪痕の古傷を残した青年が歩み寄ってきた。
「お久し振りです、ルークさん。ろくな歓迎もできそうになくて申し訳ないです」
「ロイ……! とにかく事情を説明してくれ。魔王軍か? それとも魔物か?」
幸いにも無傷のようだったロイをすかさず問い詰める。
この状況で真っ先に想定すべきは魔族か魔物の襲撃だ。
特に今回は魔王城から撤退した魔王軍を追跡し、逃走経路を辿る形でこの階層に到達したのだから、伏兵やあるいは追撃時の戦闘で被害が出てしまった可能性は否めない。
しかしロイは、即座に首を横に振って俺の懸念を全面否定した。
「どちらでもありません。そもそも魔王軍はあの塔を通過していないようですから」
それはどういう意味だと問うより早く、ロイが天幕の覗き窓の外に視線を移す。
満月の夜と同程度の薄暗さな天井を背景に、何本かの細長いシルエットが地下空間を縦に貫いている。
「……ここと『魔王城領域』を繋ぐ『塔』は一つじゃなかったってことか」
「はい。魔王軍は大量の物資を牽いて大勢で逃亡していたはずですが、僕達が下りてきた塔の周囲にはそのような痕跡はありませんでした」
「塔の周りの草木もそれほど踏み荒らされてなかったしな。連中は別の塔を経由してここに降りたとして……それに魔物でもないとしたら、一体どうしてこんなことになったんだ」
愉快なおしゃべりなんかしていられる雰囲気ではない。
すぐにでも本題に入らなければならない状況だ。
ロイもそれは承知の上で、必要最小限の情報を優先的に伝えてくれた。
「瘴気です。肺を侵し皮膚を焼く黒い霧……便宜上『瘴気』と呼称していますが、実のところ正体は分かりません」
「具体的な症状を教えてくれ。もしかしたら【修復】でなんとかなるかもしれない」
「分かりました。現時点で判明していることを全て伝えます」
――ロイが言うには、彼らが瘴気と仮称する黒い霧に素肌が触れると、激痛と共に表皮が炭のように変質してしまうのだという。
錬金術の覚えがある冒険者の見立てだと、まるで錬金術師が使う濃硫酸で砂糖を炭化させたかのようだが、見た目以外の性質は全く違うとのことだ。
不思議なことに、同じ濃度の瘴気に晒されても症状には個人差があり、ある人物が肌を焼かれても、別の人物は吸い込んだのに平気だったこともあるという。
「恐らく、各個人の魔力抵抗や自然治癒力によって被害に差があるのだと思います。僕は両方の強化スキルを授かっているせいかもしれませんが、救助のために前が見えないくらいの濃度の瘴気に突っ込んでも、この通り全くの無傷でしたから」
十分に有り得る話だ。
スキルの有無によって天地ほどに変わってくるのは、何も見た目で分かりやすい身体能力ばかりではない。
ダンジョン内の特殊な環境から受ける悪影響に対抗するスキルも、冒険者にとっては大きな強みとなる能力である。
しかし俺は、魔力抵抗によって耐えることができるという情報を、むしろネガティブな意味合いで受け取っていた。
「そいつはあんまり良い情報じゃないな。魔力抵抗が有効に働くということは、単なる有害物質じゃなくて魔獣の能力や呪いの類の可能性が高いぞ……くそっ、こんなことになると分かってたら……」
ノワールを連れてくればよかった――そんな言葉が喉元まで出かかったが、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
あいつが仕事に追われるような状況を継続させていたのも、地上での仕事を優先させることにしたのも、全ては俺の責任で行った決定だ。
こんな他人事みたいな後悔の言葉を吐くべきじゃない。
それに、ここにいるのがノワールなら良かっただなんて、俺の都合で悩ませ覚悟させてしまったエリカに失礼過ぎる。
だから俺は、現状の手札で状況を打破すべく、すぐに思考を切り替えた。
「ロイ。この惨状は報告書を送った後に起こったんだな?」
「当時はまだ濃度の薄い瘴気しか発見していませんでした。吸い込むとしばらく痛みと咳が続く程度で、厄介かつ面倒でしたがしばらく経てば治癒しました」
「魔法による治療は?」
「続けていますが、成果は思うように上がっていません」
「……分かった。俺も【解析】と【修復】を試してみる」
手近なベッドに横たわっていた冒険者のところへ駆け寄り、許可を得て腕の包帯を解かせてもらう。
まるで黒い痣、あるいは濃紫色の瘡蓋のような痕跡が、右腕の手首と肘の間を酷く侵している。
「その男は、革の長袖越しに、瘴気に『掴まれた』と言っていました」
「掴まれた? 着衣の革の方には何の影響もなかったのか?」
「本人はそう見えたと言っていました。どの患者も着衣は侵食されていませんでしたから、僕もこいつが呪いの類か魔物の能力であるという仮説に賛成します」
「だけど焼却すれば無力化できる……花粉みたいな細かい粒子を媒介にしているのか……? くそっ、考えても仕方ない。とにかく【修復】を試すぞ」
いざとなったら『右眼』に頼るのもやむ無しと考えながら、侵蝕部分に近い肌に触れて【解析】と【修復】を発動させる。
魔力を流し、表皮の情報を読み取り、治せる部分を治して不可逆の部分は分解を――
「――いや待て。違う。この黒く変色した部分、痣でも瘡蓋でもない……別の生き物だ!」
「何ですって!?」
ロイが天幕全体に響き渡る驚きの声を上げた。
「花粉みたいだと喩えたのは当たらずとも遠からずだったな……きっとこうやって繁殖するタイプの魔物なんだろう。濃度の高い場所を探索したら、犠牲になった動物の死体がそこら中に転がってるかもな」
しかし相手が生物となると、もしかしたら【修復】が役に立たないかもしれない。
あらゆる生物は魔力抵抗を持つ。
一部の冒険者が瘴気の侵蝕を受け付けなかったのもそのためだ。
そして【修復】の派生である【分解】もまた、生物に通用するかどうかは魔力抵抗とスキルの出力のせめぎ合いなのだ。
「発光苔や擬態ミミックなら【分解】に成功したことがある。こいつも動物じゃないなら……試して見る価値はあるはずだ」
発動スキルを【分解】に切り替え、表皮に巣食う瘴気の産物に渾身の魔力を注ぎ込む。
黒く変色した患部で、謎の魔物の魔力抵抗と【分解】の魔力がぶつかり合い、削り合う感覚が伝わってくる。
歯を食いしばってとめどない疲労を堪え続け、最後の一押しとばかりに魔力を注いだ瞬間、黒紫色の瘡蓋状の物体が砕けるように弾け飛んだ。
「やった!」
後ろから様子を見ていた冒険者達が――ロイやサクラもだ――喜びを露わにする。
俺は赤い肉が剥き出しになった患部を【修復】し、額に滲んだ汗を拭って深く息を吐いた。
「やりましたね、ルークさん! これで治療も……」
「……いや、悪いけど無理だ」
想定外の発言を受け、ロイが完全に固まってしまう。
「やっぱり魔力消費が激しすぎる。この人数じゃ、持ってきた魔石を使い切っても全然足りそうにない」
「じゃ、じゃあどうしたら……」
「肺のダメージみたいに致命的なところは、俺が優先的に何とかしよう。それ以上は手に余るんだが……確か、自然治癒力と魔力抵抗で侵蝕を防げたんだよな」
侵蝕を未然に防ぐことと、受けてしまった侵蝕を押し返すことでは、要求される作用が全く異なるかもしれない。
だが試してみる価値はあるはずだ。
直接的には意味がなかったとしても、自然治癒力を高めることはあらゆるダメージに対して意味があるのだから。
俺は即座にそう考えを纏め、人垣の後ろで立ち尽くすエリカへと向き直った。
「エリカ。とびきり効果のある薬を作ってくれ。そうすれば自力でどうにかできるかもしれない」
「えっ……?」
唖然としたまま、皆の視線を一身に浴びるエリカ。
しかし今度の決断は早かった。
これこそがここに自分がいる意味だと、最初からずっと心に決めていたかのように。
「……わ、分かりました! 全力でやってみます!」




