第293話 逃げ場のない悪夢
改めてエイルが右手を前に伸ばそうとした瞬間――
「…………があっ!?」
突如としてその背中が斬り裂かれ、鮮血が飛び散った。
「生きてるか、白狼の!」
エイルの背中を斬り裂いたのは金剛鉄の剣。
そして剣を振るったのは、他でもないガーネットであった。
「な、何故……!」
風の魔法で素早く距離を取るエイル。
明らかに、一体何が起こったのか理解できていない様子だった。
俺がやったことは、理屈の上では至って単純。
受け流された金剛鉄の剣の刃部分が、階段の入口を塞ぐ障壁に当たるように投擲したのだ。
どこを狙って投げればいいのかは『叡智の右眼』が示してくれたので、残る問題は俺が狙い通りに投げられるかという、正直に言って割と分の悪い賭けであった。
そしてもう一つの要因は、階段を駆け上がってくる何者かの存在を『右眼』が捉えていたということ。
この状況で駆けつけようとする奴なんてガーネット以外にはいない。
ガーネットの技量と判断力ならば、障壁を破って転がり落ちてきた金剛鉄の剣を拾い上げて素早く攻撃に転じるのも容易なはず――そう期待した結果は大正解であった。
自分の命を賭け金にして一点全賭けするような行為だったが、賭ける相手がガーネットなら躊躇う理由はなかった。
「下で待ってろって言わなかったか? けど、ありがとな。おかげで助かった」
「悪ぃな。デカい爆発みてぇな音がしたのに戻ってくる気配がねぇもんだから、思わず体が勝手に動いちまった」
にやりと笑ってみせるガーネット。
理由も含めて想像通りだ。
やっぱりこいつは期待を裏切らない。
「で、こいつは一体どうなってやがるんだ?」
「説明は後だ。まずは離脱するぞ!」
その一言だけでガーネットは即座に離脱を承諾し、何も言わずに俺の後に続いて階段へ飛び込んだ。
一瞬遅れて突風が階段の入り口に叩きつけられ、狭い空間に吹き込み加速した風圧が俺達二人を押し流した。
「のわっ!?」
「ガーネット!」
とっさに俺の腕を掴んでいつものように抱えようとするガーネットだったが、スキルを使えない現状でそれは無茶だ。
俺は逆にガーネットを抱き込み、そのまま階段を何度も跳ねながら転げ落ちた。
そして一番下まで落下したところで、腕の力に限界が来てガーネットを離してしまう。
「白狼のっ……! 何やってんだよ!」
「痛たた……久し振りだな、痛みが長引くこの感覚……最近は何かあったらすぐに【修復】してたからな……」
ガーネットに続いて、物陰に身を隠していたヒルドも駆け寄ってくる。
心配されるのは悪い気はしないが、さすがに今はそんな場合ではない。
俺は階段の上で起きた出来事のうち、重要な部分だけを素早くヒルドに伝えた。
「向こうにエイル議員がいた。北方樹海連合のエイル議員だ。厳密には精神体の複製とか何とからしいけどな」
「そんな……! ハイエルフの一人がどうして……!」
「『右眼』を魔法で調べたらこの世界に引きずり込まれると気付いてたらしい。だから余計な知識を持ち帰らせないように、待ち伏せをして俺達をぶちのめしてから記憶を改竄するつもりだったんだ」
先程の広間で見た物言わぬ六体の人魔――俺の想像が正しければ、古代魔法文明の記憶と思しきこの仮想世界に、彼らが仲間のような雰囲気で集っていた時点で相当な発見だ。
ハイエルフにして連合議員のエイルはもちろんのこと、眼帯姿の人間と金剛鉄の剣を携えたダークエルフのことも、俺は以前から知っているはずだった。
アルファズルとガンダルフ。
根拠はない。どちらも老いた姿と現代の姿でしか遭遇したことはないから、若い頃の姿は想像で逆算するしかない。
そして残る三人のうち、ドワーフとドライアドについては思い当たる記憶がなかったが、どういうわけか太陽のように煌めく髪色の東方人だけはそう断定することができなかった。
記憶にはないはずなのに、何か決定的な見落としをしているような――
「ですが、エイル・セスルームニルが関わっているなら納得できることがあります」
驚きから立ち直ったヒルドが真剣な顔で口を開いたので、思索を一旦打ち切ってそちらに意識を傾ける。
「肉体との接続の回復と魔力経路の開通……団長殿達の場合でしたらスキルが使用可能になるのがあまりにも遅すぎると思っていましたが、恐らくかの人物が妨害を働いているのでしょう」
「なるほど……自力での脱出を防ぎたいっていう動機もあるな。妨害を解除する手段はありそうか?」
アルファズルと遭遇したあのときのように、俺が【修復】を使って脱出してしまったら、偽の記憶を植え付けたいというエイルの目論見は根底から覆ってしまう。
妨害する手段があるなら実行しておくのが当然だろうし、目を合わせただけで精神体の複製とやらを仕込むことができ、更に記憶の改竄まで出来るなら、そうした『手段』があっても不思議ではない。
「理論上、解除は可能です。しかし今はリソースが足りません。具体的には魔力が……」
「クソ、結局はそこに行き着くのか」
まるで鍵を中に入れられた宝箱だ。
開けられない蓋ではないのに、開けるための道具を手に入れるために蓋を開けなければならないなんて。
「解除自体はできるなら、何とかしてその方法を……いや、その前にまずはこの建物から逃げるぞ」
「無理みてぇだぜ。あちらさんも馬鹿じゃないらしい」
いつの間にかこの場を離れていたガーネットが、列車の走ってきた線路の向こうから走って戻ってきた。
「外は分厚い障壁と暴風で塞がれてやがる。オレ達を誘い込んだ時点で閉じ込める手筈も整えてたってわけだ。スキルといつもの剣がありゃあまだしも、生身の体と金剛鉄の剣だけじゃ強引に突破するのも無理そうだな」
ガーネットは苦々しげに吐き捨てた。
俺も同じ気分だ。用意周到、狡猾老獪。セオドアの実家がすぐに講和を選んだのも納得の難敵である。
そのとき、階段をゆっくりと降りてくる靴音が聞こえてきた。
落ち着き払って一歩一歩踏みしめながら。
逃げることなど不可能だと確信し、余裕綽々と。
「……ヒルド。魔力があればいいんだな?」
「は、はい! 大気中の魔力濃度が高まる程度でも構いません! かき集めてどうにかしてみせます」
「分かった。魔力は俺達がなんとかしてみせる。それまではどこかに隠れていてくれ。お前がいるってことを知られるわけにはいかないからな」
ヒルドを物陰に隠れさせてから間もなく、階段を降りきったエイルの姿が魔力照明の下に現れる。
俺とガーネットは肩を並べ、眼前の強敵と対峙した。




