第292話 今はまだ知るべきではない
「ああ、よかった。誘導に気付いてくれなかったらどうしようかと思っていました。賢明な判断に感謝します、白狼の森のルーク」
「……! その声は、北方樹海連合の!」
無機物のように佇んでいた六人の人魔のうち、エルフの少女だけがまるで静止した時間から解き放たれたかのように動き出し、優雅な仕草で俺に向き直る。
今になってようやく理解する。
あのエルフの容貌は、北方樹海連合のエイル議員を若く幼くしたかのような姿であったと。
若い姿のエイル議員は俺に敵意のない微笑みを向け、以前の会合のときと変わらない自然な態度で振る舞い始めた。
「遠回りなお誘いでごめんなさいね。こちらからお伺いすることができれば良かったのですけれど、私にできる介入手段ではここから動くことができませんから」
「……そうか、セオドアの別荘で『右眼』を覗き込まれたときに、何かを仕込まれていたんだな。そして魔法を使って『右眼』を調べようとした瞬間を狙って、この空間に引き込んで妨害を……!」
「一点、誤解があるようなので訂正しておきましょう」
エイルが一歩前に進み出たのに合わせて、俺は注意深く一歩後ろに退いた。
何かあった場合はすぐさま階段へ逃げ込めるよう、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。
「貴方達がこの記憶領域に引き込まれたことに、私は一切関与しておりません」
嘘を吐いている気配は感じないし、そもそも嘘を吐く意味がある事柄なのかも疑わしい。
「ここまで復元の進んだ『右眼』を魔法で解析しようとすれば、きっとこうなるだろうと予想できましたので、対策として精神体の複製を忍ばせ、二十通りほどの誘導手段を用意したうえで待機していただけです」
「……それで、二十通りのうちの一つに俺達が引っかかったと」
本人は軽く流しているが、ただ目を覗き込んだだけで誰にも気付かれずに仕込みを終えるなんて、はっきり言って尋常ではない。
エルフ達と長らく対峙してきたセオドアも、すぐ隣にいたガーネットも、そして俺自身もすら異変を察することができなかったのだ。
ハイエルフという存在の底知れなさを改めて実感させられずにはいられない。
「まさかとは思うけど、俺達をここから助け出すために待っていてくれた……なんてことはないよな」
「いいえ、そのまさかです。三人とも無事に送り出させていただきましょう。ただし、ここで見聞きしたことは忘れていただきますけれど」
「くそっ! やっぱりそうなるか!」
エイルが俺に向かって片腕を伸ばそうとしたのを見た瞬間、俺はほとんど反射的に階段を駆け下りようとした。
しかし不可視の障壁によって阻まれ、痛みを伴って弾かれてしまう。
強烈な突風がエイルの手から繰り出される。
間一髪のところで直撃だけは回避するも、余波の防風で数歩分ほど吹き飛ばされ、転倒しそうになりつつどうにか踏み止まる。
そこを目掛けて風圧の加速を受けて突進するエイル。
思わず見開いた『右眼』が、斜め下方を潜り抜ける退避ルートを発見し、転びそうになりながらもその僅かな隙に身を躍らせ、辛うじて直撃を回避。
轟音と暴風が真横から俺を殴りつけ、部屋全体を騒音で満たす。
風圧による耳鳴りと目眩に苦しめられながら、脇目も振らずに全速力で走り出す。
「『右眼』頼りで逃げ切れるとでも――」
背後でエイルが猛烈な魔力と暴風を収束させる気配がする。
しかしその気配はすぐに掻き消え、奇妙なまでの静けさが訪れた。
「……何だ?」
足を止めて振り返れば、エイルが若い顔を苦々しく顰めている。
そして周囲に目をやれば、いつの間にか俺はエイルを除く五人の人魔のすぐ側に到達していた。
なるほど、そういうことか――エイルはこの五人の似姿に攻撃を加えることを躊躇しているのだ。
たとえそれが、物言わず動くこともない、静止した世界の背景に過ぎないとしても。
「この記憶領域は貴方達がまだ知るべきでない知識で満ちています。ですから貴方達には、『叡智の右眼』を魔法で調べても何の意味もなかったという記憶を持ち帰り、現実世界の方々に報告していただかなければなりません」
「俺達の記憶を書き換えるってことか? 納得はできないけど理屈は理解できるな。だけどこんな荒っぽくやる必要はあるのかよ!」
「申し訳ありません。私の記憶改竄技能の程度では、あらかじめ対象を昏倒させておく必要がありまして。石に蹴躓いたとでも思って諦めてくださいませ」
上品ぶった語り口調だが内容は心底えげつない。
要するに俺達三人を徹底的にぶちのめして意識を失わせ、ここで見聞きした物事を忘れさせて偽の記憶を植え付け、王国に対する情報工作の片棒を担がせようとしているわけだ。
「(俺達の人数は正確に把握してるくせに、あいつから見れば裏切り者のはずのヒルドに関しては何も言わないんだな……把握できてるのは人数だけなのか、あるいはどうでもいいと思っているのか)」
どちらも有り得そうで可能性を絞ることができない。
引きずり込まれた人数は分かるが内訳までは分からない……これは言うまでもなく普通に考えられるパターンだ。
干渉手段の制約から、この空間におけるエイルの本体、つまり精神体の複製とやらはここから移動することができないという。
ならば外部の状況把握が不十分でも何の不思議もないだろう。
しかしもう一方の可能性も捨てきれない。
エイルの、ハイエルフの底知れなさと非人間性を思えば、仮にヒルドの亡命と王国における活動を知ったうえで泳がせていると言われても、何の違和感も覚えない。
「(くそっ……現状打破の手がかりになるかと思って頭を使ってみたけど、これじゃ何の収穫もなさそうだな……)」
五人の似姿のおかげで一時的に攻勢は緩んだが、それも一時凌ぎにしかならないのは明白だ。
「警告します。彼らから離れなさい。万が一、私に彼らを攻撃させる事態に陥った場合、抹消する記憶はこの空間の情報だけに留まらなくなります」
「……貴女がそこまで余裕を失くすなんて、さすがに想定外ですね。この人々にそれほどの思い入れがあるということですか」
あえて言葉遣いを正し、努めて落ち着いた態度で振る舞おうとする。
――『右眼』を階段の入り口へ。
位置関係はちょうどエイルの斜め後方。
――『右眼』を眼前のダークエルフの腰元へ。
金剛鉄の剣であれば防壁は容易に破壊可能。
だが問題は、迎撃を掻い潜って階段まで接近すること。
そればかりはどんなに『右眼』を凝らしても解が見つからなかった。
「この人達を巻き込むつもりはないですよ。しかも『右眼』に頼っても脱出方法が見つかりそうにありませんね」
「正直でよろしい。それでは大人しく投降を――」
「――だが、まだ足掻かせてもらう!」
ダークエルフの金剛鉄の剣を抜き放ち、『右眼』が告げた経路を狙ってエイル目掛けて投擲する。
不意打ちだったはずの一投を、しかしエイルは最低限の風の流れで軽々と受け流した。
「これで終わりですか」
エイルは失望混じりに呟き、金剛鉄の剣が飛んでいった方向を一瞥すらせずに俺を見やった。
――ああ、これでいい。狙い通りだ。
改めてエイルが右手を前に伸ばそうとした瞬間――
「…………があっ!?」
突如としてその背中が斬り裂かれ、鮮血が飛び散った。




