第243話 ただの一つの隔たりもなく
……とはいったものの、友人の一家が経営する宿屋の風呂場で、傍迷惑にもそのような行為に及ぶほど考えなしであるわけがなく。
脱衣所でもなるべくガーネットの方を見ないように気をつけ、浴場で背中を向けあった状態で体を洗う。
後ろのことは可能な限り意識から外し続ける。
ただひたすらに平常心を保ちつつ、会話もせずに黙々と汚れを落とし続けていると、不意に背後の物音の質が変化した。
俺と同じように椅子に座って体を洗っていた音が止まり、水っぽい足音がぺたぺたと近付いてきたかと思うと、俺のすぐ後ろで裸のまましゃがみ込む気配がした。
「……どうかしたか?」
「いや、別に。こうしてみるとやっぱデケェなと思ってさ」
むき出しの背中にガーネットの素朴な言葉が投げかけられる。
「ほらオレって、鍛えてもあんま肉が付かねぇだろ。だからさ、たまにいいなぁって思うんだよな」
ガーネットの小さな手が背中に触れる。
緊張で思わず体に力がこもりそうになったが、動揺を悟られないように何とか反応を抑え込む。
これはもはや意地のようなものであった。
思春期の少年みたいに情けなく狼狽する様なんて、とてもじゃないが見せられたものではない。
落ち着いて、余裕を持って、年長者らしく振る舞わなければ。
「騎士なら俺よりずっと体格のいい奴だって大勢いるんじゃないか?」
「そりゃそうかもしれねぇけど、他の奴の体なんていちいち見てぇとも思わねぇしな。やっぱお前だからいいんだよ」
「まったく……反応に困るようなことを言うんじゃない」
俺を困らせようと思って後ろからくっついて来やしないかと警戒していたが、幸いにもそういう冗談では済まないことをしてくる様子はない。
「……おりゃっ!」
そう思って油断したタイミングを突かれ、肩越しに伸ばされた手に洗体用の海綿をあっさり奪い取られてしまった。
「あっ! おい、何を……」
突然の不意打ちに驚いて、思わず振り返ってしまう。
視界に入ったのはガーネットの肩口から上。
解いた髪はぐっしょりとお湯に濡れ、浴場の熱気で赤らんだ顔に悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
それより下に視線を動かすのは、既のところで理性が食い止めた。
「背中、洗ってやるよ。他の奴と風呂に入るなんてガキの頃以来だからな。こういうのもいっぺんやってみたかったんだ」
「……分かった、頼めるか?」
こんな理由を口にされたら、とてもじゃないが断れない。
ガーネットが生まれ育った環境を考えれば、家族を含めた他の誰かとこんなことをする機会などなかっただろう。
「やっぱ、普通の家族ってこういうことしてるんだよな」
「どうだろうな。少なくとも俺の場合は、年齢一桁くらいの頃に親父と一緒に入ってたのと、十歳くらいからは弟と妹を入れる世話をしてたけどさ」
「ふぅん……楽しそうだな、それ」
「面倒なだけだったぞ。というか、騎士や貴族の家だとこんなことはしないのが普通じゃないのか?」
背中を任せたまましばらく会話を交わしているうちに、背中を洗う手が止まって勢いよくお湯がぶち撒けられた。
ようやく終わったかと思ったのも束の間。
またもや肩越しに腕が伸ばされて、泡まみれの海綿が手元に戻ってきた。
「んじゃ、交代な」
「……はあっ?」
一体何を言っているんだと聞き返す暇もなく、ガーネットは自分の椅子に戻って背中をこちらに向けた。
海綿を握ったまま言葉を失う俺だったが、明らかに背中の流し合いを――これまでの人生で試す機会すらなかったことを楽しんでいるガーネットを前にすると、感情的な理由で拒否したいだなんて言えなくなってしまう。
つくづく俺はガーネットに甘いんだなと再認識しつつ、白くて細い背中に泡だらけの海綿を滑らせる。
繊細な肌が痛くないように、力を込めすぎず。
肩甲骨から背筋に沿って腹の裏の窪みまで。
首回りを洗おうとしたときに後ろ髪が邪魔なのが気になったので、指先で後ろ髪をまとめてたくし上げるように除けて項を露出させる。
その度にガーネットは、何故かもぞもぞと小刻みに体を動かしていた。
「……おい、くすぐってーぞ。もっと強くやったって怪我しねぇよ」
「おっと、悪い。他の奴にやるなんて本当に久し振りだからな……」
困り顔で抗議されてしまったので、遠慮なく力を込めて背中を洗っていく。
「妹にやってるみてーだなとか考えてたら、後でぶっ飛ばすからな」
「頭の中を読まないでもらえるか?」
「よーし、後で覚えとけ」
ああ――本当に小さな背中だ。
これまでの戦いの記憶が次々に脳裏を過っていく。
魔王戦争に関連する数々の戦い。魔王ガンダルフとの直接対決。夜の切り裂き魔との死闘。
いつだってガーネットは俺よりも前にいた。
熾烈な攻撃に進んで晒され、俺を守るために幾度となく傷ついてきた。
――こんなに小さくて華奢な背中に守られてきたのだ。
自分が情けないだなんてことは決して口にしない。
それは現役の騎士であるガーネットに対する侮辱である。
小柄ながらもそうするだけの実力があると認められたからこそ、ガーネットは銀翼騎士団の騎士という肩書を与えられている。
冒険者と違い、なりたいと思っただけでなれるものではなく、心身共に相応しいと認められなければ騎士にはなれないはずなのだ――きっと俺は例外として。
だが、甲冑も防護服も着ていない裸体のガーネットの背中を目の当たりにして、こみ上げてくるものがないと言えば嘘になる。
戦う者と癒やす者の役割分担、相手の不得手を自分の得手によって補うのだという考え方は間違いなく正論だし、これからもその考えの下で活動していくつもりだ。
けれど、けれども。
今だけは溢れてくる感情を抑え込むことができなかった。
「終わったか? んじゃ、そろそろ湯船の方に――」
ガーネットが自分で泡を洗い流して立ち上がろうとする。
その矢先、俺は後ろからガーネットを抱き寄せていた。
「――へ? あ……おまっ……!?」
困惑し、言い淀みながら声を上ずらせるガーネット。
耳まで紅潮していく様が目と鼻の先ではっきりと見て取れた。
「悪い……今だけは、自分のことを情けない奴だって思わせてくれ。こんな小さな体に頼らなきゃ命も守れない奴なんだってさ……」
「……バーカ。オレの方こそ、お前に頼らなきゃとっくに死んでるんだぜ? 魔王にやられかけたときなんか、今みたいにお前に抱きとめられたから、凄く安心できて……だからさ、んなこと言うなよ……なぁ、ルーク」
ガーネットは呆れたように笑いながら、肩を掴む俺の手にそっと手を重ね、愛おしむように軽く指を絡めてきたのだった。




