第242話 春の若葉亭の新サービス
ゆったりとした夕食を終えて食堂を出ようとしたところで、シルヴィアが笑顔でぱたぱたと駆け寄ってきた。
雰囲気から察するに、まだプライベートではなく仕事モードで話があるようだ。
「お二人とも長旅の疲れが溜まってますよね。よかったらうちのお風呂で疲れを落としていきませんか?」
「あー……確かに疲れてるけど……」
断りにくい誘いを持ちかけられ、曖昧に言葉を濁す。
実のところ、グリーンホロウに来てから春の若葉亭の浴場を利用したことはあまりなく、その僅かな経験もごく初期に集中している。
理由はガーネットが抱えている事情だ。
彼女の性別を隠すという絶対条件を満たすにあたって、最大の問題となるのが入浴なのである。
ウェストランド王国は広大なので、入浴の習慣のない地方もまだ残っているそうだが、全体としてはそういう地域は少数派になりつつある。
グリーンホロウは特にその傾向が強く、温泉地であり熱湯の入手が容易なため、毎晩のように体を洗い流すのはもはや常識といえるくらいになっていた。
そのこだわりは筋金入りで、魔王戦争に協力するため町ぐるみで『魔王城領域』に赴いたときには、温泉を引き込めない地下空間に臨時の大浴場を作ってしまったくらいだった。
しかし、温泉と公衆浴場が発達していることの裏返しなのか、個人の家に浴室を持っているケースはほとんどない。
間食代よりも低い格安の料金を支払って公衆浴場を利用することが、グリーンホロウの一般的な入浴スタイルなのである。
当然ながら、ホワイトウルフ商店の原型となった建物にも浴室は存在せず、俺達も町内の浴場を利用しているのだが、ここで問題になってくるのがガーネットの性別だ。
公衆浴場や大風呂は利用不可。
一部の店舗が提供している個室の風呂を利用するしかないが、春の若葉亭にはそのようなサービスがないのだ。
「(前は違和感なく断れたけど、最近はそうもいかなくなってきたからなぁ……)」
シルヴィアはガーネットの本当の性別を知らないが、俺を護衛するために身分を隠した騎士だということは知っている。
なので、最初は『騎士という特別な立場だから』という名目で違和感なく生活環境をずらすことができたものの、ガーネットが町に馴染みシルヴィアと打ち解けるにつれて、いつまでもそんな対応をしていることに違和感が生まれるようになってきた。
……まぁ、他の連中の感想をいちいち確かめたわけではないので、俺が気にしすぎているだけという可能性もあるのだが。
「(さすがにそろそろ、別の言い訳でも考えた方がいいのか……?)」
僅かな沈黙の間にあれこれ考えを巡らせていると、シルヴィアは周囲に他のスタッフや客がいないことを確かめてから、予想もしなかったことを言い始めた。
「もちろんガーネットさんの事情は忘れてませんよ。他の騎士の方々も、兵士と同じ風呂場を使うのは示しがつかないとか、服や持ち物を盗まれるのが心配だとか言って、大浴場を使いたがらない方が多いんです。うちの宿でそんなことは起こさせないんですけどね」
シルヴィアは胸の下で腕を組み、しきりに頷きながら言葉を続けた。
「そこで、うちの宿でも新しいサービスを始めることにしたんです。準備自体は前々から進めてたんですけど、ルークさん達が王都に行っている間に完成したんですよ」
「新しいサービス? もしかして個室風呂とか?」
「はい! 一人か二人で使ってもらえるような小部屋と、小規模な冒険者パーティが一度に入れるくらいの貸切部屋を新しく作ったんです! まだあんまり数は多くないんですけどね」
まさかの朗報である。
騎士やパーティ単位の冒険者が増えてきたこともあって、春の若葉亭も彼らの需要に応えるための増改築に取り掛かったのだろう。
「そいつはいいな。白狼の。せっかくだしたまにはいいんじゃねぇか? ま、オレは一人でゆっくりしたいタイプなんで、金は二部屋分掛かるけど。そこまで金には困ってねぇしな」
どうやらガーネットもシルヴィアの提案に乗り気なようだ。
いつも他の浴場でそうしているように、個室を二つ借りれば違和感なくガーネットの性別を誤魔化し続けることができるだろう。
ということでシルヴィアに浴場の鍵を取りに行ってもらったのだが、何故かシルヴィアは困り顔で戻ってきた。
「ごめんなさい。小部屋のお風呂はまだ二つしかないんですけど、さっき家族連れのお客様が片方を借りてしまったみたいなんです」
「それじゃ仕方ないな……」
一人か二人向けの小部屋で事足りる家族連れと聞いて思い浮かんだのは、支部長のフローレンスとリサの母娘だ。
本当にあの二人かどうかは分からないが、休日に町一番の宿で食事と温泉を楽しむというのは普通に有り得るパターンだろう。
そしてシルヴィアは、俺にとってあまりにも危機的な提案を持ちかけてきた。
「残りの小部屋とパーティ向けのお風呂は空いていますから、そちらでも構いませんか?」
……駄目だ、自然に拒否できる言い訳が思い浮かばない。
それぞれ違う個室を望むのは単なる好みの問題で片付いても、小規模なパーティ向けの広さの浴場ですら共にするのを拒むのは、さすがに怪しまれてしまうかもしれない。
どうしたものかと、ガーネットに意見を求めるために振り返る。
ところが何とガーネットは、あっさり俺の横を通り過ぎたかと思うと、さも当たり前のようにシルヴィアの手から個室の鍵を受け取ってしまった。
「一部屋しか空いてないんじゃしょうがねぇな。行こうぜ白狼の」
「えっ!? お、おい……!」
シルヴィアの手前、あまり強く引き止めることもできず、淡々と歩いていくガーネットに追いついてから声を潜めて問い質す。
「お前な、何を言ってるのかちゃんと分かって――」
肩を並べて歩きながら覗き込んだその顔は、不機嫌を装うように眉根を寄せながらも、ほのかに頬を赤く染めていた。
「分かってないわけねぇだろうが。テメェなら……その、いいんだよ。いつもみてぇに察しろ、馬鹿」
……やられた。こんな表情は俺にとってあまりにも決定的だ。
ここまではっきり面と向かって言われてしまったら、もはや何だかんだと理由をつけて拒むことなどできはしなかった。
たまにはクローズアップしておかないと、グリーンホロウが温泉街だというのを忘れられそうですからね(大義名分)




