第230話 白狼の森の前で
次の日の朝、俺達は家族と村の皆に挨拶を済ませて故郷の村を後にした。
ガーネットに押し切られる形で実行した十五年振りの帰郷は、実質的に丸一日にも満たない滞在だったけれど、とても充実した時間を過ごすことができたと思っている。
ただ単に互いの近況を語り合っただけでなく、対立すら覚悟していた父さんとも分かり合えた。
いつかは必ず帰らなければならないと思いながらも、気まずさから踏み切ることができなかった日々……あれは無駄な時間だったのだろうか。
――いいや、違う。そんなことはない。
人生の転機を迎えて武器屋を始め、ガーネットと今の関係になることができたからこそ、昨日の結果を迎えられたのだ。
夢破れてすごすごと帰ってきたという結末であったなら、俺はあんな風に笑ってはいられなかっただろう。
達成感と充実感に浸りながら馬車に揺られていると、昨夜の反動の眠気が込み上がってきて、思わず欠伸を噛み殺してしまう。
「……ふぁ」
「ふわぁ……」
その隣で、ガーネットが日向の猫のように遠慮のない欠伸をした。
「先に寝入ったくせに、お前も寝不足なのか?」
「うっせーな……アレだ、アレ。枕が変わると云々っつー……」
「野営だろうと即行で眠れるくせに」
俺もそうだが、冒険者も騎士も環境に左右されず眠れることが強みになる。
というか、早い段階でそうならないと不便でしょうがない。
きっとガーネットも別の理由で眠れなかったのだろうが、あえて深くは追及しないことにした。
「お二人ともお疲れのようですね」
御者席で手綱を握る御者の男が笑いながら話しかけてくる。
「昨晩は随分とお楽しみだったようですし、車内でお眠りになった方がよろしいのでは?」
「はっ? はあああっ!? お楽しみって何言ってんだテメェ!」
いきり立って立ち上がったガーネットに対して、初老の御者は淡々と落ち着いた口調のまま、激昂されている理由が分からないと言わんばかりの態度で喋り続けた。
「宴会が夜遅くまで盛り上がっていたと聞きましたが。私が泊まっていた宿にも、夜半過ぎに村から戻ってきた方がおられましたし。それ以外には……ああ、なるほど。これは大変失礼いたしました」
「察した気になってんじゃねぇよ。全然違ぇよ」
からかうような口調ではなく、配慮が足りなかったと詫びる言い草なのが余計に効いてくる。
昨日の夜は誓ってそんなことはしていない。
……していないのだが、俺とガーネットの事情を知る相手にとっては、そんなはずはないと思えてしまっても仕方がないのだろう。
「だいたい、今すぐ寝てぇわけでもねぇしな」
「それでしたら、どこかで車を止めて気分転換でもなさるのはいかがでしょう。白狼の森も程近いことですし」
「遠回りにはならねぇのか?」
誰に向けた質問だったのかは判然としなかったが、とりあえず土地勘のある俺が答えることにする。
「ちょうど横を通り過ぎてるところだな。ほら、少し距離があるけど見えるか? この辺りで湖以外に見応えのある場所はあそこくらいだから、立ち寄ってみるのもいいと思うぞ」
「んー……なら行ってみるか」
方針が決まったなら行動は早い方がいい。
馬車はすぐに脇道へ進路を変え、白狼の森へ向かって進んでいく。
白狼の森は巨大なティターニア湖を囲む広大な森の端に位置している。
俺の故郷の村から程近く、長めの散策程度の距離感で赴くことができる。
当然ながら馬車ならあっという間にたどり着くことができ、俺達を乗せた馬車は数分と掛からずに白狼の森の前で停止した。
「ここだ。久し振りだけど全然変わってないな」
「本当にここだけ普通の森と違うんだな」
歪むように曲がった木々が生い茂っている点も、他の場所とは異なる特徴だが、それ以上の特徴が森全体に漂っている。
「森の奥がよく見えねぇけど……霧、いや、煙か?」
「魔力の霧って言われてる代物だ。本物の霧じゃなくてなにか別の代物らしいけど、詳しいことは分かってないはずだ」
ガーネットの言うとおり、白狼の森は全体がまるで濃霧のような白い靄に覆われている。
これの正体は今もなお不明。
村を出てからの十五年で新たな発見があったという話も聞いていない。
「昔から霧の中には賢い狼の群れが住んでいて、大きな白狼がその群れを率いていると言われているんだ。魔力の霧もその巨大な白狼が生み出しているともされてるな」
「だから『白狼の森』って呼ばれてるわけか」
「まぁ、ここで最後に狼を見たのは俺の爺さんが最後で、リーダーの白狼に至っては今生きてる人間の誰も見たことがないらしいんだけど」
「何だそりゃ。ただの言い伝えかよ」
ガーネットは拍子抜けしたようだったが、地方の伝承というのは往々にしてそういうものだ。
過去のどこかの段階でたまたま白い毛皮の個体が群れのリーダーになったことがあって、その存在が強く印象に残ったことで言い伝えられ、謎の煙霧という現象と結び付けられて神秘的に解釈された――蓋を開ければこんな経緯だった可能性も充分にある。
体が巨大だというのも、言い伝えの過程で過剰に表現されただけかもしれない。
もちろん、そうではない可能性も否定しきれないけれど、積極的に肯定する材料がないのもまた事実だ。
「好意的に考えるなら、知能が高いから人間と関わらないようにしているっていう解釈もあるぞ」
「……ここはダンジョンってわけじゃねーんだよな?」
「少なくとも今のところは。森の何処かにダンジョンの入口があって、そこから魔霧と魔獣の狼が現れている……っていうのもありえるかもな」
もっとも、そう考えて探索を試みた奴は何人もいるだろうし、未だにダンジョン認定されていない時点で可能性は低そうだが。
そろそろ気分転換も済んだので馬車に戻ろうかと思った矢先、視界の隅に見覚えのない人物が佇んでいるのが見えた。
軽装だが極めて高品質だと一目で分かる武具を纏い、憂いを帯びた横顔で白狼の森を眺める、癖の強い赤毛を――橙色の比喩ではなく文字通りの赤色だ――長く伸ばした少女。
少女もまた俺達の存在に気が付き、何気なく顔をこちらに向ける。
次の瞬間、ガーネットと少女はほとんど同時に驚きと困惑の声を上げた。
「はっ!? 何でここにエゼル――って、ああっ! 勇者エゼルってまさか!」
「アルマ!? じゃなくって、今のナシ! ガーネット!」
「思いっきり手遅れなんですがね! こいつは事情を知ってるから良かったですけど!」
単なる顔見知りというには遠慮がないやり取りを、俺は横合いから傍観することしかできなかった。
「ガーネット。あの子は知り合いなのか?」
「知り合いっつーか、なんつーか……」
苦々しげに言葉を濁すガーネットに対し、エゼルと呼ばれた少女は『お願いだから黙っていて』と読み取れるジェスチャーを繰り返している。
それを見てしばらく考え込んでから、ガーネットは露骨に配慮した表現で俺にエゼルを紹介した。
「まぁ……アレだ。貴族の跳ねっ返り娘が素性を隠して云々って思ってくれ。餓鬼の頃からの顔見知りなんで、お互いに秘密を握り合ってる関係ってとこだ」
「……分かった、それで納得しとくよ」
「しっかし、てっきり冒険者にでもなるのかと思ってたんだが、まさか勇者とはなぁ……」
勇者エゼル。アークライト大橋を落としたはぐれシーサーペントを討った実力者。
その正体がガーネットと大差ない年頃の少女だったのも驚きだったが、それ以上に、秘密を守ってくれるよう目の前で必死に懇願している姿を見ることになるのも驚きの一言であった。




