第201話 ささやかな不安
穿き慣れない長めのスカートに悪戦苦闘するガーネットの手を引いて、城壁上部の一般開放区域へとたどり着く。
――そこから見渡す光景は、まさしく絶景と呼ぶに相応しいものであった。
王都を囲む広大な大地。
すぐ近くを流れる勇壮な大河と、それに架けられた長く広い橋。
幾本もの街道が王都から伸び広がり、分岐と交差を繰り返しながら地平線を超えていく。
往来する馬車と人々の数はとても数え切れないほどだ。
それは河川も同じであり、大小様々な輸送船が大河を経て運河に入り、城壁の水門付近で停留して検問の順番を待っている。
こんなにたくさんの船舶が列を成す光景なんて、内陸部では滅多に見られるものではない。
地平線に見えるかすかな影は近隣の都市だろうか。
距離があるにもかかわらず視認できるあたり、隣の都市もかなりの規模を誇っているようだ。
「……凄いな、こりゃ」
「おーい、白狼の。どこ見てんだよ。こっちだこっち」
城壁の外の風景に呆気にとられていると、反対側から呆れ混じりの声で呼びかけられた。
俺の歩幅で六歩か七歩、ガーネットの脚なら八歩か九歩ほどの厚みがある規格外の城壁の反対側。
つまり、一般開放区域の王都側の端で、ガーネットが俺に向かって手を振っている。
「外なんか面白くもねぇだろ。見るなら断然こっちだぜ」
「そっちって、王都の――」
誘われるがままに場所を変え、俺は思わず息を呑んだ。
王都を囲む城壁は地平線の向こうにまで達し、高度に発展した市街地がその内側に広がっている。
俺の想像を遥かに凌駕する巨大さだ。
到着したときから凄まじく大きな街だとは思っていたが、こうして高所から見渡すことで、改めてその事実を実感することができる。
メインストリート沿いの商業街。
運河に隣接した荷揚げ基地と倉庫街。
膨大な人口を支える複数の住宅街。
都市の内側に緑を添える公園と植物園。
おおよそ『都市』の部品として想像しうるあらゆるものが、城壁の内側の広大な空間に無理なく詰め込まれている。
この数日間で俺が訪れた場所など、全体からすればほんの一部に過ぎないのだろう。
「あれが万神殿だな。こっから見るとちっちぇだろ」
「大道芸をやってた広場はあそこの……ああいや、違うな。あれは別の広場か」
城壁の縁で肩を並べて町並みを見下ろし、つい子供っぽいやり取りに興じてしまう。
いや、こればっかりは仕方がない。
世界最大の都市を丸ごと一望しておいて、気分が高揚しない奴の方が珍しいだろう。
「ここから見るとよく分かるけど、王宮の丘もかなり大きいんだな」
「そりゃあな。防衛拠点におあつらえ向きの立地だから、わざわざあんな場所に城を作ったんだ」
「……俺は軍事のことはあまり詳しくないんだけどさ、素人考えだと魔法で王宮を直接攻撃とかできそうに思えるんだが……やっぱり対策済みなのか?」
「当然だろ。呆れるくらいに念入りだぜ」
ガーネットは口の端を上げてにいっと笑った。
今の自分が可愛らしい格好をしていることを忘れたかのような笑い方だ。
「詳細は機密ってことになってるんだが、城壁と丘の周りと王宮周辺で三重の結界網が張ってあるうえ、一つだけでも人間が生身で使える魔法はだいたい打ち消せるらしいぜ」
「そりゃ凄い」
素直な感想を口にする。
結界を構成する魔力が目に見えず、それらしい気配も感じられず、にもかかわらず堅牢な対魔法防御をこれほどの広範囲に渡って展開する――門外漢の俺でも、極めて高度な技術と膨大なコストが投じられていると理解できる。
ノワールがホワイトウルフ商店に展開してくれている結界も、そうと言われなければ存在に気付けないくらいに高度なものだが、あの結界は機能が感知と警戒に限定されている。
人間が扱える魔法をことごとく防ぎ切れるというのが本当なら、一体どうやって実現しているのだろうか。
「しかもそれだけじゃねぇ。運河の水門にゃ魚の一匹一匹まで発見できる感知結界があるっていうし、最近は遠隔操作の魔力波を逆探知できる感知器も配備されてるんだぜ」
「遠隔操作って言うと、魔王戦争でブランがマッドゴーレムを動かしてたような魔法か」
「あれなんか典型例だな。術者が近くにいるなら誤魔化す手段もあるんだが、それじゃ遠隔操作の旨味がねぇからな。今んとこ王都くらいにしかねぇ代物だ」
それがグリーンホロウにもあればもっと楽だったのかもしれないが、さすがにそれはないものねだりという奴だろう。
「ところで、そういう話って俺なんかにしてもよかったのか?」
「あん? いいんだよ、王都の住人なら『そういうモノがある』ってことは皆知ってんだから」
ガーネットは笑みを浮かべたままひらひらと手を動かした。
「遠隔操作で悪巧みしても無駄だとか、運河を潜ってこっそり出入りしようとしたって見つかるぞとか、そういうのはあえてバラしといた方が治安維持に繋がるんだ」
「……なるほど。何かやらかしてから捕まえるより、思い留まらせた方が効率いいってことだな」
いわゆる抑止力という奴だろう。
例えば、強盗対策に武器を隠し持っていても、襲われる確率は持っていない場合と全く変わらない。
何故なら襲う側は武器の有無を知らないからだ。
襲われないことに重点を置くのであれば、あえて武器を見えるように持ち歩くことが、隠し持つよりも有効な手段になりうるのである。
無論、この手段も万能というわけではない。
自分の戦力をおおっぴらにすることになってしまうので、それ以上の戦力を用意してから襲われる危険までは排除することができない。
その辺は他の自衛手段を併用して対策すべき事柄だし、王都の平和は実際にそうやって保たれているのだろう。
――それにしても。
不意に浮かんできた言葉を飲み込みながら、横目でガーネットを見やる。
「どうかしたか?」
「いや……」
何でもないと言いかけて、やはり口にすべきだと思い直す。
「……やっぱりお前、こういう話をするときは楽しそうだよな。ひょっとして退屈させてたか?」
「はあっ!?」
半分ほどの不安を込めてそう尋ねると、想像以上の本気の否定が返ってきた。
「んなわけねぇだろ! そりゃあ、こういうのは話しやすいから舌が回っちまうけど! 退屈なんかしてねぇからな! これっぽっちも! つまらねぇならとっくに帰ってるっての!」
ガーネットは人差し指の先端を勢いよくこちらに向け、俺の胸を何度も強く叩いてきた。
かすかに頬が赤らんでいるのは、恐らく羞恥ではなく怒り。
腹の底からの全力の否定だ。
だから俺も、正直な感情を返すことにした。
「悪かった、妙なこと聞いて。正直不安だったんだ。けど退屈してないなら良かった。お前が楽しくなかったら何の意味もないからな」
「ったく、少しは自信持ちやがれ。お前はオレの――って、言わせんな、クソッ!」
怒りの紅潮を羞恥のそれで上塗りし、ガーネットはいつものように俺の足を蹴りつけてきたのだった。