第195話 アイリス・クリスタル 後編
「ここがアイリス・クリスタルの安置室だ。間違っても触れようとは思わないように。私を含む警備騎士には自己判断による殺害が許可されている」
騎士は本気の表情と声色で忠告をしてから、大きな扉を押し開けた。
――扉の向こうは、まるで温室のように外の陽の光が差し込む造りをしていた。
眩い陽光が天井や壁から注ぎ込み、それらは計算され尽くした経路を通り、部屋の中央に鎮座する大きな結晶を照らしあげていた。
「あれが――」
想像以上の美しさに思わず息を呑む。
見上げるほどの大きさの透明な結晶が陽光を浴び、ヴェールのような虹色の輝きを放っている。
クリスタルと名付けられてはいるものの、果たして構成物質が水晶なのかどうかも定かではない。
地上に存在しない未知の鉱物だと言われても、簡単に納得できてしまいそうだ。
「……すげぇ」
ガーネットが素直な称賛の呟きを漏らす。
陽光を弾いて虹色に輝く巨大な結晶体。
ただそれだけでも『至宝』と呼ばれるに相応しい美しさだったが、更に目を見張るべき細工が施されている。
――結晶の内側に彫り込まれた立体的な彫刻、とでも呼ぶべきだろうか。
アイリス・クリスタルの内部には、眠るように瞼を閉じた女性の意匠が刻み込まれていた。
「(あの顔……どこかで見たことが……?)」
美しさに目を奪われつつ、記憶の片隅が刺激されるのを感じる。
思い出すことに集中しようとしても、すぐにアイリス・クリスタルの輝きに目を奪われてしまい、意識が散漫になってしまう。
一体どれくらいの間、眼前の美景に見入っていただろうか。
不意に投げかけられた聞き覚えのない声によって、俺とガーネットは一気に現実へと引き戻された。
「その彫刻は女神アイリスを象ったものであると伝えられています」
「……っ!?」
二人同時に入口の方へ振り返る。
高位の神官が纏う白衣に身を包んだ、落ち着いた雰囲気の若い男が、いつの間にか扉の前に佇んでいた。
「故にアイリス・クリスタル。どのような手段をもって彫刻されたのかは不明ですが、女神アイリスは虹と伝令の女神とされておりますから、虹色の輝きを放つ結晶を用いたのは当然と言えるでしょう」
何者なのかと俺達が問うより先に、警備についていた騎士が答えを口にした。
「神官長殿。如何なさいましたか」
「キングスウェル公爵のご紹介のお客様がいらしていると聞きましたので。ご案内をさせていただこうかと」
そう言って、神官長と呼ばれた若い男は毒気のない微笑を浮かべた。
「確か神官長というと……」
「神殿で働く神官のまとめ役。神殿長に次いで二番目に偉い奴だな」
俺の呟きにガーネットがすかさず返答する。
ガーネットの言うとおり、神官長とは多くの神殿で上から二番目の地位に据えられている役職だ。
簡単に言えば、神殿という組織や施設自体を管理運営するのが神殿長であり、そこで働く人々を取り仕切るのが神官長である。
小さい神殿だと両方を兼任している場合も珍しくはないが、いずれにせよ神殿において高い地位にあることに違いはない。
王国中の神殿の頂点ともいえる王都万神殿の神官長が、こんなに若い男だというのは正直かなりの驚きであった。
俺よりも多少年上のようではあるが、それでもだ。
名だたる大神殿の幹部は白髪だらけの老人が務めるイメージが強く、仮に四十や五十でもまだ若すぎる感がある。
「お客様方は女神アイリスの特殊性をご存知ですか?」
「ええと……人並みには。虹と伝令の女神で、空に架かる虹はこの女神が伝令のために空を飛んだ軌跡である……とかいう神話ですよね」
神の実在と恩恵を信じるかどうかはともかく、神々にまつわる神話と伝承についても、知識としてはそれなりに把握しているつもりだ。
「はい。しかし、かの女神の特殊性は別のところにあります」
若き神官長はアイリス・クリスタルの前までやって来て、神々しいものを見る目で女神の彫刻を見上げた。
「地域ごとに様々な神が信仰されておりますが、唯一、女神アイリスの伝説だけはどの地域にも存在しているのです。もちろん、伝説が残っているだけで信仰対象ではない場合もございますが」
初めて聞く話だ。
この手の知識は専門外なので、素直に驚かされてしまう。
「更に、一部の地域では大変興味深い伝承も残されているのです」
「と、いいますと?」
「神々を信仰することで力が与えられる……即ちスキルの存在を人間に教えたという伝説です。神々は数え切れないほどおられますが、同じ神話を持つ神は他におりません」
興味深い解説を聞かされている俺達以上に、語っている本人である神官長の方が恍惚とした表情を浮かべていた。
何というか……若くして高い地位まで上り詰めただけあり、色んな意味で本気度が違うらしい。
置き去りにされつつある予感を覚えながら、俺はガーネットと視線を交わして苦笑しあったのだった。
そうして心ゆくまでアイリス・クリスタルを鑑賞してから、神官長に先導されて保管室を後にする。
「もっと色々な所蔵品を見学していただきたかったのですが、どうにも神殿長がうるさいもので」
「いえ、充分に堪能させていただきました」
連絡通路に向かって廊下を歩いていると、二人の男が反対側からやって来るのが見えた。
一人は神官長と同様の衣服を着た老年の人物。そしてもう一人は――
「おい白狼の。あれってお前の知り合いだよな」
「ん? ……本当だ、ロイじゃないか」
神殿長と思しき老人と歩いていたのは、紛れもなく百獣平原のロイであった。
彼らも俺達がいることに気がついたらしく、少しばかり手前で足を止めた。
「あれ? ルークさんじゃないですか」
意外そうな笑顔を見せるロイとは逆に、神殿長らしき男は不愉快そうに顔を歪めた。
「神官長。来賓の予定は聞いていないがどういうことかね」
「キングスウェル公爵のご紹介ですよ、神殿長殿」
「またあの方か……死体の保管のことといい、我々を便利に使える何かだと思っておられるのではあるまいか」
「遺体に関しては銀翼騎士団の要請もありましたから。致し方ありませんよ」
お偉方が立ち話をする傍らで、俺とロイも手短に会話を交わす。
「ひょっとして仕事か?」
「ええ、詳細は言えませんけど」
「そりゃそうだ。頑張れよ」
廊下でのやり取りはすぐに終了し、お互いにそれぞれの向かう先へと歩いていく。
北館から本館に移動して、王都万神殿を出たところで、俺はようやく気になっていたことをガーネットに尋ねた。
「さっき言ってた『死体の保管』って、何のことだか分かるか? 銀翼が関係してるとか何とか言ってたけど」
「あん? ……ああ、多分アレだな。オレは担当じゃねぇから詳しい経緯は知らねぇんだが、夜の切り裂き魔の最初の犠牲者の遺体を万神殿で保存させてるらしいぜ」
「へぇ、最初のだけなのか」
「身元不明なんで、事件が一段落するまでは置いとこうってことに……って、おい白狼の」
急にガーネットは俺の前に回り込み、睨み上げるようにじろりと顔を覗き込んできた。
「間違っても首突っ込もうとか考えるんじゃねぇぞ」
「言われなくたって。身の程だけはよく知ってるからな」
降りかかる火の粉を払うならまだしも、自分から首を突っ込もうとはとてもじゃないが思わない。
ガーネットは俺の返答に満足したように頷いて、軽やかに踵を返した。
「ならよし! 晩飯まではまだ時間があるし、もうちょっと王都を見て回るか!」