第183話 アビゲイルの祈り
何を思いついたのか説明されないまま、ガーネットに連れられてアージェンティア家の別邸に引き返す。
庭いじりをしていた管理人の老夫婦への挨拶もそこそこに、家の中へ戻って向かった先は、ガーネットの部屋の掃除をするアビゲイルのところだった。
「アビゲイル! 悪ぃけど服貸してくれ!」
「お早いお帰りかと思いきや、一体どうされたんですか。この服はお貸しできませんよ。裸で家事をする趣味はありませんので」
「今着てるのを剥ぎ取るとは言ってねぇよ。私服とかあったら貸してほしいってだけだ」
急に服を貸せと言い出したガーネットも大概だが、アビゲイルの真顔の対応もなかなかに突き抜けている。
とぼけているだけなのか、あるいはごく自然に出てきた反応がこれだったのか。
この使用人の少女とは今朝初めて会ったばかりなので、どうにもその辺りの判断がつかなかった。
それにしても、勢いで俺までガーネットの部屋に入ってしまったが、果たしてよかったのだろうか――と一瞬だけ思ったものの、すぐに大した問題はないと気がついた。
部屋の中には私物らしきものが全くなく、今すぐにでも他人に貸し出せるくらいに片付いている。
考えてみれば当然だ。
ここはあくまで来客向けの別邸であり、ガーネットの部屋と言っても『今はガーネットが宿泊している部屋』という以上の意味はないのだから。
「私服は本邸に置いたままですよ。別邸勤務はガーネット様が滞在なさっている間だけの予定なので。手元にあるのはこの服の予備と寝巻きだけですね」
「ぐ……そうか、しまったな……」
「女物のお召し物が必要なら『アルマお嬢様』の夜会服を使われては? それでしたら何着か運び込んであります」
「あんなモンで町中を歩き回れるわけねーだろーが。家の外にすら出たくねぇっての。場違い過ぎて大道芸人の仮装か何かだと思われるぞ」
アビゲイルは何かを察した様子で溜息を吐き、掃除の手を止めてガーネットに向き直った。
「要するに。ルーク様と一緒に男女として町を歩ける格好がしたいわけですか。確かにそれでしたら、お嬢様のためのお召し物はいささか過剰ですね」
「……そ、そうだよ。何か悪ぃかよ」
「悪いはずなどございません。むしろ感激しております」
そう言う割には顔も声色も変わっていない。
「ですが適切なお召し物が必要なら、服屋でお買い求めになればよろしいのでは? 当家御用達の商人であれば、秘密を気になさる必要もないかと思いますが」
「本格的なのはまだ早いというか……変装するだけだし……それにあの店で買ったら、父上に話が行っちまうだろ……?」
矢継ぎ早に繰り出される真っ当な指摘を浴び、ガーネットはしどろもどろに言い返すのが精一杯になっている。
一方、俺はこの会話に口を挟んでいいものか迷っていて、何も言わずに後ろで様子を見ることしかできなかった。
アビゲイルはもう一度――今度は大きく溜息を吐いた。
「畏まりました。でしたら、私の仕事着の予備をお貸ししましょう。ひとまず使用人にでも変装していただいて、覚悟が決まり次第、適切なお召し物をお買い求めくださいませ」
ひとまず話がまとまったらしく、俺はガーネットの着替えが終わるまでリビングで待たされることになった。
さっきガーネットが言っていた『やりようはある』というのは、あのとおり変装をして町を出歩くというものだったわけだ。
単純ではあるが、確かに有効な手段かもしれない。
特にガーネットの場合、変装を見破られても正体にまでは行き着かない可能性があるのも大きかった。
「ルーク様、大変お待たせいたしました。ただいまお召し替えが終わりました」
アビゲイルがリビングに現れ、その後ろから同じ格好をしたガーネットが入ってくる。
黒を基調とした、使用人らしいロングスカートの黒い装束。
エプロンは身につけていないので、全体的に白みが減っており、黒尽くめに白の差し色が入っているような格好だ。
長袖かつロングスカートなので肌の露出はあまりないが、ウエストの辺りで細く絞られるような作りをしているので、ガーネットの体の細さが浮き彫りになっている。
普段は頭の後ろで纏められている金色の髪も、今は解かれて肩へと流され、全体的なシルエットにいつもとは違う柔らかな雰囲気を纏わせていた。
服装に合わせた化粧もきちんと施され、派手さを抑えながらも、名家の使用人にふさわしい清潔感が演出されている。
「何だよ……黙ってじろじろ見てんじゃねぇよ。何か言ったらどうだ……?」
「ガーネット様はお褒めの言葉をお望みです。率直なご感想をお願いします」
「アビゲイル! んなこと言ってねーだろ!?」
しまった。つい反応するのを忘れて見入ってしまっていた。
昨晩の夜会のときもそうだったが、服装と髪型を変えたガーネットはまるで印象が変わってしまう。
ただし、少女らしい格好をすると別人のように綺麗になる――という表現は完全に誤りだ。
いつものガーネットだって決して引けを取りはしない。
その方向性が一気に変わるだけのことだ。
「こういうのも似合うんだな。やっぱり素材が最高だからか?」
「さすがはルーク様。よく分かっていらっしゃる。私もお許しがあれば腕によりをかけたいところなのですが」
「お、お前らなぁ……!」
意見が合った俺達を睨みつけながら、ガーネットは肩を震わせている。
アビゲイルはそんな主のリアクションを軽やかに受け流し、背後から大きめの帽子をガーネットに被せた。
これもまた衣服に合わせたデザインのものだ。
鍔や縁がなく、丸みを帯びていて柔らかく、余った布地が後頭部の方へと垂れている。
「私の外出用の帽子です。御髪を見せたままだとすぐに気取られてしまいますよ。帽子一つでもかなり印象が変わってくるものです」
「悪いな、助かる」
アビゲイルが言ったとおり、帽子を被ったガーネットはまた一段と雰囲気を変えていた。
これを純粋に『変装』として捉えるなら、まさに効果覿面だ。
騎士団の仕事で潜入や潜伏をするときにだって使えるだろう。
「……よしっ!」
戦いに臨むときのように気合を入れ直すと、ガーネットは大股で玄関に向かって歩き出した。
「ガーネット様。スカートをお召しになっていることをお忘れなく」
「わ、分かってるっての! くそ、やっぱ歩きにくいな……」
不慣れな様子でぎこちなく歩幅を抑えるガーネット。
俺もその後に続いて別邸を後にしようとしたが、玄関先でアビゲイルに呼び止められた。
「ルーク様」
振り返ると、アビゲイルは手を体の前で揃え、背筋を正して俺のことをまっすぐに見据えていた。
「お嬢様のこと、どうかくれぐれもよろしくお願いいたします」
そしてアビゲイルは深々と頭を下げ、俺が敷地を出るまでそのままの姿勢であり続けたのだった。