第138話 君を守りたいと願っていた
――それはきっと、魔王ガンダルフにとっても不幸な偶然だったに違いない。
白狼の森のルークが生成した防壁を貫いた、一本の魔力の棘。
その鋭い先端がルークの右の眼球に突き刺さり、根のように分裂して頭蓋の内部を破壊する。
崩れ去る防壁。
ルークは叫び声すら上げることなく、背中から硬い床に倒れ込んだ。
「……えっ?」
眼前で起きた出来事を理解できず――あるいは無意識のうちに理解を拒んで、ガーネットは小さな呟きを漏らした。
「おい……ルーク?」
呼びかけに対する返答はない。
残された左目で虚ろに天井を見上げたまま、身じろぎすらすることなく、ただ右の眼窩から鮮血を流し続けるだけだった。
「ふざけんなよ……なにやってんだよ、なぁ……おい……」
ガーネットは意識のないルークの傍らに膝を突き、一秒ごとに生気が失せていく顔を呆然と見下ろしていた。
本当は、何もかも分かっている。
傷の悪化を防ぐため、無闇に体を揺すらない冷静さすらあったほどだ。
銀翼の騎士として積み重ねてきた経験は、目の前の現状を理解できないほど甘いものではない。
その経験が告げている。
これは紛れもない致命傷であると――限りなく即死に近い負傷なのだと。
眼球破裂。眼窩奥の骨板破損。魔力の棘は頭蓋内部に到達し、そこで鋭い『根』を拡げて『中身』を損壊した。
これくらい一目で分析できる程度には、人間の死というものに接する経験を積んできていた。
けれど、認めることができなかった。
受け入れることができなかった。
「違うだろ、そうじゃないだろ……そいつはオレの役目だろ……なんで、お前が、なんで……」
母上のときと同じだ。
自分なんかを護るために、特別な人が盾となり、殺された。
「なん、で……どうして、また、オレじゃなくて……うあ、あああ、あああああ……」
歯を食いしばり、顔を苦悶に歪め、髪をかきむしる。
かつて母を失って以来、決して流すまいと心に決めていた涙が、堰を切ったように際限なく溢れ出る。
それはまるで、ルークの右目から流れ落ちる血のように。
張り詰めていた心が崩れ去っていく。
涙を食い止めていた決意が腐り落ちていく。
このまま正気を失えてしまえば、どんなに楽だったことだろう。
理性も何もかもなげうって、夢と幻の世界に逃避できれば、どんなに救われたことだろう。
けれど、ある魔族の存在がそれを許してはくれなかった。
「まったく、運のない奴め。これではいくら加減をしても、まるで意味がないではないか」
魔王ガンダルフは、嘆息混じりにそう言い放った。
「致し方ない。亡骸を材料として事を済ますか。生きたまま使えるのが最善ではあったのだが」
「――近付くんじゃねぇ」
他人事のように語りながら歩み寄ろうとする魔王ガンダルフに対し、ガーネットはミスリルの剣の切っ先を振り向けた。
涙に濡れた瞳は今や殺意に満ち、底なしの憎悪を魔王へと向けていた。
「テメェには指一本触れさせねぇ。オレの命に代えてもだ」
ガーネットは片手で剣を向けたまま立ち上がり、あらん限りの魔力を全身に滾らせた。
あれがいる限り、自分には安楽な逃避など許されない。ガーネットはそう確信していた。
命と引き換えにしてでも討ち果たすか、あるいはせめて――
「知ったことではないな」
魔王ガンダルフが更に一歩前へ進み出る。
次の瞬間、ガーネットは目にも留まらぬ速さで間合いを詰め、正面から魔王に斬りかかった。
しかし、その刃は最小限の面積で展開された魔力防壁によって、すんでのところで防ぎ止められてしまう。
「実に読みやすい太刀筋だ。怒りに技が鈍ったか? あるいは……」
「おおおおおっ!」
次々に繰り出される斬撃を、的確な魔力防壁が一発残らず防御し続ける。
魔王ガンダルフは一歩たりともそこから動かずに、必死の形相のガーネットを失望混じりに見やった。
「……殉死を望むか。潔く自害すればいいものを。余の手を煩わせおって」
斬撃の間を縫い、魔王は虚空を払うように軽く手を振った。
その先でガーネットの右腕が弾け、二の腕からちぎれかけた状態で垂れ下がる。
「があっ……!」
「貴様は不要だ。しかし慈悲をくれてやろう。あやつの後を追うがいい」
至近距離から凄まじい魔力密度の魔力弾が放たれる。
骨が折れ、臓物が潰れ、華奢な体が後方へと吹き飛ばされる。
もしも竜革の着衣を身に着けていなければ、胴体が真っ二つになっていてもおかしくはない破壊力。
「白狼の……悪ぃ、オレ……」
血反吐と共に口から漏れたのは、守り抜けなかった特別な男への謝罪の言葉だった。
緩やかな弧を描いて落ちていくガーネットめがけ、一本の魔力の棘が撃ち下ろされる。
避けることも防ぐことも叶わない。
きっと、床に追突するのと同時に刺し貫かれ、ルークと同じ魔法によって息絶えることになるのだろう。
そしてガーネットは、心の底からそれを受け入れていた。
むざむざ生き残るつもりなどなかったし、生き延びたいとも思えなかった。
同じ死に方ができるだけでも、守りたい人を守れなかった無能の末路としては上々だ。
そっと瞼を閉じ、冷たく硬い床への落下を待ちながら――
「……えっ……」
――けれど、ガーネットを迎え入れたのは、床よりもずっと柔らかで、自分よりもずっと骨ばっていて、大きく包み込んでくれるような感触だった。
肩越しに突き出された腕が魔力の棘を迎え撃ち、手の平に触れるそばから【分解】して跡形もなく消滅させる。
そして、ガーネットを抱き止める腕から注がれる魔力が、痛々しく傷ついた肉体を【修復】していった。
「あ……ああ……うあ……」
言葉が出てこない。
頭の中では色んな叫びが紡がれているのに、どれも声にならずに消えていく。
代わりに涙が次から次に溢れては、床に滴り落ちて雫を散らす。
まだこんなにも涙が残っていたのかと、自分でも驚いてしまうくらいだった。
絶望と悲しみに冷え切った心から溢れたのではなく、暖かくて、熱くて、震えるような心からの。
すぐにでも振り向きたかった。
けれど振り向けず、俯いていることしかできなかった。
「よかった……間に合ったみたいだな」
「……何やってんだよ、馬鹿野郎……」
優しく囁くような声が聞こえ、余計に感情が溢れ返りそうになる。
こんな顔はとてもじゃないが見せられない。
あいつの前にいるときの自分は、こんなに情けなくて弱っちい奴じゃないのだから。




