第101話 騒がしくも愛おしい朝
――息を切らしながら、真っ暗な石造りの迷路を駆けていく。
光源がないはずなのに周囲はよく見え、誰もいないはずなのに誰かが追いかけてきているという確信がある。
走っているのは十歳にも満たない『俺』だった。
ひたすら逃げて逃げて、逃げ続ける。
角を曲がると、その先は床が崩落して底の見えない暗闇が口を開けていた。
後ろから何者かに追いつかれる予感がして、さっきとは別の角を曲がって走り続ける。
しかし、行く手に行き止まりが立ちはだかる。
焦って振り返れば、目と鼻の先に『俺』がいた。
あちらの『俺』は同じように幼い子供の姿をしていたが、限界まで目を見開いて笑いながらこちらを覗き込んでくる様は、人の形をした怪物としか思えなかった。
『つかまえた』
もう一人の『俺』がそう囁いた途端、俺は海の底から引き上げられるかのように眠りから覚めたのだった――
「……なんて夢見だ」
ベッドの上でのっそりと身を起こし、雨戸を開けて朝の日差しを浴びる。
迷宮を彷徨った日々を夢に見ることはたまにあるが、流石にあれは初体験のバリエーションだ。
怪談話みたいな夢を怖がる歳ではないが、陳腐さと突拍子のなさには流石に閉口してしまう。
夢の内容よりも、そんな夢を見てしまう自分の方が心配だ。
そんなことを考えながら空を見上げていると、太陽がいつもよりも少しばかり高い位置にあることに気がついた。
「ちょっと寝過ごしたか?」
急いで部屋を出ると、ちょうどガーネットが朝食の準備をしているところだった。
「おう、遅かったな。珍しいじゃねぇか」
丸いパンに少し多めの燻製肉とチーズのスライスを添え、更にドライフルーツをいくつか。
パンだけで手軽に済ませないあたりに、ガーネットの育った環境が垣間見えるメニューである。
「銀翼騎士団から届いた書類を読んでたら、寝るのがすっかり遅くなってさ」
「ああ、今後のグリーンホロウの警備計画書だっけ。フェリックスらしいクソ真面目っぷりだよな」
「そのせいじゃないんだろうけど、妙な夢も見るし、今日は幸先悪いな」
「へぇ? どんな夢だ?」
ダイニングテーブルの向かいに座って食事を摂りながら、曖昧な記憶を掘り返して今朝の夢を語って聞かせる。
ガーネットは大して怖くもない怪談を楽しむ態度で話を聞いていた。
そして俺が語り終えたタイミングで、悪戯っ子のような顔で身を乗り出してくる。
「お前さ、迷宮で奇妙なゴーストに取り憑かれてたりとかするんじゃねぇか? 寝てる間に音もなく憑依して……とかさ」
「やめろよな、否定しきれないんだから」
そんな冗談を交えながら朝食を終え、開店準備に取り掛かる。
ホワイトウルフ商店で正式に働いている従業員は三人。
彼女達のうち、最初に出勤してきたのは一番新人のアレクシアだった。
「おはようございます、ルーク君! 何からお手伝いしましょうか」
「ああ、おはよう。じゃあ商品棚の埃を掃除してくれ」
「了解ですっ」
その間に、俺は小さな袋いっぱいの銀貨と銅貨を金庫から持ってきて、会計カウンターの引き出しに入れておく。
会計のときには釣り銭の出入りが激しくなるので、少額貨幣もそれなりに用意しておかないと、後で困ることになってしまう。
「ところでルーク君。このお店に住んでるのって、ルーク君とガーネット君だけなんですよね。すっごい希少金属も取り扱ってるわけですし、防犯とかは大丈夫なんですか?」
商品棚の掃除をしながら、アレクシアがそんなことを尋ねてきた。
アレクシアはうちで働くようになってから日が浅いので、俺達が当たり前に考えていることもまだ把握していなかったりする。
こんなときにきちんと説明するのも店長の務めだ。
「ミスリルをしまってある金庫は王宮からの貸し出しで、簡単には持ち出したりできないように色んな仕掛けがされてるんだ。物理的にも魔法的にもな」
「へぇ……でも、ミスリル以外はノーガードってわけじゃないですよね」
「当然。鍵は堅牢な奴にしてあるし、ノワールに結界や魔道具で備えてもらってるから、忍び込むのも楽じゃないと思うぞ」
そう説明した途端、アレクシアがぴたりと作業の手を止めた。
「……ノワールっていいますと、このお店で働いてるノワールですよね。黒魔法使いで勇者パーティの元メンバーの」
「グリーンホロウに他のノワールはいないと思うぞ」
「あの人って【魔道具作製】もできるんですか? 【黒魔法】だけじゃなくって!?」
「商品のアミュレットなんかを誰が作ってると思ってたんだ?」
アレクシアは何故か興奮気味に声を荒げている。
知らなかったのはともかくとして、一体どこに興奮する要素があったのだろうか。
「灯台下暗しとはこのことですね……ああ、構想だけ練って塩漬けにしていたアイディアの数々……魔道具職人とお近付きになれるなんて、まさに千載一遇……!」
前言撤回。こいつにとっては興奮する要素しかなかった。
今回の派遣で持ってきた大型弩弓は純粋に物理的な機巧で動く兵器らしいが、それ以前の試作兵器には魔道具を組み込んだものがいくつもあった。
しかし、基本的に魔道具というものは、魔法使いが資金稼ぎのために気まぐれに売り出す代物だ。
必要なものが必要なときに流通しているとは限らず、価格もまるで安定しないので、パーティを組んでいた頃はよく頭を悩ませている姿を目にしたものである。
仮に魔道具を作成可能な魔法使いと個人的に仲良くなれたなら、希望する魔道具や魔法的仕掛けを作成してもらえる可能性は大いにあるだろう。
「店長、おはよー」
「……おはよう……」
まさにそのタイミングで、勝手口からノワールとエリカが揃って出勤してきた。
俺がアレクシアに言葉を向けるよりも先に、アレクシアは目を輝かせて勝手口へと走っていった。
「ノワールさん! ちょっとお話が――ぐえっ!」
その直後、ガーネットがアレクシアの襟首を後ろから引っ掴んで動きを止め、更に腰の辺りを掴んでぽいっと後ろに放り投げた。
しかし投げた側だけでなく投げられた側の動きも軽やかで、アレクシアは何の危なげもなく着地してから素早く頭を下げた。
「掃除しろ」
「はい、ごめんなさい」
即決即断、即行動。そして即反省。
アレクシアは新人時代から何年経っても相変わらずだ。
とりあえず俺は、事態をまるで飲み込めていないノワールと、それを庇うように腕を広げていたエリカにも、朝の作業の手伝いを頼むことにした。
――そうして始まった、何の変哲もないはずの一日。
しかしこれが、魔王戦争における最後の平穏な日の幕開けであることを、今は誰も知らなかった――
前回の100話到達でお祝いのコメントを多く送っていただき、ありがとうございます。
一区切りつくまで毎日更新を続けようと考えて連載してきましたが、事あるごとに「一区切り」が変わっていって今に至りました。
ちょっと前は「累計ランキングに載るまで」と思っていたのに、ご覧の通り累計入りの後も毎日更新中です。
次の一区切りは「日間ランキングに載っている限り」か「書籍出版まで」かと考えつつ、無理のないように更新していきたいと思います。
それでは、今後も応援していただけたら幸いです。