第100話 ターニング・ポイント
今回は普段と違う視点からお届けします。
――地下空間に朝と夜があることには、いつまで経っても慣れないものだ。
白魔法使いのブランは、金属の格子で塞がれたガラスのない窓から『魔王城領域』の空を見上げながら、何度めかの嘆息を吐き出した。
空、いや違う。あれも偽物。
魔力的作用によって半日のサイクルで明滅を繰り返す、単なる岩の天井に過ぎない。
地下であるが故に気候の変動は一切なく、空気の流れも常に一定で雨も降らず、水の供給は地下水が集まった川に頼っているらしい。
「はぁ……頭がおかしくなりそう」
ここは魔王城の一室。
牢獄というほど過酷ではないものの、私室と呼べるほどの自由もない。
あえて言葉にするなら軟禁部屋だろうか。
一日を過ごすために必要なものは揃っているが、それ以上の物は何もない。
それでいて脱走に対する備えは万全であり、魔力を用いた脱走は試みることすらできないようにされていた。
「本当、忌々しいわ」
ブランは白く長い後ろ髪をかき分けて、かきむしるような手付きで自身の首筋に触れた。
ダークエルフの皮膚と同じ色をした、瘡蓋のような硬質の異物。
白尽くめの着衣に隠されて首筋から先は見えないが、これはブランの脊柱に沿って背中を縦断し、腰のあたりにまで達している。
幅は指の二、三本程度。
更に途中で何本かに枝分かれしており、細い先端の一部は脇腹にも及んでいた。
これは魔王軍の生体改造によって埋め込まれた異物。
魔王への恭順を誓った直後に施された最初の改造であった。
「人間、外に出ろ。ガンダルフ陛下がお呼びだ」
「……今行くわ」
不意に扉が強く叩かれ、部屋の外から鍵が開けられる。
ブランは諦めを露わにして、言われるがままに部屋の外に出た。
「ようやく私の処遇が決まるのね。思ったより時間が掛かったけど」
「陛下はご多忙であらせられる。貴様の処分の決定に割く時間すらもったいないわ」
ダークエルフの兵士に先導されて謁見の間へ向かう。
その豪華絢爛で大仰な扉の前には、既に二人の先客が待機していた。
「スズリ様! アウストリ様! 第四被検体を連行してまいりました!」
「ご苦労、下がっていいぞ」
戦死したノルズリにも負けない体格のダークエルフが、偉そうな態度で兵士を退かせる。
嵐のアウストリ。
気候が変動しない地下空間にありながら、地上でしか発生しない苛烈な気象を二つ名とする豪放磊落な男だ。
そしてもう一人は火のスズリ。
背丈はブランよりもやや高い程度で、顔を布で包んだ寡黙な魔族である。
スズリは身動き一つ取らずに沈黙したままブランに注意を払うことすらせず、アウストリだけがやかましく喋り続けている。
「喜べ、人間。陛下が貴様への施しを決めてくださる日が来たぞ」
「……身に余る光栄ですわ」
ブランは精一杯の作り笑顔をアウストリに返した。
数日前、ブランはマッドゴーレムを用いた地上任務を終了させた。
遂にその賞罰が決定されるときが来たのである。
「それにしても、他の連中は一体何をしているのやら。魔将が揃わねば話にならんだろうに」
「何をおっしゃっているんですかぁ? 魔将はもう全員……」
四人のうち二人が既に討たれたのだから、これで全員揃っているはずだ。
ブランがそう考えた矢先、信じがたい声が背後から聞こえてきた。
「カカカ。すまぬな、体を動かすのに少々手間取ってしまったわ」
「そんな……ヴェス……トリ……?」
土のヴェストリ。
鉱山付近の拠点を巡る戦いで冒険者に敗北し、確実に息絶えたはずの老エルフが、当たり前のような顔をしてそこにいた。
「人間の娘よ、驚きたいのはこちらの方だ。せっかく儂の魔法を貸し与えてやったのに、何故失敗することができたのやら」
真っ白になった頭が機能を取り戻すよりも先に、謁見の間の扉が開いて侍従の女エルフが魔将達を呼んだ。
「陛下がお呼びです。お入りくださいませ」
「やむを得ん、三人で事を済ませるか。ゆくぞ、ヴェストリ、スズリ」
まるで思考がまとまらないまま、謁見の間へ連れ込まれる。
勇壮なその広間は奥側が一段も二段も高く造られており、そこに鎮座する玉座の後ろには、四つの巨大な石碑が鎮座している。
石碑に描かれた不可思議な紋様は、ブランの知識に存在しない様式で、魔法的な意味があるのかどうかすら判別できなかった。
三人の魔将は迷うことなく高座の前まで歩み出ると、床に片膝を突いてひざまずいた。
「土のヴェストリ、陛下のご温情により蘇りましてございます」
「嵐のアウストリ、参上致しましたッ!」
「火のスズリ、ここに」
ブランは自分だけが突っ立っている現状に焦りを感じ、服従の意志が伝わるように深く平伏した。
魔王ガンダルフが真新しい巻物を膝に広げたまま、玉座の上から三人のダークエルフと一人の人間を一瞥する。
まだ何も語りかけられていないのに、ブランはカタカタと体を震わせていた。
明らかに存在の格が違う――自分ともアウストリのような魔将とも。
外見の威厳などという下らない問題ではない。
放つ魔力の質が明らかに異なっている。
心理的な威圧感などではなく、魔力そのものが物理的な重圧となってのしかかってくるかのようだ。
「ブランよ」
「は、はいっ……!」
名前を呼ばれるというただそれだけの出来事で、気を失いそうなほどに血の気が引いていく。
「此度の任務、まことに大儀であった。ノルズリの亡骸の破壊、騎士団の陣容の偵察、脱走者の殺害または連行……三つのうち二つまでを達成したと認めよう」
「あ……ありがとうございます……!」
「故に、そなたに施す予定であった十段階目までの改良を六段階減じ、四段階目までの改良に留めるものとする」
まるでそれが褒美であるかのように放たれた宣告は、ブランにとって絶望以外の何物でもなかった。
十段階目とは脳を除く全身を改造することを表し、一段階減るごとに比率が一割減少していく。
即ち四段階目までの改造とは、全身の四割を別物に作り変えられてしまうことを意味する。
「ど、どうしてですか! 二つまでは成功したのに! どうし……ぐがっ!」
唐突に強烈な力で後頭部を捕まれ、そのまま床に顔面を押し付けられる。
「陛下の御前である。乱心とみなし首を刎ねてくれようか」
ほとんど聞き覚えのない声――魔将スズリがいつの間にかブランの背後に移動し、抗議の声を上げようとしたブランを組み伏せたのだ。
「構わぬ。離してやれ」
「御意」
スズリの体格に見合わぬ怪力から解放されたブランは、冷たい床に這いつくばったまま玉座を見上げた。
魔王ガンダルフは眉一つ動かすこともなく、侮蔑すら感じていないかのような表情で、ブランに更なる言葉を投げかけた。
「まず、そなたの脊椎に施した改良で一割。これは此度の任務において必要不可欠なものであった」
「は……はい、存じて、おります……」
「そなたに与えた任務は三種。余は一つにつき改良三段階分を割り振ることにした。故に、うち二つを達成したそなたには、六段階分の改良の免除を許す。以上だ」
「お、お待ち下さい、陛下! 何卒、何卒……!」
必死にすがり寄ろうとするブランの背中を、アウストリの粗暴な足が踏みつけた。
「げほっ……!」
「見苦しいぞ、人間! 陛下のご温情に不満があるというのか!」
そのとき、謁見の間の扉が勢いよく開け放たれた。
魔王を除く全員が一斉にそちらへ顔を向ける。
アウストリは愉快そうに笑いながら、ブランの背中から足を離した。
「これでようやく四魔将が揃い踏みだな! しかし何だその有様は! 俺を笑い死にさせるつもりか?」
「カカカ。だから言ったであろうに。慢心することなく万が一に備えておけとな」
謁見の間の入り口に立っていたのは、真新しい鎧を身に付けたダークエルフの女性――いや、少女だった。
まさかあれが四人目の魔将、戦死した氷のノルズリの後釜なのだろうか。
ダークエルフの少女はアウストリ達のからかいの言葉を聞き流し、速足で玉座の手前までやって来ると、他の三人がそうしたように片膝を突いてひざまずいた。
「氷のノルズリ、ただいま罷り越しました」
――氷のノルズリ。
ブランは立ち上がることも忘れて驚愕に打ち震えた。
ノルズリは確かに死んだはずだ。魔王の命令で死体を徹底的に破壊したはずだ。
名前を引き継いだだけの後継者であれば納得もできたが、魔王ガンダルフが発した言葉は、唯一の現実的な可能性を完全に否定するものだった。
「これはまた妙な器を選んだものだな。そなたに適合する器が見当たらなかったか」
「仰せのとおりにございます。当代は理想個体が存在せず、属性適合のみを考慮した妥協をせざるを得ませんでした」
ブランはようやく目の前の現実を理解した。
死んだはずのノルズリは、文字通り新たな肉体を得て蘇ったのである。
「ではノルズリよ、報告を聞こう。偵察隊によれば、そなたは炎を操る東方の剣士に敗北したとのことだが――」
「……陛下。畏れながら申し上げます。私を死に至らしめたのは東方の剣士ではございませぬ」
「ほう?」
ここに来て初めて、魔王ガンダルフの顔に表情らしい表情が浮かぶ。
それはブランの目には、驚きよりも好奇心の発露に近い反応のように映った。
「類稀な【修復】技能を用い、我ら魔王軍による拠点への攻撃を無力化し続けた男……奴こそが私を打ち破った人間であり、我らにとって最大の脅威となりうる存在であります」
嵐のアウストリが雷鳴のような大声を上げて驚き、土のヴェストリのしわがれた声をかき消す。
「なにぃ!?」
「それはまことか?」
火のスズリは沈黙を保っており、布で完全に覆い隠された顔を想像することもできない。
そして魔王ガンダルフは膝の上の巻物を畳み、薄い笑みを浮かべていた。
「ならば、改めて調査をせねばなるまいな」
「陛下! お聞きください、ガンダルフ陛下!」
ブランはほとんど反射的に声を張り上げ、縮こまるようにして平伏した。
「私はその男をかねてより知っております! 地上偵察の際に我が愚姉の身辺を調べるにあたり、その男の現状も余さず把握いたしました!」
「ふむ、騎士団以外の調査結果は概要を上げさせたのみだったな。内容如何では、望み通り改良段階を減じてやろう。まずはその人間の名を申してみよ」
「ありがとうございます……! 白狼の森のルークという人間でございます!」
罪悪感は微塵もない。本人はおろか、彼と共に戦うと決めた実の姉に対してすら。
今はただ、怪物に作り変えられることを避けたいという願いだけが、ブランの思考を埋め尽くしていた。
Q.どうして今回はこんな内容に?
A.敵本拠地での幹部勢揃いシーンとか好きだから