そのことを知っているのは私だけ。
◆◇◆
体が左側に傾くのを感じ、はっと目が覚める。さっきの予知夢のせいか、ドキドキとした鼓動は収まっていない。無意識に彼を探すと、さっき見た夢の通りに、彼はそこに座っていた。
彼のことは何一つ知らない。でも、この気持ちを、このまま放っておいていいのかしら?
そう思うと、居ても立ってもいられず、気づくと席を立っていた。ホームへと降り立つと彼を走って追いかける。何て声を掛けたらしいのかしら。いつも見ていました、なんて恥ずかしくて言えない。
「やっと会えました! ずっとお会いしたかったんです!」
思ったよりも前のめりな言葉が、大きな声で出てしまった。
私の馬鹿! 彼が覚えてくれているかも分からないのに。ずっとお会いしたかったって何よ。彼はアイドルでも無いのに。
その日のその後のことは、正直に言うと全然覚えていない。緊張していたんでしょうね。
□□
その日は、久しぶりに大学時代の同級生の里美と会っていた。彼女が話すのはいつも上司の愚痴ばかり。
「上司がね、ひどい奴なのよ。いつも帰り際に仕事を押し付けて帰っちゃうんだから」
「やっぱり会社勤めは大変なのね」
私は卒業後に大学職員をした後、結婚してからは専業主婦になっていた。社会人として働いていた期間はとても短い。
「香蓮は有望株な旦那さんを持ってうらやましいわ~」
そして、だいたい、いつもこんなこと言ってくる。あなたはしっかり旦那さんを見つける努力をしなさい! と内心で思いながらも、表向きは笑って流す。
「そんなことはないよ。うちにいても勉強してばかりで、全然かまってくれないんだから」
「でも、里美が彼と付き合ったことを報告してくれた時は嬉しかったな」
「そうね。そういえば、あなたにしか話さなかった気がするわ」
当時、彼女に話したのは、やっぱり浮かれていたからだと思う。その時は、みんなに広まってもいいやと思っていた。
でも、里美は誰にも話さないでいてくれた。だから、彼女以外にそのことを知る人はいなかった。
それがあったからこそ、里美とは何だかんだで卒業後もつながり続けていた。彼女の裏表のない性格に、そうした気遣いが伴った時に、彼女がとても尊い存在に見えたのだ。今では大学時代の唯一と言って良い友人になっている。
そんな食事が終わった後、何となく、そのまま帰るのが嫌になって、めったに入らないバーに入ってみることにした。里美といて楽しくて、舞い上がっていたのかもしれない。誰かと話したいような、そんな気持ちになっていた。
でも、人がたくさにるような騒がしいところは嫌だし……
そんなことを考えながら、中心街を離れたところを家に向かって歩いているとバーが現れた。これだけ人気のないところにあるバーなら、きっと落ち着いた雰囲気に違いないと淡い期待をする。
中に入ると数えられる位の椅子が並んでいる、こじんまりしたバーだった。先客は一人だけのようでとても静かだった。店内にはジャズが流れている。この店にして、正解だったかしらね。
しかし、その期待はあっさりと裏切られることになった。
「よお、姉ちゃん。綺麗だな!」
そう、先客の男が大きな声で話しかけてきたのだ。ちっ、酔っ払いに絡まれるなら慣れないことをしなければよかった。そんな思いをよそに男は全然止まる気配が無かった。
「昔、あんたみたいな美人を助けようとしたんだが、へっぽこ大学生に邪魔されちゃってな。まあ、あいつは良い奴だったけどな」
「そうですか」
出来るだけ興味のなさそうな声で言う。このお店の人には申し訳ないけれど、すぐに出ることにした。立って会計を済ませる。
「えらい早いな。あんた、もしや超能力者か?」
男はそんな訳の分からないことを言ってくる。まあ、超能力者かもしれないわね、と心の中で嘲笑する。
店を出て、夜道を歩く。まあ、お酒を飲まないにしても夜風に当たるだけでも気分転換になるかもしれないわね。
しかし、夜道の散歩は長く続かなかった。急に声を掛けられたから。全く、付いてない夜だわ。
「姉ちゃん、付いて来いよ。楽しませてやるから」
無視して歩き続けようとすると、男は私の手を掴んだ。いや、手は出さないでよ。予想外の行動に焦り、体温が急激に下がるのを感じる。血の気の引くような感覚だろうか。
「ちょっと、やめなさい」
しかし、男は止める様子は無かった。男は酷く酔っているのか、こちらの言うことは一切聞かずに、ぐいぐいと引っ張っていく。大きな声を出さなきゃいけないのに、咄嗟に声を出すことが出来ない。精一杯抵抗するのだが、男の力が強くてどんどん引かれていく。どうしよう、どうしよう。
「よお、おっちゃん。そこの女性は嫌がっているようにみえるぞ」
急にそんな声が視界の外から聞こえてくる。その声の主は、私の手を引く男の腕を掴む。その男はさっきバーにいた男だった。服の上からでも、その握る手が腕に食い込んでいるのが見える。相当強い力で握っているようだ。
「いて!」
そういうと男の手が離れた。男はその手の主を睨みつけたのだが、男の体格の良さに気づいたのか、下を向いてそそくさと去っていった。
助かったわ、本当にどうしようかと思った……
「ありがとう。でも、どうして?」
どうして店から出てきているんだろう? まさか、追いかけて来たわけじゃないわよね。いやよ、次から次に。別の不安が襲い掛かってくる。
「俺は世界を救うぞ」
「はい?」
「正義の味方は、人が困ったときに登場するもんだ」
いや、答えになってないわよ。でも、あんなに真っすぐに、あんなに恥ずかしいことを言う人なんて初めて見た。その表情を見て先日のワイドショーを思い出す。
「奈雅井……」
「お、姉ちゃん、俺のこと知っているのか?」
そういって嬉しそうにしている。俺も有名になったものだ、なんて一人で呟いている。変な男ね。
「じゃあ、なんかのよしみだから俺が書いた本をやるよ」
<男 奈雅井が世界を救う話>
そのあまりにくだらないタイトルに思わず笑ってしまう。
「何よ、このタイトル。ふざけているの?」
「いや、大まじめだ。俺は世界を救うからな。参考になるぞ」
その表情を見てさらに笑ってしまう。だめだ、笑いが堪えられない。
でも、咄嗟に馬鹿にしてしまったが、もしかしたら、この男は本当に世界を救うかもしれないな、とふと思った。ワイドショーで見た時は、胡散臭い成金かと思ったが、少しイメージと違った。
「ごめん、ありがとう。大切にするわ」
そういうと、奈雅井は満足したような表情をして、「じゃあな! 気を付けろよ」 と去っていく。大股でずんずん進んでいくので、呼び止める間もなく、あっという間に遠くまで行ってしまった。
なんだかとても不思議な体験をしたわね。
そういえば、勝も大学生の時に変わった人の話をしていたっけ? 名前はすっかり忘れてしまったけど、その人も世界を守るとか言っていたのよね。
その人が彼に国家公務員を目指させたというのだから、不思議なものだ。
たまには、私も自分の気持ちにまっすぐになろうかしら……
□
家に帰ると勝は玄関にいた。私の姿を見るとほっとしたような表情になって、「おかえり」とだけ言うとリビングに戻っていく。
心配してくれていたのね。そういうのは言ってくれてもいいのに。でも、そう思う私も自分の気持ちは素直に言えていないのだけれど。
リビングに入るとテーブルの上には読みかけの本が置かれていた。カバーが掛けられているが、きっと仕事に関係した本を読んでいるのでしょう。
勝を目で探すと、彼はキッチンでお湯を沸かしていた。
私は、家に帰ってきた安心感から急な疲れに襲われてソファに腰を掛ける。すると、勝はマグカップとティーポットを持ってこちらに歩いてきた。
「紅茶、飲む?」
「ありがとう」
そう言って、入れてくれたお茶を口に入れる。その温かさと香りが安堵感を誘う。私は、やっぱり彼のことが好きなのよね。こういう優しいところとか、真面目なところとか。きっかけは不思議なものだったけれど、少しずつ、その気持ちを温めてきたんだと思う。ゆっくりと温めた気持ちは、きっと冷めるのもゆっくりなのよね。
そういう気持ちを伝えたいのだけれど、人は一度、自分が纏ってしまった鎧は簡単には脱げない。急にキャラクターを変えるのはやっぱり難しい。
でも、あの男みたいにまっすぐになれたら——
「私はあなたのことが好きよ」
彼は驚いたような表情をしたが、その後すぐに照れたように、でもにこやかな表情でこっちを見ていた。その表情の意味を知っているのはきっとこの世界で私ひとり、そのことを知っているのは私だけ。
「香蓮ちゃん、飲みすぎだよ」
そういって、彼は私の頭に手を置いた。意識が消えゆく中で、彼の優しい声が耳に飛び込み、すっと心の中に染み込む。その言葉は私の心に広がって、幸福感と安堵感を与えてくれた。心が温まるような気持ちになる。
「僕も——」