あなたは私の未来に入り込んだ唯一の人。
「勝、ご飯の用意が出来たよ」
「ああ、すぐにいくよ」
そう、彼は気のない返事をする。きっと部屋で本を読んでいるのだろう。いつも通りの日常ね。
≪本日のゲストは、独創的な慈善活動で知られる奈雅井さんでした≫
テレビのワイドショーがエンディングテーマを流し始める。登場していた男は、最近慈善活動家として急に名前を知られだした男だ。どこぞの成金が、余ったお金を寄付か何かでもしているんだろう、と多くの人は冷めた目を向けている。寄付金で税金を節税しているとからかう人もいる。人の噂は酷いものだ。寄付しても節税になんてならないのに。
私の旦那はそんな世俗的なことには興味がない。そもそもテレビを見ることはほとんどなく、家にいる時は勉強ばかりしている。曰く——
「残された人生は僕がやりたいことを実現するには短すぎる。少しでも色々なことを学ばないと」
とのことだ。理想が高いのは結構だけれど、もう少し妻の私にも構ってくれればいいのに、と思ってしまう。まあ、付き合ったころからそうだし、そこも含めてここまで一緒にいるのよね。そう思って口にはしない。
彼は、国家公務員の総合職として、第一線で活躍している。省庁は、経済産業省だったはずだが、普段意識しないので時々忘れそうになってしまう。少し真面目過ぎるところはあるが、先に付き合いたいといったのは私だったはずだ。
今思えば、あれを一目惚れと呼べば良いのか、他の表現があっているのか、それはいまだによく分からない。大学3年の夏に知り合いになり、大学を卒業するころに付き合った。卒業してすぐに結婚したものだから、周りからはとても驚かれた。
私と彼の出会いは、きっと誰に説明しても理解してもらえない。だから、誰にも話していない。でも、彼は 『私の未来に入り込んだ唯一の人』 だった。
◆◇◆
体が左側に傾くのを感じ、はっと目が覚める。あら、寝てしまっていたようね。今日は朝から授業だったから疲れてしまっていたようだ。周りの大学生は授業中に寝ているから、授業が終われば気分爽快かもしれないけれど、私にはそんなことは出来ない。
私はしっかりと、授業を受けて、ノートを取り、家では復習をしていた。周りからは「香蓮は真面目だよね~」 と言われるのだけれど、これが普通だと思う。
周りの風景を見ると地元の駅に到着したことが分かる。膝に乗せた鞄を肩にかけて、電車から降りる。降りる時に乗ろうとする男性と入れ違う。降りる人が優先だから、男性はすっと道を譲ってくれた。私は軽く会釈して、電車から降りる。ホームを歩きながら、ICカードの残高が足りないことを思い出す。そっか、チャージしないといけないのよね。鞄に入れておいた財布を取り出そうとする。
しかし、財布が見当たらない。慌てて鞄の中を探してみても、財布が見つからなかった。私はモノを無くしたりしたことがほとんどない。あるべきはずのものがないことに焦りが抑えられない。
盗まれたのかしら? どうしよう——
◆◇◆
体が左側に傾くのを感じ、はっと目が覚める。きっと眠っている間に盗まれたのだから意味は無いのにとっさに鞄を体に寄せてしまう。
前を向くと、さっき見た地元の風景に男の人が割り込んでいる。あれ、さっきと違う景色になっているわね。その男の人を見ると横を向いて、不思議そうな顔をしていた。若い人だな。同じ大学生かしら?
そんなことを思って彼を見つめていると、彼はふっとこちらに顔を向けた。睨みつけてしまったことが恥ずかしくなり、慌てて開いた扉から飛び出していってしまった。乗り込もうとしていた男性が驚いたリアクションをする。
去り際に彼の方を向くと、引き続き、こちらを見ている様子だった。なんだかとても恥ずかしく、そのままホームを走り抜けて、階段を上がるところまで来てしまっていた。
駅の改札の近くまで行くと、窓口の方に入っていく。財布を盗まれたことを報告しないと。
人の良さそうな駅員さんが「どうしましたか?」 と声を掛けてくる。私の表情から焦りが読み取れたのだろう、トラブルがあったのかと心配した顔をしていた。
「実は、財布を盗まれてしまって」
「本当ですか? それは大変だ。でも、万が一落としていて、届け出があるといけないので、警察で届け出を出された方が良いですよ。電車内で見つかった場合はしっかりと保管しておきますので」
「あ、そうですよね。警察に届け出るのが先ですよね」
「ここまでは定期ですか?」
「いつもと違うルートできてしまったから定期ではありません」
「お金は足りそうですか?」
あ、どうしよう。不慮の事故とはいえ、これは、無銭乗車してしまったことになるんじゃ? 鞄の中に千円札が落ちていたりしないかな、いや、100円あれば——あれ?
鞄の中にはないはずの財布があった。とっさに取り繕ってしまう。
「ええ、足りそうです。少しお腹が痛くなってしまったので失礼します」
そういって、駅の窓口から出ていく。駅員さんが後ろから声を掛けてくる。
「お大事に! 財布も見つかると良いですね」
すみません、見つかりましたとは恥ずかしくて言えない。
そのまま急ぎ足でトイレに向かう。空いていた個室に入ると、改めて鞄の中を見てみる。すると、やはり見間違いではなく、あるべきところに財布があった。
どうして? 予知夢の1分間が外れることなんてないのに——
予知夢。その不思議な現象を初めて体験したのは、今から半年ほど前だった。試験勉強で夜遅くまで勉強していた私は、勉強机の上で寝てしまっていた。
目が覚めた私は、ふらふらとベッドに向かったのだが、途中でバランスを崩してベッドを思いっきり蹴ってしまった。「痛い!」と思ったところで、景色が途絶えた。
気づくと勉強机の上で起きていた。ふらふらとベッドに向かったのだが、さっき見たようにバランスを崩してベッドを思いっきり蹴る。「痛い!」 と思いながらも、さっきと同じことの繰り返しじゃない、と思った。どうせ夢ならそんなドジな夢なんて見なければいいのに。そう自分の脳に腹が立った。
しかし、その現象はその1回では終わらなかった。それからというもの、寝起きの1分間だけは必ず繰り返し再生がされているのだった。なぜそんなことが起こるのか理由は分からない。けれど、誰にも証明できる手立てもなく、その現象は一人で受け入れるしかなかった。
家に帰るとお母さんが「おかえりなさい」 と声を掛けてくる。「ただいまー」 と応じながら、自分の部屋へと向かう。まだ、頭の中が整理できていない。
まず、予知夢が外れたのは初めての経験だった。どうしてなのかしら? でも、もしかしたら彼が登場したことで、財布を盗まれる事態が避けられたのではないかしら。だって、外れないはずの予知夢が外れるきっかけは彼が現れたことだもの。
□
それからというもの、無意識に彼のことが気になっていたらしく、定期とは違う道で帰るのが日常になっていた。彼とは生活のリズムが合うようで、何度か帰りの電車で見かけることがあった。彼はこちらに気づく様子はなく、いつも参考書を読んでいた。しかも、彼は私と同じ駅に住んでいるようだった。駅を挟んで北と南で反対側だったけれど。
ある時、バレないように彼の読んでいるテキストを覗き込んでみると、市役所の試験に向けたテキストを読んでいるようだった。
そうか、彼は市役所に勤めたいのね。しっかりと目標があってえらいな、と思う。それに対して、私はただただ目的もなく大学の授業を受けているだけ。役に立つかどうかも分からない文学の勉強をしている。ちゃんと、学部を選べば良かったな、と後悔の念が胸に押し寄せる。
しかし、地元が同じはずの彼は、たまに地元の駅では降りずにそのまま電車に乗って先の駅にいってしまうことがあった。そんなときの彼の表情は、なんだかうきうきしたような顔をしていて、いつも読んでいる参考書も頭に入っていないようだった。
だって、参考書を読みながらニヤニヤしているのよ。変だったらありゃしない。
でも、そんな彼の教科書は、私が出会って数か月してから国家公務員試験に向けたテキストに変わっていた。
□□
ところで、彼は一度だけ、ものすごく酔っぱらって帰ってきたことがある。よほど楽しいことがあったのか、元気な声で「ただいまー」 というと靴も並べないでリビングまで入ってきた。そのままソファに腰を掛けると、体を横に傾ける。
彼はふぅと息を吐くと、こちらを見てニコニコしている。ニコニコしながらこっちを見ているのはいつも通りだけれど、こんな時くらいしか聞けないから——
「どうしてニコニコしながらこっちを見ているの?」
そう聞くと、照れたような表情をした後に、小さな声で答えた。
「君を見ていると幸せな気持ちになるんだ。好きだよ」
そういうと寝てしまったけれど、私にとっては忘れられない一言だった。ほとんど、そういうことを話さない彼が、唯一、私にかけてくれた愛の言葉だったから。きっと、彼は私に好意を持ってくれているのは日常から伝わってはいるけれど、言葉にされないと心配になるもの。
でも、彼に話しかけようと思ったきっかけは何だったのかしら? 彼からアプローチされた記憶なんて、ほとんどないから、私からアプローチしたはずなんだけど……
◆◇◆
体が左側に傾くのを感じ、はっと目が覚める。あら、寝てしまっていたようね。いつも通りの帰り道、いつからか定期もこっちの経路に変えていた。お母さんにはどうして変えるの? と聞かれたのだが、バイトがあるからと適当な理由を付けてしまった。まさか、気になる男の子がいて何て言えないもの。
ところで、その日は大学でのことがあってもやもやしていた。
「ねえねえ、香蓮! 恋しているでしょ?」
そう声を掛けてきたのは里美だった。彼女は普段は人と付き合わない私に唯一声を掛けてくる人だった。最初は何で話しかけてくるんだろう? と思っていたけれど、あまり深い意味は無いみたいだ。
「え、香蓮さん、好きな人がいるんですか?」
同じクラスの高橋君が何だかショックを受けたような表情をしている。いや、私だって人間だから好き嫌いはあるわよ。いや、そもそも好きじゃないし!
「そんなこと言ったかしら? そんなこと無いけれど」
努めて感情を表に出さないように伝える。
「またまたー。最近ぼうっと外を見つめてばかりじゃない」
「そんなことっ、無いって」
そんなリアクションを里美はニヤニヤしながら見つめている。高橋君はもやもやしたような表情でそのやり取りを見ていた。
「高橋君は、そんなことより、さっさと課題を進めたらどう?」
そう、冷たく言い放ってしまった。彼はさっと自分のパソコンに向き合って、自分の作業を再開した。冷たくするつもりは無かったんだけどな……また、やってしまった。
ほんとは、そういうことを里美に素直に相談できればいいんだと思う。でも、どんな口調で相談すれば良いのか、分からない。それに、そんなことを話し始めたら、みんなの注目を集めて大事になってしまう。
自分のキャラクターという鎧は一度着てしまうと、なかなか脱げないものなのかもしれない。そういうところを気楽にできる里美が羨ましくてならない。
そんなやり取りがあったので、その日は何だか気持ちがもやもやしていた。
彼のことが気になっているのは確かだけれど、それが好きという感情かというと違うと思う。だって、彼のことは何一つ知らないから。
そんな時に、少し離れたところに彼がいるのが見えた。眠そうな表情で外を見つめていた。彼は、駅に着くと立ち上がって、外に出ようとしたが、入り口の荷物に引っかかって転びそうになっていた。
あ、私も降りなきゃと慌てて電車を降りる。
彼の後姿を見ながら、ドキドキと心臓が脈を打つのが分かる。私、本当に彼のことが好きなのかしら? いや、そんなことは無いわ。だって、彼のことは何一つ知らないもの。
そう思いながら、少し彼の後ろを付いていったところで、目の前の風景が途切れる。
ずっとブックマークを残してくれている人がいたので、続きを書くことにしました。
その方に届いていれば幸いです(外すの忘れてただけとか言わないでね)。