僕は1分後の君を助ける。
◆◇◆
「ご乗車ありがとうございました。次は中里です。お出口は右側です。」
日本中で聞く女性の声が僕の降りる駅名を告げる。それは、人々の耳にはっきりと、しかし、日常に溶け込み、人に意識をさせないような声だ。停車に向けて減速する車両が僕の体を右に傾ける。
目をゆっくりと開けると印象派の絵画のような、光と色が混じり合った世界が徐々に開けて、現実が目の中に飛び込んでくる。車内はそれほど混雑していないが、席は埋まっており、立っている人が何人かいる程度だ。向かいの席に女性が座っているのが見える。同じくらいの年だろうか。清潔感のある服装をしていて、顔立ちはとてもきれいだ。可愛さと綺麗さが入り混じったような顔立ちをしている。
彼女が膝に乗せるトートバッグは、その口が開き、財布らしきものが見えている。他にもノートが入っているようで、恐らく、僕と同じ大学生なんだろうな、と思う。こんな素敵な同級生がいて、しかも仲良くなれたら、毎日楽しいだろうな、と意味のない妄想をしてしまう。
しかし、いくら日本でもさすがにもう少し警戒したほうが良いだろう。取ってくださいと言わんばかりの財布の見え方に、若干呆れる気持ちと、日本の平和さにほっこりする気持ちが同居する。まあ、日本人のほとんどが傘と自転車以外は盗まれないのだから仕方ないか。
すると、彼女の隣に座る男が、その財布を見つめているのが分かった。そうですよね、あまりに無防備で心配になりますよね?
しかし、男は僕と同じ気持ちでは無かったようだ。そのことはすぐに分かった。なぜなら、男は眼球だけを動かして周囲の様子を伺い始め、さらに手も不穏な動きをし始めたのだから。
そして、その男の手は財布へと伸ばされていった——
◆◇◆
「ご乗車ありがとうございました。次は中里です——」
日本中で聞く女性の声が僕の降りる駅名を告げる。停車に向けて減速する車両が僕の体を右に傾ける。
この現象は予知夢だ。寝起き後の1分間だけをみることが出来る。このように全く同じ風景が繰り返されるのだ。そして、自分だけがその1分間に抗うことができる。これは、平凡な僕が何故か手に入れたささやかな特殊能力だ。特殊能力には違いないのだが、所詮は寝起きでタンスの角に足をぶつけるのを避けられるくらいの力だった。
しかし——
目の前で起こることは今までとは違う。初めて遭遇した『変えなければならない未来』 に鼓動が早くなり、頭に血が上ってくるのを感じる。みぞおちの上のあたりが細やかに痙攣し、様々な思考が駆け巡る。
何とかしなければ……でも、予知夢を知らない女性からしたら変なやつなのではないか。実際にアクションを起こしていない泥棒から守っても、残念ながらそれを証明する手段などないのだから。
しかし、『この未来を変えられるのは僕だけ』 という使命感が勝ったとき、僕は席を立つ。停車に向けた減速の中でバランスをとりながら、一歩、二歩と歩みを進めていく。
そのとき、視界の片隅に同じ方向に歩みを進める男の姿が映った。
「え……」
まだ減速しはじめたばかりで、次の駅で降りるには少し早いタイミングだ。そして何より予知夢になかった出来事に焦りを隠せない。その男も驚いたような表情をこちらに向けている。徐々に駅に近づくにつれて、慣性の力が働き、何もしないと倒れそうになってしまう。慌てて、目の前のつり革をつかむ。
ふと、女性の方を見ると怪訝な表情をこちらに向けている。口の空いていたトートバックを体に強く引き付けて、警戒と恐怖の入り混じった表情をこちらに向けている。二人の男が急に迫ってきたら、驚くのは当たり前だろう。財布は盗まれていなかった。
彼女は、電車が駅に停車すると足早に外へと飛び出していった。一度こちらを振り返ったが、その後はこちらを見ることなく去っていく。
乗車待ちの男性が少し驚いた表情で彼女に視線を向けたが、何らかの解釈をして納得したのだろう。降りる人がいないことを確認すると乗車してくる。
あ……降りなきゃ。
「すみません」 と、その男性とぶつからないように気を付けながら、電車を降りる。さっきの女性はすでに駅の階段を駆け上がって行っていた。
「あーあ、降りちまった。この後の予定は間に合わねえなあ…」
不意に後ろから声が聞こえる。条件反射のように振り返ると、さっきの男が立っていた。そしてこう続ける。
「まあいいか。ところでお前、予知夢が見れるだろ。」
□
大学の授業終わりで一度家に帰り、公務員の専門学校に行くはずが、気づくと駅前の居酒屋に向かっていた。
「お前、この後暇だよな? 飲みながら話すか」
小学生の時に植え付けられた知らない人にはついて行かないという言葉が頭に浮かぶ。
「いや、居酒屋はちょっと」
と抵抗してみた。しかし、男は想像以上に強引だった。
「金が無いなら出してやるから」
結局、この言葉にあっさりと負けた。勢いに負けたというのもあるが、知らない人に付いていく危険よりも、予知夢のことを見抜かれている理由を知りたいという好奇心が勝ったのだ。
席に着くや否や、「生2つ。あと枝豆とだし巻き卵」 と注文した。普通は何を飲むか聞くよね。どんな仕事をしている人なんだろう。
「俺は奈雅井。奈雅井 隆だ。桜沢市役所で働いている。32歳だ。お前は?」
桜沢市役所、それは僕が目指している団体の名前だった。僕は公務員になって地元で平穏に過ごすことを決めていたのだ。小さい頃は大きな夢があったはずなんだけれど、そんな夢はもうすっかり忘れてしまった。
「坂本 勝です。東部大学の1年です。実は桜沢市役所を目指して勉強しています」
「桜沢市役所? 変わってんな。つまらねーぞ。」
いや、そこで働いている人に変わっているとは言われたくはない。あと、市役所勤めが多少退屈である、というのは言われなくても分かっているつもりだ。
「そんなくだらないことより、お前の力についてだよ。予知夢見られるだろ?」
人の将来計画を下らないこととは失礼だな。奈雅井はひどく興奮した様子でそういってくる。この人、本当に公務員かな。なんだか怪しい気がしてきた。
「そうですね。寝起きの1分間くらいの未来が見られます」
「俺はきっちり測定したことがあるが、60秒ジャストだったぞ」
「でも、奈雅井さんが立ち上がるシーンは、私の予知夢にはありませんでした」
「それだ! それなんだよ! 俺は初めて自分の予知夢が外れるのを見た。予知夢で見たことを変えられるのは自分だけだと思っていたから驚いたよ。それで、もしやお前も同じ能力を持っているじゃないか、と思ったわけだ」
「なるほど」
あの状況でそこまで推測したというのは、論理がすごく飛んでいる気がするが、結果としては確かに当たっていたわけだ。
奈雅井と連絡先を交換をした後、居酒屋の前で別れた。
「じゃあな、また連絡するよ。俺は世界を救うぞ。その手伝いをしてくれ!」
そんな訳の分からないことを言うと、大股で駅へと向かって行ってしまった。なんだか、嵐のような時間だったな。気づくと専門学校の時間には間に合いそうにない。そもそも、お酒が入ってしまっている時点で勉強なんて出来ない。未成年が飲酒するなって? そこは目をつむってください。
□
それからというもの、奈雅井は定期的に連絡を入れてきた。「勝、世界を救うぞ」 という意味の分からないことを言って呼び出しては、色々なチャレンジに僕を巻き込んでいったのだ。例えば——
土曜日に呼び出しを受けて、奈雅井の住む桜沢駅に向かった。奈雅井は桜沢駅から徒歩3分ほどのアパートに住んでいる。その部屋に入ると、途端に声を掛けてくる。
「競馬のレース結果を当てるぞ! 競馬は最も短いレースなら一分弱だ。二人で協力すればレース開始前に結果を知ることが出来るはずだ」
「は? ばかじゃないの」
最初こそ緊張して敬語を使っていたのだが、だんだん馬鹿らしくなってきて、結局は全く気にせずにタメ口を利くようになっていた。奈雅井もそれを気にしている様子は無い。
「いや、行ける! 俺を信じて協力してくれ」
そう確信をもって宣言すると、奈雅井は聞きたくもない計画を嬉しそうに話して聞かせてきた。誰も計画を聞くなんていっていないんだけどな。
それはこんな計画だった。
まず、奈雅井がレース終了の1分40秒前に起きる。レースの疾走時間が1分だとしても、その時点ではレース開始前ということになる。
そして、俺はレース終了の50秒前に起きるのだ。そうすると、レースが終了しているところまで予知夢で見ることが出来ているので、レース終了50秒前には結果をしっていることになる。
俺は、目覚めたらすぐにその予知夢のレース結果を奈雅井に伝える。奈雅井は俺が伝えたレース結果を予知夢で見ることができるので、二人で協力することで、レース終了の1分40秒前には結果を知っていることになる。
奈雅井は、その計画のために決まった時間に頭に水をかける装置を作っていた。この人、本当に馬鹿だと思う。
これらは、奈雅井が過去のタイムを調べて、出走時間とゴールの時間を予想し、組み立てた時間設定だ。そんなの上手く行くわけがないと思っていたのだが、翌日の日曜日にシミュレーションでやってみたところあっさりできてしまった。
「うおー、すげーよ。奈雅井さん。これでお金持ちになれるじゃん!」
さすがにテンションが上がる。まさか、絶対に勝てる賭けができるとは。
「まあ、落ち着きたまえ。今日は短距離レースが無いのであるから、本番は来週の日曜であるよ」
奈雅井も興奮しているのか口調がおかしなことになっている。
「分かった、来週の土曜の夜にはこっちにくるようにするよ!」
そして、決行の日がやってきた。競馬のレース開始に向けて眠りにつく。馬券はウェブでも購入できるとのことで、その購入は奈雅井に任せるということになっていた。
◆◇◆
翌朝、頭に水がかかり、驚くように目覚める。そして、目の前のレースの様子を眺める。よし、5番の馬が1位だ。
◆◇◆
翌朝、頭に水がかかり、驚くように目覚める。
「5番だ!」
そう興奮して言うと、目の前では奈雅井が悪態を付いていた。
「え?」
画面をのぞき込むと締め切りの文字があった。奈雅井からマウスを奪い取り、馬券購入のページを見てみると、その理由はすぐに分かった。
「いや、馬券購入の締め切り時間、レース開始5分前じゃん!」
「こんなの無いだろ! 最後の5分で馬がキャトルミューティレーションされたらどうするつもりだ! 訴える!」
そういって電話を掛けようとする。いや、理不尽すぎるだろ。さすがに、それは止めた。
ずっと、そんな調子だったので、奈雅井の挑戦は成功することなど無かったが、何だかんだで楽しんでいる自分がいた。奈雅井が世界を救う日は未来永劫来ないだろうな。
それより——
「そもそも、全部金もうけじゃん! 全然、世界を救ってないし。欲まみれかよ」
そう、奈雅井はやることなすこと、全部かけ事ばかりだったのだ。というと、悪びれもせずに奈雅井は答える。
「そうだ、金もうけだ」 当たり前のような表情をしている。「世界を救うにも金が要る。とにかく金を増やすのが当面の目的だな」
そんな怪しさと残念さが満点の奈雅井だが、変化のない日々に飛び込んできた非日常にワクワクを覚え、OB訪問と言い訳をして、何度も会っている自分がいた。