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シンサック・ジューヌガン(2)

ちょっとだけ、格闘シーンあり。

私事、3/10にキックの試合に出ます。

Kフェスタじゃないよ。

 


若い練習生にゴングを叩かせた。

下らないゴングだ。普段は無感情なゴングですら、今は泣いているだろう。

その乾いたゴングの鳴き声が、俺にはやけに遠く感じた。


真っすぐに白人野郎が俺に向かって歩み寄ってくる。

俺は下がったりいなしたりという動きを一切取らない。

奴が前に出てきた分だけ、そのまま距離が詰まる。

間合いに入った。いきなり右の全力のパンチだ。

ぶっ倒してやろうという意図がはっきりと表れている。

こいつには、ムエタイを勉強しようとか、指導を受けようとかいう謙虚な気持ちが全くない。そのことを証明したかのような敵意しか込められていないパンチだ。


(とん)と左足の付け根に右足を当てて奴の前進を止めてやる。

遅いパンチが、俺の鼻の目前で止まる。その距離はおよそ5センチか。

次はもっと近い距離で見切ってやろうかとも思ったが、そんなことを考えて逆に俺は白けてしまった。


赤い顔がさらにのぼせ上り、今度は左のフックを振り回してきた。

腕を振り回しただけのパンチだ。欠伸が出そうになったが、それでも最小限のダッキングを使って懐に入ってやる。左肩を奴の胃袋の辺りに軽くぶつけてやった。それも奴が息を吸い込むタイミングに合わせてだ。

(ごぼっ)と俺の肩が、奴の腹部にめり込んだ感触があった。

たったそれだけでも酒で膨らんだ胃袋には相当応えるだろう。


(ぐっ)と少し奴が漏らした息がやっぱり臭い。

次はボディーブローを、その無様に突き出た腹にぶち込んでやる衝動に、俺は何とか耐えた。代わりにくるりと奴の背後に回り、尻を前蹴りで小突いてやる。

みっともなく奴がつんのめる。


「シンッ!」


オーナーの声が鋭く響く。

五月蠅い。リングというのは選手だけの特別で神聖な場所だ。

何人もリング上の2人に干渉する権利はない。ジムのオーナーと言えどもだ。

んっ?リングが神聖な場だと?じゃあ、その神聖な場に立っているこの酒臭い白人野郎は一体どんな存在だというんだ。


(違うぞ、シン)


俺の中の俺がささやく。ここは銭を稼ぐ場だと。そしてその金が、何も神聖である必要がないと。

このリングは、お前の働いているレストランのテーブルと同じようなものだ。

丹精込めて作った俺の料理を、客がテーブルの上にぶちまけようが、毎朝欠かず掃除するフロアに汚い靴で上がろうが、そんなことは些末なことだと。笑顔でテーブルを拭いてやればいい。その都度黙ってモップを掛ければいい。

それがサービスというものだろう。うん、それでいい。


初めから酒が回って赤い顔の外人が、さらに顔を赤く膨らませているじゃないか。

おいおい、お客様を怒らせてはいけないじゃないか。

怒りに任せたお客様の右ストレート、でも体が開き切ってしまっているので、その軌道はまるでフックのように大回りだ。

本当ならコンパクトなストレートパンチで、奴の顎の先を掠ってやりたいところだが、そうはゆくまい。またダッキングか、それともスウェーか。こんな遅いパンチなら1センチの距離で見切ることができるだろう。いや、それよりもお客様に満足して頂くには・・・

俺はゆっくりと両のグラブを上げた。


なかなかパンチが届いてこない。

まだなのか?一体どれだけ遅いパンチなんだ。パンチが届く前に、一流のシェフならフライドライスを一丁炒り上げるぜ。

そんな事を考えた時、やっと衝撃があった。

さすがに体重があるだけに、力自体は確かに強かった。

わざと姿勢を高くして、俺は派手に後方に飛んで見せる。ロープ際まで。

ちゃんとロープまでの距離を、予め俺は計算していた。


白人の連れが歓声を上げる。


「そう、それでいいんだ、シン」


オーナーの声が嬉しそうだ。

この時、俺が考えたことは、いくらの金をこの白人から巻き上げてやろうかということだった。さっきオーナーが(1500バーツは出すかもしれない)なんて言ってやがったが、それはリングに上げてやるための代金だ。その金には俺の演技代が入っていない。

この俺にピエロを演じさせているんだ。こいつは高くつくぜ。そう、おれの役者代が1000バーツだ。それに1500バーツの4割が加算されて・・・いくらになる?俺の取り分は。お~~っと、危ない。危うくパンチを貰うところだった。(惜しい)とでも思ったかい?もっと打ってこいよ。そっちの方が早く終わりそうだからな。また膝に手を付いて休んでくれ。そのためには・・・


俺は如何にもパンチを怖がっていると言うように、両のグラブでガードを固めて亀になった。勢い付いて奴がパンチを打ってくる。1発2発、3発、4発。

いいねぇ、その調子でどんどん消耗してくれ。ついでに少し走ってもらうとするか。


俺は足を使ってコーナーに逃げた。貴方のパンチが怖いですよって感じで。

んっ、奴が追ってこない。いや、追ってきているのか。あまりにも動きが遅いんで、また休んじまったのかと思った。


「おい、相手はコーナーに詰まったぜ。倒しちまえ!」


英語?ああ、奴の連れの外人が叫んでいるのか。こいつらもどうやら素人だな。

それとも俺の演技が迫真過ぎるのか。

やっと追いついてきたかい。また俺は両手を使って亀になる。今度はコーナーだ。

逃げ場はない。絶体絶命のピンチ、どうする俺!なんちゃって。

みんなも喜んでくれているかい、なぁ?


ちらりとリングの周りに視線を落とした時、俺は愕然とした。

子供達の目だ。練習を止めて、俺がピエロを演じている様を見ている子供達の目だ。

何で、何でそんな悲しそうな、哀れむような目をするんだい。

俺は少しも可哀そうなやつじゃないんだぜ。

金を稼いているんだ。数秒毎に、チャリン、チャリンと、バーツコインがリングに落ちる音が聞こえないのかい?

止めろ、そんな目で俺を見るんじゃない。君たちにはまだ分からないだろう。

大人になればな、大嫌いな奴に笑顔で挨拶しなければいけない時もあるし、クソつまらない事を、それが大好きだって顔でやらなきゃいけないこともあるんだ。

俺は不幸じゃない、少しも不幸だと感じてない。

だから頼む、頼むからそんな目で俺を見るのは止してくれ。おゎ!


突進してきた巨体に押し潰されそうになるのを、何とか体を翻し、俺はコーナーから脱出した。

(畜生、逃がしたか)そんな目でこの野郎が俺を睨んでやがる。息が上がっている。

もうそろそろ終わりにしないか、こんな茶番は。

ゆっくりとまた奴が向かってくる。

仕方がないので、俺はまた両手を上げた。

さっきから俺には気になっていることが一つあるんだ。

ガードの隙間からそれを覗きみる。


奥だ。ジムの隅の奥の方で、誰よりも悲しい目をして俺をみているあの少年は一体誰だ?

練習生?俺には記憶がない。いや、どこかで会ったことがある気がする。

よく日焼けしているじゃないか、それにいい目だ。濡れて輝いている。

そんないい目をしている練習生が、このジムに居たっけか?いい目をしているのに、どうしてその目はそんなに悲しそうなんだい。


その両手に着けた青いグラブはどうしたんだい?このジムには青いグラブはないはずだ。

俺も最初に買ってもらったグラブは青だったんだ。子供用のね。

4才の時だった。当時は珍しかったんだ、青いグラブはね。

その時のことはほとんど覚えていないが、どうも俺自身が、青色がいいって言ったらしい。

タイの空の色に似てるから好きだって、両親に言ったらしいよ。

そんなことを言った記憶はないんだが、それでも本当に嬉しかったことは、今でもはっきりと覚えている。


他に覚えていること?そうだな、グラブに拳を初めて入れた時の感触かな。

握った拳に力がこもるんだ。4才の子供だ。力なんてない。

それでもグラブに包まれた手は、そうだな、地球でも握り潰せると思える程に、力がこもったよ。

その時、俺は誓ったね。絶対にルンピニーのリングに上がるんだって。

君もそうなのかい?君は強くなりそうだ。目に力がある。

でも、どうしてそんな悲しそうなんだい?ああ、まだ名前を聞いていなかったね。

俺はシンサックって言うんだ。仲間はみんなシンと呼ぶよ。

君もそう呼んでくれたらいい。

でっ、君の名前は何というんだい?えっ、どうして教えてくれないんだい?


おい、どこに行くんだい?どうして俺に背中を向けるんだい。

シン?君の名前もシン?

もしかして、君は俺なのか?君は昔の俺なのか?待て、待ってくれ。

話そうじゃないか、そうすれば分かって貰えるはずさ。

待ってくれ、頼むから、俺を見捨てないでくれ・・・


(どかん)という重たい衝撃で俺は我に返った。

両手のガードが弾き飛ばされていた。

何だ、これは一体。さっきの青いグラブの彼はどこに行った。

何だ?何なんだ、俺の鼻目がけてゆっくりと向かってくるこの赤く丸いものは。

これは・・・グラブなのか。


(がぁぁ~!)


声にならない声を叫びながら、俺は右のパンチでカウンターを取る初動を開始していた。

全力だ。全力のパンチだ。たった一発で相手の意識を飛ばしてしまう、全力のカウンターパンチだ。ジャストミートすれば、頸椎すら破壊しかねない。


(シン!止めろ!!)


誰かが全力で叫んでいる。俺だ、俺の中の俺だ。

自分の血肉をむしり取る様な酷い痛みに耐えながら、俺は拳を突き出すのを何とか留まった。代わりに俺は、自分の額を叩き付けた。

赤くて、丸くて、そしてゆっくりと俺の顔面目掛けて迫ってくる汚らしいものに。


(ごちゅッ)


嫌な感触を俺は額で感じた。

分厚い12オンスのグラブの中で、複雑な構造をした何かおもちゃのような物が、形を変えながらゆっくり潰れていく。その感触がゆっくりと伝わってくる。額で感じたはずなのに、何故かその感触は、俺の腰の辺りからゆっくりと背中を這いずり上がって来た。


少し遅れて世の終わりを憂いたような情けない悲鳴。

白人野郎が、自分の右の拳を腹に抱え込んで、そして呻いていた。

うずくまった奴の頭頂部を見て、こんなに髪の毛が薄かったのか、そんな事を俺は考えた。


誰かがリングに上がってくる音。

オーナーか?その叫ぶような声が俺にはなかなか聞き取れない。


(訳してくれ)と言っている。訳す?何をだ?

これは事故だと言えって?ハードパンチャーに在りがちなよくある事故だって?


そんなことはもうどうだっていい。


俺はもう一度、リングの上から辺りを見渡し、あの青いグラブの少年を探していた。



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