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ミドルと前蹴り

感想を頂くことが創作意欲に繋がることを実感。

お二方に感謝です。エタる危機を取り敢えずは脱出です。

(細い体だけど、やたらと背が高いなぁ)


これがチェンと向き合った時の、僕の感じたチェンの第一印象だ。

年齢は自分より二つ年下の11才であることを聞いていたが、そうでなければ同い年か、いくらか年上だと信じたかも知れない。


それにしても本当に背が高い。170センチはないまでも、163センチの自分よりは、明らかに高い。僕も同級生の中では、かなり高い方なのに。

しかしそんな事で委縮する僕ではない。

その長いリーチは、少しやり難そうだけど、その胸は洗濯板のように白くて薄いし、腕なんかまるで八百屋に並んでいるキュウリのようだ。

黒目勝ちなその眼は定まらず泳いでいて、緊張していることがばればれじゃないか。


チェンはその落ち着かない視線を、僕に全く向けようとしない。僕もチェンの眼を見る気はないけどね。お互い視線を逸らしている。でもその意味は全く違うはずだ。


(試合開始前から相手を睨み付けたり、ことさらに威圧したりする選手がいるが、ムエタイ選手が闘志を剥きだすのは、ゴングが鳴った後でいい)


これがよくシンの口にする言葉だし、この言葉を聞いてからの僕は、以来ずっとそうしているんだ。

でも、今のチェンは違う。怖くて僕の眼を見ることができないんだ。きっとそうなんだ。


レフェリーが僕達に注意を与えている間、ずっと自分の足元を見ているのが、毎試合変らない僕のルーティーンだ。

僕の両足の親指の腹は、イエローキャットフィッシュの頭部の様に、丸くて太い。脛の辺りの肌がピカピカに光っている。

何千、何万というキックを、シンの持つミットに叩き込んできた証だ。僕はこの自分の脚をとても気に入っている。


(これだけ蹴り込んできたのだから、僕が蹴り負けるはずがない)


無理やり自分に言い聞かせるんじゃない。自然と心がそう思えるんだ。

そういう練習を積んできたんだ。

シンが僕のトレーナーになってからは、その思いが以前よりもずっと強くなった。


「グッドラック」


レフェリーの声を聞き、この時になってやっと僕は視線を上げる。

もうチェンは、両手の赤いグラブを前に突き出していた。

チェンの眼をみて、やっぱり自然と笑みが浮いてしまう。

チェンが緊張していることが、自分のことのように分かってしまう。以前は僕もそうだったんだから。


決してチェンを侮っているのではないよ。

でも、心から滲み出てくる笑みを抑えられない。ううん、抑える必要がない。

だってこの笑みは、僕の自信そのものなんだから。

もしかしたら、この笑みは、これからリングで始まることへの喜びなのかも知れない。

そう、僕はムエタイが好きなんだ。正確には、ムエタイのリングに上がり、相手を蹴りまくり、そして勝ち名乗りを受けることが、この上なく好きなんだ。


差し出されたグラブに対して、僕は左手だけで、チェンのグラブを軽く突いた。

試合前にグラブを合わせ、お互いの健闘を誓うムエタイの慣例だが、チェンは年下で格下なのだから、この程度の合わせ方でいい。

少しはムッとしたかも知れない。でもそれでいいんだ。

これから全力で蹴り合う者同士なのだから。闘志満々になって貰わないと、張り合いがない。チェンの表情には、あまり大きな変化が見られない。

黒目勝ちなその眼が、変らず宙を泳いでいる。


一旦別れ、それぞれのコーナーに、僕達は戻る。

リングサイドを取り囲むように陣取ったクラスメートが、僕に対して高い音の声援を送ってくれている。

少し片手を上げ、その声に応えてやる。女子達の声に、思わず口元が緩んでします。


13才になった今、公式非公式のものを合わせれば、すでに30戦以上のキャリアが僕にはある。リングに上がり始めた頃は、勝ったり負けたりだったが、シンと出会った1年前から、僕のムエタイは大きく変化した。その進化が自分でも実感できる。

内容の濃い練習ができた日なんかは、2時間前の自分より、今の自分の方が遥かに強くなっていると感じることもある。


本当にシンに出会って良かったと思う。

シンの本職は、レストランのシェフだ。お父さんが務める日系企業の人達が、このレストランをよく利用していたことから、お父さんとシンの交流が始まったらしい。

シンの穏やかで明るい人柄と、シンがムエタイを教えている子達の戦績をすぐに気に入ったお父さんが、シンがトレーナーをしているジムに、僕を通わせることに決めたんだ。


この半年間、月に二度のペースでリングに上がった僕の戦績は、12戦負けなし。

直近の相手は、同じ学校の上級生だった。乱暴者として悪名高く、学校の嫌われ者だ。

この上級生を、僕はリングの上で蹴りまくった。

初めは怖かったけど、ゴングが鳴って、実際に蹴り合ってみると何てことはなかった。

この試合で僕は、一気に学校の人気者になった。

今日も沢山のクラスメートが応援に来てくれている。


今日も勝たないといけない。いや、負けるはずがない。

いつもより少し大きく肩で風を切って、僕はシンがセコンドとして待つコーナーに戻る。

コーナーに戻ると、試合中であっても、滅多に穏やかな表情を崩さないシンが、いつになく怖い顔をしていた。一体何をシンは恐れていると言うのだろう。そのことが、僕には全く理解できない。


「マオイ!」


静かではあるが、妙に迫力があるシンの声。


「リングの上で油断は禁物だよ。例え相手が年下でもね。一旦ゴングがなれば、そんなことはもう関係なくなるんだから。判っていると思うけどね」


(ふん、何をいまさら)


それが、シンの言葉に対する僕の正直な気持ちだった。

もちろん自信はある。でも油断する気なんてさらさらない。

今日はいつも以上に、蹴って、蹴って、蹴りまくり、学校の皆の前で、年下のチェンを圧倒するんだ。

あれっ?考えてみれば、割に合わない勝負かも知れない。勝って当たり前、負ければこの上なく恥ずかしい。まあ負けるつもりはないけどね。

苦労せずに連勝記録が伸ばせると思えばいいんだ。

お父さんに聞いたことがあるけど、外国の人から見れば、楽観的な性格がタイ人の特徴らしい。僕も、もしかしたらそうなのかな。


それでも僕とは対照的に、厳しい表情のままのシンが、マウスピースを僕の口元に運ぶ。

また聞こえたクラスメートの声。その方向に僕は笑みを返す。


「マオイ!」


まだシンは少し怒っているようだ。勝てばいいんでしょ、勝てば。

僕は将来プロになるんだから、ファンへのサービスはやっぱり大切なことだと思う。


レフェリーの、両陣営セコンドにアウトを促す声が聞こえた。

まだ何かを言おうとしたシンが、その言葉を飲み込んだのが分った。

もういいのかい?じゃあ、行くよ。ゴングが待ちきれない。

弾けるように僕は、リング中央に飛び出した。


チェンの動きはゆっくりだった。

ひょろりとした体形なので、余計に動作が緩慢に感じる。はやく!こっちは待ち切れないんだから。


あれ、チェンのセコンドが大きな声を上げている。

マウスピースを持った片手を、激しく振っていた。

どうやらチェンが、マウスピースを口に入れ忘れたようだ。

一体、何をやってんの。デビュー戦でもあるまいし。

僕は苦笑するしかない。チェンの陣営を激しく催促するレフェリーの声。


マウスピースを咥え、おどおどとリング中央に歩いてくるチェンだが、それを待たずしてレフェリーがゴングを促した。ほら、レフェリーまで焦れてるじゃない。

慌ててグラブを合わせようとしたチェンの動きを、僕は無視した。

右のミドルキックを出す。

もちろん全力ではないよ。

さすがに、まだ心も体も、準備が出来ていない相手を全力で蹴っちゃうのは、気が咎めるし、その一発で勝負が決まってしまったら、応援に来てくれたクラスメートに楽しんで貰うことができなくなってしまう。


へぇ、何とか片腕でガードしたね。少しいい顔になったじゃない。

大人しそうなチェンも、少しは腹を立てたようだ。

反則ではないよ。ゴングのあと、両選手がお互いのグラブを合わせるのは、飽くまでマナーであって反則行為じゃないんだから。

少年ムエタイ選手としては、あまり褒められた行動ではないかも知れない。

でも、もたもたしていたのはそっちの方なんだし。多少は怒ってもらったほうが、試合として盛り上がるはず。こっちは皆の手前、無様な試合ができないんだ。


レフェリーが僕に怖い視線を向ける。

分っていますよ。少しマナー違反をしたってことくらいは。無言の注意は承ったよ。

じゃあ、ぼちぼち行くよ。チェンもしっかり構えをとったようだしね。


ふ~~ん、チェンはサウスポーなのか。あまりジムにサウスポーの練習相手はいないけど、まあいいや。左右の蹴りに得意不得意は僕にはないし。じゃあ、いくよ。


チェンの左わき腹を狙って出したミドルキックは、今後はチェンの両手でガードされた。

フェイントも何も掛けず、素直に蹴ったからね。いい音と感触だった。

腕、少しは痺れたんじゃない。ほら、もう一発。


(おっ、とと)。


バランスが崩れちゃった。力んでしまったのかな。いや、違う。チェンの前蹴りだ。

僕のミドルに合わせて、チェンが軽く前蹴りを出し、それがちょこんと僕の腹を押したので、少しバランスが崩れたのだ。

くそっ、確かに手足は長いな。目の前に突き出された右の拳が目障りだ。

んっ?シンの声が聞こえる。


(喧嘩四つだから、いつもより距離が遠いよ。落ち着いて中に入ってからキック)


そうか、相手がサウスポーだと、少し普段より距離が遠くなるんだったね。

僕が前に出るぞと圧力をかけてやると、またチェンは右の前蹴りを出してきた。

そんな遅い蹴り、もう喰らうものか。僕は、左手でチェンの右足をパーリングで弾いて、右のミドルを出したんだ。


(あれっ?)


僕の右ミドルがチェンに届かなかった。空振りだ。チェンが腰を引いて躱したのか。

やっぱり懐の深さは相当なものだ。もう少し深く踏み込まないといけないみたいだ。


また右の前蹴り。最小限の動きでパーリングして、(ぐっ!)、腹に貰ってしまった。

パーリングし損ねた。こっちが勢いよく前に出ていた分だけ、さっきよりも深くチェンの足が、僕の腹にめり込んだようだ。

くそっ、何かリズムが気持ちよくない。サウスポー選手とのスパーリング不足かな。


「マオイ、横に動きながらフロントキックを躱してミドルを蹴る!」


ああっ、シンの声だ。貰っても何てこともないキックなんだけど、こんな蹴りでポイントを取られるのもしゃくだし、まあしょうがないか。

来た!また前蹴り、チェンの右手側、外に回りながら受ける。

右ミドルを返す。爪先がチェンのお腹を擦った。

う~ん、まだこれでも間合いが遠いのか。

でもそんなに腰を引いて逃げちゃあ、次の攻撃に繋げないでしょ。

何かチェンが消極的で面白くない。本当はバンバンに蹴り合いたいのに。


また前蹴り、外に回ってパーリング、返しのミドル、チェンのガード。

次もまた同じ攻防。これで一体何度目だろう。

そうか、これはそう言う戦いか。


あのオドオドしていたチェンの眼が、光を増している。

自信に溢れた表情で、右の前蹴りを出してくる。何だかこのことが気に入らない。


ああ、そうなんだ。僕は分った気がした。

きっとチェンが一番自信を持っている武器が、この前蹴りなんだ。

確かに手足の長いチェンが、前足である右足で前蹴りを出すと、これはなかなか相手は入りづらいだろう。よく自分の特徴を理解している。

僕がミドルキックを一番練習しているように、チェンはこの前蹴りを、一番多く、そして長く練習してきたんだ。


そんな事を考えているこの間にも、チェンの右足が伸びて来る。

速さはないが、かなり力強い。左手の肘でガードするが、少し押し込まれ、チェンの足が僕のお腹に届いてきた。少し息が乱れたけど、構わず右のミドルを返す。今度は届いた。左手のガードの上からだけど。

腕でガードされたなら、その腕ごと破壊してやればいい。

僕のミドルには、十分その威力がある。そんなことを考えながら、また全力で蹴った。


チェンの前蹴りと僕の右ミドルがまた交わった。

うん、いいじゃない。少しは楽しくなってきた。

比べようよ。チェンの前蹴りと僕のミドル、果たしてどっちが上か。


何発目のキックかは分らなくなったけど、この試合一番の力を込めて右のミドルを、チェンの左脇腹目がけて、僕は蹴り込んだ。


(どんっ)


蹴りを出している最中、片足で立っていた僕は、絶妙のタイミングで、チェンの前蹴りを貰ってしまった。

一瞬両足がマットから浮き、リングに腰から落ちて、僕は尻もちをついた。

蹴ったチェン本人すら、驚いた表情をするほどのタイミング。違う、違う、今のはダウンじゃない。ちょっとバランスを崩しただけだよ。


「スリップ!」


レフェリーの大声。

ダウンは取られなかったけど、みぞおち辺りの表面が熱い。でも僕の受けたダメージは、そんな肉体的なことではなかった。


クラスメートの多くが見守る中で、無様に尻もちをついてしまった。

僕の頭から、一度に色々なものが飛んで去ってしまう。

アップライトに構える僕の基本スタイルも、ずっと応援してくれているお父さんのことも、いつも優しい大好きなお姉さんのことも、リング下の友達の声援も、シンのアドバイスも。


お腹に、悔しい熱を抱えながら、すぐに立ち上がった僕は、レフェリーの合図も待たず、チェンに向かって、真っすぐに駆けていた。両手のガードすら忘れて。

リング中央で身構えていたチェンの右膝が上がる。


(前蹴り!)


僕が、前進する速度を落とすことなく、チェンの外側、右サイドに僅かに体を躱そうとしたその時だった。


(ぱんっ!)


僕の目の前で、自分の顔と同じくらいの大きさの、赤い風船が破裂したような気がした。

何だろう、これ。

少し間があって、僕の鼻の奥から、温かくて少し酸っぱいスープが零れてくる感覚

少し遅れて古びた鉄のような嫌な匂いが鼻の奥で生まれる。


この時になって、やっと何が起こったのか、僕には判った。

これまで出し続けていた右前蹴りをフェイントに使ったチェンの右のパンチを、顔面に貰ったんだ。片足立ちの状態でのパンチなので、体重の乗った強いパンチではない。

でも・・・

僕の鼻から、零れてきた一筋の黒い液体がマットに落ちた。


僕はリングの上で尻もちをつき、そして鼻血を流した。

応援してくれる人達の目の前で。

そのことが分った時、僕の頭の中の、全てのものが、またもや彼方に吹き飛んでしまったんだ。


チェンに向かって無茶苦茶に突進していく。


シンの声は聞こえなかった。

友達の応援も見えなかった。

レフェリーも消え去っていた。


この時、僕が認識できていたのは、にやりと笑ったようなチェンの表情だけだった。

チェンの顔以外、何も見えなかった。


この時、僕が出した攻撃は、呆れるほどに練習を繰り返してきたミドルキックではなく、利き腕である右腕の、大きな全力のパンチだった。

今も笑っている、憎たらしいチェンの顔目がけて。



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