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サシミ

東南アジアで食べるサシミは格別です。アメリカで食べるサシミは最低です。



丁寧に、そして慎重に、マオイは言葉を選んでいるようだった。


「キョウって人の・・・」


「キョウの?」


「キョウの・・・背が・・・低かった」


そのマオイの最初の感想を聞き、僅かの沈黙のあと、弾けるように大きく仰け反ってシンが大笑いする。その遠慮のない高笑いに、一部の客が2人の方を振り向く。


「まあね、ニッポン人ってのはあまり背が高くない民族らしいが、中でもキョウは特別に低いようだからね。でもそれはムエタイ云々ではなく、キョウの個性だな、他には?」


「えっと・・・年寄りだった」


その言葉を聞くや、今度はすぐさま膝を3回も叩いてシンがまたもや豪快に笑う。

この男には周囲の視線など、まるで無関心事のようだ。


「正解、正解。キョウはマオイのお父さんよりも年上だよ。そうだね、そこだね。50才を超えてリングに上がるムエタイ選手もないもんだ。確かにそこが一番、ムエタイとは違ったところかも知れないね。やっぱりマオイは頭がいいなぁ。もっとマオイの感想を聞きたいねぇ、他には何かないかい?」


うまくシンに誘導される形で、マオイはキョウなる人物の試合の感想を、彼の言葉で少しずつだが語り始めた。


「全く攻撃が出ていなかった。キョウが一発攻撃を出す間に、相手は5発もキックを蹴っていた」


「うんうん、なるほど」


「あれじゃあ、全てのラウンドでポイントを相手に持っていかれてしまう。それとキョウはキックを全く出さなかった。一番ポイントが高いのがキックなのに。キョウはキックが蹴れないのかな」


柔らかな笑顔のまま、それでも軽く首を横に数回振ったシンが応える。


「そんなことはないだろう。ちゃんとキョウはキックを出していたよ。思い出してごらん、何度も相手の足を狙ってキックを出していたじゃないか」


「ああ、そうだね。でもローキックはポイントにならないじゃない。ムエタイで勝ちたいのならポイントの高いミドルから上のキックを出さないと」


「うんうん、なるほど、そうだね。やっぱりマオイはすごく頭がいい」


初めは元気のなかったマオイの口から、湧き出るように言葉が出てくることが、シンには嬉しくて仕方がないらしい。シンの表情はさっきから崩れっぱなしである。

この男の笑顔は一体どこまで柔らかくなるのか、その限界が全く見えない。


「キョウって人は、勝つ気がなかったんじゃないかな。ムエタイで勝つんだったら、もっとキックを出さないと」


「ふ~ん、マオイはキョウに勝つ気がないと、そう感じたのかい?」


「うん、まあね」


「それはどうかな、俺はそうは思わなかったけどね」


穏やかな表情は決して変えずに、これまでマオイの言う一言一句に、大げさと言える程の相槌を返していたシンが、初めて異議とも言える言葉を発した。

マオイからすれば、そのシンの言葉は、思ってもみなかった反論だったに違いない。

表情が少し強張る。そのことをシンが敏感に感じ取ったのだろうか、さらに言葉を続ける。


「ああ、でもマオイの言ってることの方が正解かも知れないな、だって実際にキョウは判定で負けたんだから」


そのシンの言葉に、マオイが(そうだろう)という表情だけを返す。自信に満ちた表情だ。


「じゃあ少し質問を替えようか。今日の試合、キョウが勝つ可能性は、やっぱり全くなかったと、マオイはそう思うかい?」


この時、マイオは思わず(はっ)という顔をしてしまったことに自分で気付く。

それは何故だかマオイ自身が自分でも認めたくなかった感想だったのかも知れない。


「どう思う?マオイ」


絶妙のタイミングでのシンの誘い水だった。


「可能性は・・・全くなかったわけじゃあない・・・と思う。特に3ラウンドは」


マオイは思い出していた。そこに居る意味も判らず、見る程に退屈この上ないと思っていた試合が、3ラウンド半ばから、マオイ自身も目が離せなくなるほどの展開に急変したことを。


この上なく嬉しそうな、我が意を得たりという表情にシンの顔が変化した。


「じゃあ、マオイは、もしかしたらキョウが勝ったかも知れないと思ったわけだ。じゃあ、どうなったらキョウが勝ったと思う?」


マオイは不本意な表情を浮かべる。言ってしまった自分の言葉に深い後悔さえしているようにも思える。それでも乾いた小石を吐き出すようにぼそりと呟いた。


「・・・右・・・かな」


「右?」


「うん、右のパンチ。キョウって人の右のパンチが、あと何発か当たっていたら、もしかしたらキョウは相手を倒していたかも知れない」


そう言ったマオイは頭の中で、今日見た試合を改めて振り返っていた。

キョウなる選手の繰り出した攻撃は、有効打と見なされない左右のローキックと大振りで単発の右のパンチ。その攻撃は極めて偏っていた。マオイの考えるムエタイのリズムや攻守のバランスとは、そこが決定的に違っていたのである。振り返ってみて(そこだったのか)とマオイは改めて思う。率直な感想だった。


それでもいやいやとかぶりを振るようにマオイが言う。


「でもあんな大振りのパンチ、そうそう当たるものじゃない。もし当たれば強烈だろうけど、実際に今日も当たったのは3ラウンドの数発だけだったし」


(ほう)という顔をしたシンが返す。


「でも今、マオイはもしかしたらキョウは勝ったかも知れないって言ったじゃない」


何度もムエタイ選手特有のしなるミドルキックを腹部に受けながら、キョウなる小柄な選手は右のパンチを単発で出し続けた。そのパンチにカウンターを合わされる形で、更にミドルキックの追い打ちを受ける。距離が近い時にはミドルキックが膝蹴りに代わる。いずれも腹部にヒットしているように思えた。それでもキョウが倒れないのは、必要最小限のディフェンステクニックは発揮していたのかも知れない。

いずれにせよ、マオイが考えるディフェンスという意味では、それは高いレベルではなかったとマオイは思っている。


リング上で交わされた約束事のように繰り返されるこの攻防に変化があったのは、3ラウンドも中盤を過ぎた頃。キョウの右のパンチへのカウンターを、対戦相手のムエタイ選手が取り損なったのだ。初めて相手のこめかみ辺りを捉えたこのパンチ一発で、ムエタイ選手の態勢が大きく崩れた。

単にバランスを崩しただけなのか、それとも少なからずダメージを被ったのかは、見ているだけではなかなか判断に難しい攻防。

同時にリングを取り囲んでいた観客から起こったのは、悲鳴のような怒号だった。

観客の大部分が、ムエタイ選手側に金を掛けていたのだ。

闇ムエタイの試合とは言え、まさか母国のムエタイ選手が、他国の人間に後れをとることがあるとは思っていないのである。

加えて、タイ人から見れば、リングに上がっていることが冗談のような年寄りが相手である。当然“カタイ”勝負だろうと、少なくない金を賭けた人もいたはずだ。


しかし、さすがにムエタイ選手の、その後の対応は、実に場馴れしたものだった。

クリンチを上手く使い、残り1分強の時間を危なげを感じさせることなく逃げ切った。

消極的とも言えるこの戦い方にブーイングは起こらない。観客の全てが自分の味方であるという十分に立場を理解した作戦勝ちだった。自分がポイントでは大きくリードしていることも計算していただろう。


それでも、もし・・・、もう一発、キョウの右が当たっていれば・・・確かにそうマオイは考える。いや、それでも・・・


「シン、上げ足を取らないでよ。もし、もう何発か当たっていればと言ったけど、それよりも当たらない可能性の方がずっと高かったし、実際にその後は当たらなかった。少しムエタイが判る人なら、同じことを言うよ。あんなパンチはそうそう当たらないって。会場にいたほとんどの人がそう思っていたと思うよ。だから試合中にキョウに賭ける人もいなかった。シンはどうなのさ、あんなパンチが、もしかしたら当たるとでも思っていたの?」


穏やかな表情で真っ直ぐマオイを見ていたシンが、何か口を開こうとしたが、制服姿の若い女性従業員が運んできた最初の料理が、その言葉を遮った。


「おう、来た来た。すっかりお腹がすいただろう、まずは食べよう」


運ばれてきたのは、皿の模様が透けて見えそうな、透明な身をした魚の切り身。刺し身だ。


「これは、サシミって言ってね。英語ではSLICE-OF―RAW―FISH、生の魚の切り身だよ。この魚は多分シーバスだな。これをこのワサビというスパイスと一緒に食べると、何故か妙に美味いんだ」


テーブルに置かれていた箸を器用に使い、大量に皿に盛られていたワサビを少し箸で削り取り、サシミの上に乗せるシン。

手慣れた様子で、備え付けのソイソースの小皿にサシミを浸す。大振りに切られた一切れを、迷わず口に運ぶ。鼻腔を膨らまし、その風味を楽しむような仕草。


「うん、やっぱり美味い。どうだい、マオイも食べるかい?」


マオイはあからさまに嫌な顔をする。


「これって、生魚の切り身なの?そんなの気持ち悪くて食べられないよ。焼くか煮るかしないと。切っただけの生の魚なんて、こんなの料理とは言わないよ」


そのマオイの反応を予測していたように、にっとシンが笑う。

いくらも咀嚼せずにサシミを飲み込んだ後、シンが言った。


「俺も最初は気持ち悪かったよ、魚を生で食べるなんて。でも思い切って食べてみると、これが美味いんだよ、本当に。魚を生で食べるなんて、俺達の感覚には合わないけどね。これって今日の試合と、どことなく似ているとは思わないかい?」


「えっ、どういう意味?似てるって、今日の変なムエタイの試合のこと?」


「そうだよ、料理なんて所詮は美味ければいいんだよ。美味ければ最後には誰も文句を言わない。最低限守るべきルールはあるさ。例えばどんなに美味くても、それが体に悪かったり、使ってはいけない材料だったりすれば、それは料理として認められない」


「あっ、うん」


「今日見たキョウの戦い方は、ムエタイのルールには違反していない。俺達の知っているムエタイではなかったけどね」


「確かにルールは・・・破ってなかったかも知れない」


「勝負事に(もしも)はないけれど、マオイが言うように、(もしも)もう一発か二発、キョウのパンチが相手に当たっていたら、あるいはもう一ラウンド試合が続けば・・・」


シンの言っていることの意味が、マオイには判るような気がした。

3ラウンド終了のゴング直後に限って言えば、明らかに深いダメージを負っていたのは、たった数発だけしかパンチを受けていないはずのムエタイ選手の方だった。

それだけではない。このムエタイ選手は、勝ち名乗りを受けたあと、少し足を引きずるような仕草を見せてリングを降りた。ポイントにはならないかも知れないが、キョウなる選手のローキックが、相手にダメージを与えるという観点で言えば、効果はあったのだろう。。

もしあと一ラウンド残っていれば、あるいは・・・

そのことをマオイは否定できない。


マオイは困っていた。

シンの言うように、もう一発キョウの右のパンチが当たっていれば。もう一ラウンド試合が続いていれば・・・でもそのことを肯定することは、ムエタイそのものを否定するような気がしてならない。もちろん、今のマオイはそこまで考えて言葉に詰まっている訳ではない。


次の言葉が、マオイの口から出てこない。

落とした視線の先に、数切れのサシミなる生魚の切り身が置かれている。

救いを求める様に、マオイは素手で一切れ摘まみ上げ、小皿に満たされている濃い紫色のソイソースに浸し、思い切って口に放り込んだ。

不思議な歯ごたえ。柔らかくて、そして固い。心地良いほどにざっくりと歯が身に通る。


初めはソイソースの独特の風味。遅れてマオイの鼻腔に広がったのは焼き魚にはない、微かで不思議な魚肉の甘味。数舜で口の中で魚肉が溶けてなくなっていく感覚。

これは・・・確かに美味い。

もう一切れ、今度はシンが(ワサビ)と呼んだスパイスを切り身の上に乗せ、たっぷりとソイソースに浸して食べる。

強烈な辛味が鼻に抜け、目を開けていることすら辛くなる。ソイソースのタイ人には独特すぎる風味のあと、上品な魚肉の甘味が、さっきの倍ほどの膨らみで口いっぱいに広がる。すぐに魚肉が口の中で溶けてなくなる。

マオイはもう一度思う。これは本当に美味い。


「初めて食べたサシミの感想はどうだい、マオイ?」


「うん、美味しい。とても変な食べ方だけど」


「そう、魚には焼いたり煮たりという料理の他に、こんな食べ方もある。そして・・・」


「そして?」


「そして・・・ああ言う戦い方もあるってことは言えないかな、マオイ」


「ああいう戦い方って?キョウって人の戦い方のこと?」


「そうだよ、それからマオイの質問に答えてなかったね。キョウのパンチが当たると思っていたかどうか」


「あっ、うん」


「当たると思っていたかどうかは自分でも分らないけど、当たればいいとは思っていた。そして・・・」


これまで穏やかな表情を決して崩さなかったシンが、急に真面目な顔になり、マオイの目を覗きこんだ。


「あの会場で、キョウのパンチが絶対に当たると思っていた人間、いや当たると信じていた人間が、確実に一人いたと思う」


「それは、シンのこと?」


「キョウ自身だよ。何度も何度も空振りしたあのパンチをそれでも出し続けたあの姿が、当たらないと思っている人間の行動に見えたかい?」


(確かに)マオイが黙り込む。そして・・・


「それがこの前のマオイとキョウの大きな違いだよ」


初めてみるシンの射るような眼差しに圧倒されるように、この時マオイは微動だにせず固まって、シンの言葉の意味を考えていた。


はっとマオイの表情が一瞬で強張る。明らかな感情の変化。

しかしシンは少しも動じる様子はない。真正面からマオイの顔を見つめたままである。


「マオイには辛いだろうけど、振り返ってみようか。マオイがチャンに負けた、あの試合を」


13才の少年の言い訳やわがままなど、到底通用しないような、珍しく見るシンの真剣な表情だった。



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