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レムトンホテルにて

レムトンホテルのロビーには、日本人目当ての、異常に綺麗なニューハーフさんが沢山います。

本当に綺麗です。

レムトンホテル1階にある日本食レストランで、シンとマオイは向かい合って座していた。

マオイには全く馴染みの無い名称のメニューの中から、白い学生服風のユニフォームを着ている女性従業員にシンが声を掛け、迷うことなく4品注文したばかりである。

どんな料理が運ばれてくるのかマオイには想像もできないが、品名の横に記されてある値段に、彼は目を白黒させていた。


「ニッポン料理って、バカみたく高いんだね。大丈夫なの?」


「まあね、でもキョウがきっとおごってくれるから心配いらないよ。それよりもマオイ、その水を飲んでごらん。信じられないくらい美味しいから」


なみなみと水が注がれている曇り一つないグラスを指差し、穏やかな笑みを湛えた表情で、シンが言う。

言われるがままマオイはグラスを手に取った。少しグラスの縁に口をつけたあと、驚いたような表情を浮かべ、今度はグラスの半分近くまで、一気に水を喉に流し込んだ。

始終を見ていた小柄な女性従業員が、もうマオイの横に立ち、再びグラスを満たす準備をしている。微笑みの国の女性従業員に相応しい笑顔を、その間も決して絶やさない。


「どうだい?美味いだろう」


嬉しそうな顔をするシンに、何とも不思議そうな表情でマオイが答える。


「いつも飲んでいる水と全然違う。何かな・・・喉に溜まらず、すぅ~って流れていく感じ」


(へぇ)と少し意外だとでもいうような面持ちでシンは言う。


「マオイはなかなか面白い表現をするね。」


この国では、企業でも役所でも、大切な客人を招き入れる時、必ず透明のよく冷えた水をウェルカムドリンクとして供する。

これが歓迎の代名詞となっていて、それだけ蒸溜された清潔な水が、この国では貴重であることを意味している。

国民の平均的な労働賃金との相対的な関係で言えば、この国で最も高いものが電気代、それに次ぐのが、海外からの旅行者も安心して口にできる水であるとも言えるのだ。


マオイの家族は、日系企業の製造工場に勤める父親を家長とする核家族であり、決して貧困層ではない。むしろ一般的には裕福な家庭に分類されると言ってよい。

それでも日々、飲料用としているのは、汲み取った川の水を一度煮沸し、瓶に蓄えているものである。雨季に飲む水は濁っていて、食道を流れる際、鼻腔に微かな異臭を運ぶことも珍しくない。


試合を控えたキョウ・ヤナギにシンが声を掛けたのは、驚くほど透明で冷えた水を2人が口にする約2時間前である。


「ローングタイム、ノーシー」


(久しぶり)と英語で話しかけ、シンはキョウに近づいていく。

その後ろにべったりと、かなり困った様な顔のマオイが続いている。

シンの顔を認めたキョウという小柄な男は、一瞬驚きをその目に宿し、常に険しかった表情を僅かに崩した。


「サワディー・カップ、シン先生」


ネイティブなタイ語と比較すると、少し可笑しなイントネーションではあったが、このキョウという男は、ちゃんとタイ語でシンに言葉を返した。

この時、キョウの両腕の動きが、何かマオイには奇妙に思えた。

タイの伝統的な挨拶の如く、両の掌を合わせるのかとマオイが思った時、その手は合掌の形を取ることなく、顔の前で交差され、そして腰の位置まで戻された。

胸の前で十字を描くような動き。


「まだやっているんだね。最後に会ったのはいつだろう?」


キョウの奇妙な動きの意味が、少しマオイには気になったが、何よりもこの時、マオイが驚いたのは、シンが英語を話したことだった。淀みない英語である。


「もう一年になるかな。あの頃は本当に世話になった」


2人の英語のやり取りを理解する程度には、マオイは英語が聞き取れた。この年齢の少年としては、この国では珍しいことである。これは彼の父親が、日系の企業に勤めている環境が強く影響している。


マオイがどうにか理解できた内容は、シンがこのキョウという選手の方に50バーツの金を賭けたこと。それに対して、(無駄な金を使ったな)という意味の言葉を、キョウが返したこと。今はキョウなる人物が、レムトンホテルという名のホテルに滞在していること。


2人の会話はごく短かった。

最後に(グッドラック)と(サンキュー)という言葉の交換で、シンとマオイは、このキョウと言う人物の前から辞した。

そして、このキョウなる人物がリングに上がり、3ラウンドをフルに闘い、そして自らの足でリングを降りるまでの姿を見届けて、2人は再びホンダに跨り、ここレムトンホテルまで来ているのである。


この時、シンはリングを降りたキョウに、声を掛けようとはしなかった。

マオイに対しても、(行くよ)との一言を述べたのみで、何処へ向かうかも判らぬまま、マオイはこのレムトンホテルまで、有無を介さず半ば強制的に、連れてこられた状況となったのである。


ホテルの椅子に腰かけ、4種類のメニューを注文したあと、シンは思い出した様にセルフォンを取出し、マオイの父親に連絡を入れた。


(今晩はマオイを家に泊めるからご心配なく)


極めて短い会話の内容は、およそそのようなものである。

今マオイは、シンの家ではなく、レムトンという名のホテルのレストランにいる訳で、厳密には嘘をついていることになるのだが、仮に本当のことをシンが話したとしても、全く問題はなかっただろう。それ程、マオイの家族とシンとは、お互い信頼している間柄なのだ。

聞こえた限りの会話では、マオイの帰りがいつになるかという会話すらもなかった。

シンと一緒なら安心と両親も思っているのだろう。

電話を終えたシンが席に戻る。


(さて)

そう言って着席したシンが、マオイに問う。


「キョウの試合はどうだった?」


マオイの目から見て、キョウなる人物の試合内容が、讃えるに値するものだったなら、迷わずマオイはそのことを口にしただろう。なにせこのキョウと言う人物は、おそらくシンの友人なのだ。そのことをマオイも今では十分に理解している。

それでもマオイが口籠っているのは、キョウのそれが、マオイから見ても決して評価できるものでなかった何よりの証拠である。


なかなか口の重いマオイに対して、笑顔のままのシンが続ける。


「正直に感想を言っていいんだよ、マオイ」


シンに促され、諦めたようにマオイがやっと口を開き始める。


「あれは・・・」


「あれは?」


「あれは、ムエタイじゃなかった」


そのマオイの最初の感想に、(ふむふむ)と納得したような表情をみせるシン。

楽しそうに、(それから?)とでも言うように、マオイの目を見つめたまま次の言葉を待つ。

マオイは、そんなシンの表情と態度に、心底から困っているようだ。

そんなマオイの困惑を察したであろうシンが、助け舟を出す。


「あれのどこかムエタイじゃないとマオイは感じたんだい?」


「どこって、それは・・・全部だよ」


「全部って?例えばパンチの打ち方が?」


「パンチの打ち方も」


「キックも?」


「キックも」


またも嬉しそうにシンが笑う。


「キョウは、さっきリングの上で両の拳と、そして両足と、時々は膝と、そんな五体の武器を使って闘った」


「あっ、うん」


「それって全てムエタイのルールで許されている攻撃だよね。ああ、もちろん肘もあるけど」


黙ってマオイがシンの言葉を聞いている。


「じゃあ、今日リングの上で、キョウが見せた戦いは、どうしてムエタイじゃないと言えるのかな?」


「それは・・・」


マオイが言葉に詰まっている。困り果てた表情である。

シンの視線に耐えられなくなったかの様に、マオイの目が清潔な染みの一つもない白いクロスが掛けられたテーブルに落ちる。


「ああ、すまない、すまない。何もマオイを困らせたくて訊いてるんじゃないんだよ。俺もキョウがリングで見せた“あれ”を、ムエタイだと言うつもりはないさ。困る必要は全くないんだよ、マオイ」


穏やかな表情をさらに柔らかくしてシンがそう言うと、少しだけマオイは安心したのか、再び視線を上げた。

唐突にシンが、厨房の奥の方を覗くような仕草を見せた。


「ニッポン料理ってのは手間がかかるのかな、なかなか注文しても出てこないんだよ。まだまだ時間もあるし、時間潰しにキョウの試合を振り返ってみようか。そうしたら、どこがムエタイと違うとマオイが思ったのか、判るかも知れない。じゃあ、ゴングを鳴らすよ、ゆっくり思い出してみて。カァーン」


試合開始のゴングの音を言葉で模した後、嬉しそうな顔でシンがマオイの目を真っすぐに覗きこむ。いつの間にかシンの姿勢が前のめりになっていて、そのことにマオイは本当に困っていた。



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