パミオパーク
レナ様へ
「あのヒト」の登場です。
県道42号線。
固まりかけた血の様に流れない車群の隙間を滑らかに縫って、シンがハンドルを握るホンダは、パタヤ方面に北上していた。
10分以上続いた激しいスコールのため、夥しい数の車輪が巻き上げていた土埃は、今は完全に水に溶けて地に落ちている。
代わって出現したのは、錐のように鋭い灼熱の国の西日と、下から湧き立ってくる粘り気を帯びた土色の湿気。
東に目を向けると、闇が空を覆う準備を刻々と進めていて、地平線が群青色に染まっている。
ヘルメットをマオイは被り、シンの腰にしがみ付くような姿勢で、ホンダの後部に座していた。シンはヘルメットをしていない。
もちろん道路交通法に違反しているわけだが、ここシラチャシティでは、この程度の違反でキップを切られることはまずない。
乱暴は言い方をすれば、人身事故によって、人が大怪我をするか、死にでもしない限り、警察も交通法違反を咎めることは、まずないのである。
そもそも車両同士の接触など、この国の人達は、事故だとは思っていない。
それでもヘルメットを着用せずバイクに乗ることは、明らかな違反行為である。
そうではあるが、万が一捕まったにしても、500タイバーツ、つまり日本円にして1300円も、警官の袖の下を通せば、大抵の警官は何事もなかったように、その場を立ち去る。
この国ではそれが普通のことなのだが、もちろんシンは、そこまで考えている訳ではない。
3車線ある県道の中央車線を走っていたシンの運転するホンダが、大きく左に倒れ込み、一気に左端の走行車線を横切って、そのまま滑り込むようにパミオパークへと続く脇道に飛び込んだ。
突然前を横切られた白い車が、激しくクラクションを鳴らしたが、至る所で同じようなことが起こっている。
雨季の雨上がりに聴く蛙の合唱のように、クラクションの音はそこら中で鳴り響き、決して途絶えることがない。
未舗装の道路には、スコールのためできた水の溜まりが多く残っていて、シンの運転するホンダの車輪を、時折絡め取ろうとする。
崩れそうになるバランスを、シンは巧みに立て直し、決してアクセルを戻すことをしない。
その後ろでシンにしがみ付くマオイの顔にも、些かの不安も浮いてはいない。
この少年の顔に貼り付いているのは、他の車が跳ね飛ばした泥の粒跡と、何か退屈しているような、どこか虚ろな表情である。
パミオパークと人々に呼ばれている公園は、元々はドイツ企業の自動車部品工場跡地を、市が買い取った市民広場である。
しかし実際にはパークとは名ばかりで、9万平米にも及ぶ土の平地に、僅かな植樹が為されているただの更地といった様相だ。
昼間は閑散としているこの平地が、この季節にはほぼ毎夕に発生する短時間のスコールが終わる時間帯を境に、沸いたように人が集結してごった返す。
シンとマオイが、2人乗りのホンダでパークに到着した時には、ざっと数えても200を超える数の簡易テントの設営が、ほぼ終りかけていた。
日没後のこのパークは、観光客相手の巨大な露店商街と変貌する。
その客の大多数は、直線距離にして2キロメートルと離れていないパタヤビーチから流れて来る外国人旅行者である。
以前は日本人が圧倒的に多かったが、現在では中国からの旅行者がその半数以上を占め、続いて日本人、韓国人、そしてヨーロッパからの旅行者という順になる。
陳列されている商品は、フライドライスやヌードルに独特の香辛料を塗したフード類を中心に、スイカジュースやサワガニの揚げ物といった如何にもタイらしい飲食物。
タイでは神聖な生き物とされている、大小様々な象をモチーフとした土産物。
中には高級時計のイミテーションや海賊版のDVD、果ては大人用の玩具までを、堂々と並べている出店もある。
そしてそのパークのほぼ中央に位置し、ひときわ他とは異彩を放っているのが、8人程の男の手によって、たった今組み上がったばかりのムエタイのリングである。
リングの四隅に散らばった男たちが、木製の床に白いシートを最後に被せる作業をしていた。
ディーゼル発電機から電気を引かれた簡易照明が、斜め上からこのリングを照らすと、大小濃淡様々な、黒い染みがシートの表面に浮かび上がる。
そのほとんどが、人間の血によるものであることは、見慣れた人間から見れば瞭然である。
いつの間にか、褐色の肌を露わにしたムエタイパンツ姿の男達が、リングを囲むような形で集まりつつある。
これからリングに上がるのであろう彼らとは別に、明らかに選手ではない人間の集まりが見止められる。
どこか薄汚れた、撚れたシャツ姿の背の低い男が、一枚ずつ何かの紙を彼らに手渡している。
西に日は、ほとんどの姿を地平線の下に沈め、僅かばかりの光を空に残すばかりで、彼らの姿を露わにするほどの光量は、もう空にはない。
それでもムエタイパンツ姿の者と比べて、遥かに高い年配層の集いであることが判る。
彼らは、受け取った紙を、皆一様に怒ったような目つきで睨みつけている。
数人が一枚の紙を見つめたまま、何やら小声で会話をしている者もある。
と、一人の腹の出た中年男が、先般まで皆に紙を配っていた男に向かって歩いていく。
歩きながらジーンズの後ろポケットから、くしゃくしゃになった紙幣を取出し、何やら言葉を発しながら男に渡す。
紙幣を受け取った男は、その言葉を確認するように、相槌を打った。
素早くメモを取る。
この男の動作をきっかけに、次々に他の者達も紙幣を手に男を取り囲み始め、頭一つほど他より背の低い、金を受け取った方の男の姿は、瞬く間に円陣の外からは見えなくなった。
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シンが今日の対戦表を手にした頃には、既にその日最初の試合が、リングの上で始まっていた。
マオイの方はと言うと、自分と同じ年頃か、やや年下であるかも知れないリング上の若い2人が気になる様子で、頻繁に視線をそちらの方に向けている。
その時になってシンが、紙に書かれた対戦表の中に何かを見つけたらしく、(ほう)という僅かな驚きの表情を見せた。笑みは浮いたままである。
しなやかな足取りで、人々の間を縫い、興業側の人間と思しき背の低い男に近づいたシンが声を掛ける。
「4試合目だ。この(キョウ・ヤナギ)に50バーツ」
紙の一部分を指差しながら、マオイが背の低い男に紙幣を渡しながら口にした。
「カッポン」
(分った)とそう言った男が、自分の持つ対戦表に目を落とし、短いエンピツで何やら書き込んだ。
横から割り込む様に声を掛けた他の男から、紙幣を受け取ろうとして、その動作を止め、手にしていた対戦表を二度見する。
「ちょっと、旦那!」
シンに声を掛けた。
「んっ、なんだい?」
「いや、旦那、確か4試合目の、この・・・キョウ・ヤナギに50バーツでしたよね」
「ああ、それが何か?」
「いや、間違いじゃなければいいんですが・・・ただ・・・」
「ただ?」
「いや、旦那だけですから。このキョウ・ヤナギに賭けたのは・・・」
「ああ、いいんだ。そのキョウで」
「そうですか、毎度ありがとうございます」
「ああ」
「このままのオッズだと、この(キョウ)ってのが、万が一勝ったら、旦那、大儲けですな」
大儲けという言葉に、廻りに群がっていた人間達が、微かに騒めいたように思えた。
そんな空気を気にする様子でもなく、相変らず穏やかな笑みだけを返して、シンはマオイの横に戻る。
「どうだい?マオイ、パタヤの闇ムエタイは?」
シンが傍を離れている間、他にすることもなかったのだろう。
さっきよりも少し熱心にリング上の戦いを見ていたマオイが答える。
「下手くそだね、2人と共」
「マオイがやったら勝てるかい?」
「多分ね」
シンはリングに視線を送り、小さく頷いた。
「まあね、リングに上がる選手はピンキリだから。所詮、闇でやっている興業だしね」
「こんな試合を見て面白いの?」
「ああ、たまにとんでもなく強い選手が出てきたりする。ムエタイでない選手が出てきたりもしてね。それはそれで、なかなか見ごたえがあって面白い」
「ムエタイでない選手?何なの?それ」
「例えば、腕っぷしに自信のある観光客がリングに上がってくることもある。白人のデカいのとか。大抵は、酷く痛い目にあってリングを降りることになるけどね」
「ふ~~ん、いい気味だけどね」
「他には、例えば、(カラテ)の選手とか」
「カラテ?何?ぞれ」
「ニッポンのマーシャルアーツさ。ムエタイと似ている所が無くもない」
「それは、え~と・・・ああっ、(フジワラ)のこと?」
マオイの口にした(フジワラ)とは、タイ人以外で初めてムエタイのチャンピオンになった日本人である藤原敏男の名前に由来する。
今からちょうど40年前。
それ以降、20年近くに渡り、タイ人は日本人ボクサーを見かける度、彼らを(フジワラ)と呼ぶようになる。
その後、日本の企業である本田技研工業が、タイ北東部の工業団地内に、海外企業として初めて小型バイクの製造工場を建設し、それが約20年前のこと。
(ホンダ)という固有名詞が、(フジワラ)という名前よりも有名になったのは、極めて最近のことである。
その後、同じく川崎重工も、バイクの製造工場を同国で立ち上げたが、既に(ホンダ)という言葉が、小型バイクの代名詞となっており、従って、
(隣街の○○さんが、カワサキのホンダを最近買った)というような矛盾した会話が、このタイでは平然となされるのだ。
ムエタイに関わる年配のタイ人には、未だに日本のキックボクシングを、(フジワラ)と呼ぶものも多い。マオイもその影響をどうやら受けているようである。
「フジワラとは少し違うな。ニッポンではフジワラをやる人間よりも、遥かにカラテをやる人間の方が多いほど、メジャーなスポーツらしい。フジワラよりもっとトラディショナル(伝統的)だと聴いたことがある」
「スモウ・レスリングとは違うの?」
「スモウ・レスリングの事はよく知らないが、多分違うと思う。まあ、後で直接聞いてみればいいさ」
「えっ、聞くって、誰に?」
「だから、そのカラテをやっているニッポン人にさ。今日、マオイに会わせようと思っている人物だよ」
シンがそう口にしつつ、試合を控えた選手達が黙々をアップしているパークの片隅の方向に視線を泳がせている。
と、探していた何かを見つけたのか、終始穏やかさを崩さないシンの表情が、更に笑みの割合を増した。
「マオイ、行くよ」
そう言ってマオイの手を取ったシンの視線の先に、一際肌の色の白い、ずんぐりとした背の低い一人の男が、微動だにしない姿勢で一人立っていた。
その佇まいは、他の選手が試合に備え、思い思いの方法でアップしている様子とは、全くに対照的であった。
この背の低い色白の男が、シンのいう(会わせたい人物)に違いないことを、マオイは直感的に理解していた。
初めて見る奇妙な生物に遭遇したかの様な目で、マオイはその小柄な男の姿を見ていた。
マオイ13才と、キョウ・ヤナギ51才。
2人のファーストコンタクトの瞬間だった。