マオイとシン
私事で恐縮である。
現在、蒼過ぎるタイの空を見上げている。
乾季のタイ。
その突き抜けた空の透明感は余りにも濁りなく、月並みに汚れた自分とはあまりに対照的で、時に生きていくのが嫌になったりする。
若い頃は(こんな風に生きたい)というビジョンらしきものがなくもなかった。
この年となり、(こんな風に死にたい)という実にぼんやりとしたイメージが、沸いたり沸かなかったりする。
本作に登場する(キョウ)なる人物は、私のそのぼんやりとしたイメージに他ならない。
人の平均寿命が大きく伸びた今日でも、既にその後半戦に差し掛かっていることは疑いようのない現在の年齢となり、何かを若い人たちに伝えたい。
そんな思いが本作を書き始めたきっかけであったりする。
尚、本作を書き続けていくにあたり、どうしてもある人物に感謝の意を記しておきたいと考えている。
タイの蒼き空の下、親愛なるレナ様へ、本作を・・・キョウ
タイ大国南東部シラチャーシティ。
首都バンコクのような都会ではなく、北西部ほど田舎街でもない。
更地になった広々しい空き地に、時折西から強い乾いた風が吹く。
北部の工業団地へ生産拠点を移した日本企業の工場跡地である。
辺りを見渡しても高い建造物が見つからない。
風によって巻き上げられた酷い土埃の中、少年達がサッカーボールを追いかけている。
皆素足である。
着ている衣服は薄汚れていて、最後に洗濯されたのがいつなのか想像したくもない。
近くに寄れば、少年達の濃い汗の匂いが鼻を突くことだろう。
一人の少年が大きく蹴り出したボールに、まるで砂糖を見つけた蟻のように、少年達が一斉に駆けて群がる。
その彼らの動きは、組織的とは言い難い。
日頃から一緒に練習しているサッカーチームという訳ではなさそうだ。
最も早くボールに追いついた少年が、またも大きく前方へボールを蹴りだす。
一斉に少年達が方向を変え、また駆ける。
と、そのうちの一人の少年が急に走るのをやめ、その場に立ち止まった。
10人程の少年の中で、一番引き締まった体型をしている。
頭半分程、皆より背が高い。
最も彼が体力的には優れているように思える。
理由は判らないが、何故か急に、ボールを追うことに興味を失ってしまったような行動だった。
年の頃は10代前半か。
同じ頃の少年達が、変わらずボールを追っている様子を、やけに遠い視線で眺めていた。
「マオイ」
少年達がサッカーに興じている様子を、ユーカリの木陰から眺めていた壮年の人が、声を掛けた。
壮年のその人の服装は、ラフではあるが垢染みてはいない。
きちんと洗濯されていて清潔そうである。
暫く前からそこに居て、どうやら立ち止まった彼に声を掛けるタイミングを計っていたようだ。
「シン」
壮年の人の姿を認めるや、少年はそう返事をした。
(シン)とはこの壮年の人の名前なのだろう。
返事はしたものの、この少年は歩み寄ったり、微笑みかけたりという行動はとらない。
どこか困ったような顔で、(シン)と呼ばれた人に視線を送っている。
対して(シン)という人の顔は、飽くまでも穏やかだ。
少年の視線を真っすぐに受けている。
ゆっくりと(マオイ)と呼ばれた少年に歩み寄っていく。
この(シン)という壮年の人も、見れば少年と同じく、よく引き締まった体をしていた。
シンが立ち止まったのは、マオイの真正面。
二人の距離は1.5メートルほどだ。
シンは微笑をその柔和な顔に携えている。
マオイは相変わらず少し困った表情をしている。
「マオイ、キック!」
壮年の人が穏やかな表情を崩さず、されど鋭い声で少年に向けてそう言った。
同時に両の腕を、あごの高さまで持ち上げる。
それはボクシングの構えのようであるが、それにしては少し腕の位置が高い。
マオイはそれでも視線を地面に落とし、動かない。
ごく小さく、首を振ったかのようにも思えた。
「マオイ!」
もう一度、シンが声を大きくすると、諦めたかのようにマオイが顔を挙げた。
ほんの僅か、マオイの姿勢が沈み込んだように見えた次の瞬間、160センチをいくらか超えていそうなマオイの体が、10センチ以上も伸びたように空に吸い上げられた。
同時に土の地面からマオイの左足が跳ね上がる。
あたかも褐色の鞭のよう。美しく優美なその動き。
(バァッチ~~ン)
いくらも力を入れた様には思えなかったマオイのキックが、シンの構えた腕を打った時、乾いた埃臭い空気を強く破裂させた。
「ナイスミドル」
嬉しそうに、そして変わらぬ暖かい眼差しで、シンはマオイに声を掛ける。
そんなシンの声など聞こえなかったかのように、マオイはまた視線を土色の地面に落とし、黙り込んだ。
シンが持ち上げていた両手を下す。
マオイのキックを受けた右の二の腕の箇所が、みるみるうちに赤く腫れていく。
意に介さずシンが言う。
「ここのところジムに顔を出さないじゃないか」
マオイは益々困った顔になり、目線を落としたまま動かない。
「ムエタイよりサッカーの方が楽しいかい?」
「楽しくは・・・ない」
ぼそりとマオイが答える。
「じゃあ、どうしてジムに来ないでサッカーなんてしているんだい?」
そう問われたマオイの顔は、いよいよこの上なく困った表情になり、そのつぶらな瞳には、今にも涙が浮かんできそうであった。
それでも穏やかな声色を変えず、シンが続ける。
「試合で負けたのが悔しくて、ムエタイが嫌になったかい?」
マオイの丸まった背が一瞬ビクリと微かに動いた。
「ボク、恥ずかしいんだ」
「恥ずかしい?負けたことが恥ずかしいのかい?」
マオイは小さくうなずいた。
それだけの動作を起こすことが、この少年にとっては大変な困難事だったのだろうと思える程、やっとの思いで小さく首だけを動かしたようだ。
「なあ、マオイ。考えてごらん。100人の選手が勝ったということは、同時に100人の敗者が生まれたってことだよ。いちいち負けたことを恥ずかしがっていたら、人が歩ける場所なんてなくなるよ」
「でも・・・」
またもやマオイが口籠る。
「でも、何だい?」
「でも、僕が負けたのは2才も年下のチェンだよ。学校の仲間も見ていたんだ。恥ずかしくて恰好悪くて、もう学校に行くのも嫌だよ」
ついに顔を上げたマオイの両目からは涙が溢れていた。
「負けたことが悔しいならもっともっと練習して、今度は勝とうと考えるべきじゃないのかい?マオイは将来、ルンピニースタジアムのリングに上がるんだろう?」
ルンピニースタジアム。
タイの国技ムエタイの聖地である。
そのスタジアムの歴史は4百年とも5百年とも言われる。
その人の手によって造られた建造物が、一体誰によっていつ建てられたものであるか、はっきりとは解っていないところが、この国の大らかさを語っていると言えるのだが、このスタジアムのリングに上がることのできるムエタイ選手はほんの一握りで、そのファイトマネーも、他のローカル興業とは桁違いの金額である。
多くの少年戦士が、このリングに上がることを夢見て、早ければ4才頃からジムに通うことも珍しくない。
我が子に才能を見出すと、仕事も放り投げ親戚親者全員でサポートする家族も珍しくない。
マオイもそんな少年戦士の一人だった。
「そうだよ。リンピニーのリングに上がるのが僕の目標だったんだ。だから勝って勝って勝ち続けなきゃいけなかった。それが父さんとの約束だった。でも負けた。二つも年下の11才のチェンにね。もう僕はきっとルンピニーのリングに上がれない」
またも下を向いたマオイの顔から、乾いた地面に向けて数粒の水滴が落ちた。
「僕は恥ずかしいんだ。きっとお父さんも、僕に失望したと思う」
「お父さんに怒られたかい?」
「怒られなかった。お父さんは僕を怒らなかった。ムエタイが駄目なら、頑張って勉強して、ニッポンの会社に勤めてもいいって。きっとお父さんも僕がルンピニーに上がるのは無理だと思ったんだ。だからそんな事を僕に言ったんだ」
今度は何故かシンの方が、少し困ったような表情を見せた。
困ったような顔であるが、変わらず柔和な笑みを表情に含んだままである。
「それは・・・きっとマオイが落ち込んでいるのが判って、それで敢えてムエタイとは違う話をしたんじゃないかな」
「違う!きっとお父さんは、僕ではなくチェンの方にお金を賭けていたんだ。だから僕が負けても怒らなかったんだ。きっとそうだ」
タイではムエタイは政府公認の正式なギャンブルである。
会場全体の異様な熱狂は、贔屓の選手に向けての応援ではなく、単純に自分が金を賭けた選手の方を、我も忘れて応援しているのである。
損をした観客が、負けた選手に向けて物を投げつけると言うようなことなど、全く珍しくもない。
観客にとっては、選手達はある意味、競走馬や闘鶏と同じなのである。
「そんなことは・・・きっとないだろう。マオイ」
「絶対そうだ。よく父さんはアン姉さんに言うんだ。できればニッポンの会社に勤めているニッポン人と結婚して、クーラーがガンガンに効いた家に住めばいいって。お金なんだ、きっと。アン姉さんがニッポン人と結婚したら、自分もお金持ちになれるって思っているんだ。これまで僕のこと応援してくれていたのも、僕が将来強いムエタイ選手になると、お金になると思ってるからだけなんだ」
「マオイ!」
2人が向き合ってから、初めてシンが厳しい表情をした。
その顔も見てマオイがまた泣きそうな顔になる。
しかしすぐにシンの眼はまた元の優しそうなものに戻る。
「なぁ、マオイ。お父さんのことを、そんな風に言ってはいけないよ。マオイが毎日学校に行けるのも、ムエタイのジムに通えるのも、みんなお父さんやお母さんのおかげなんだから」
下を向いたままのマオイは反論しない。
自分の吐いた言葉が、決してそれが真実でないことを、幼い本人もよく理解しているのだろう。
そしてそれすらもちゃんと見抜いているからこその、シンの優しい表情なのだろう。
「なあ、マオイ」
「何だい、シン」
シンの声掛けに、初めてマオイが相槌を返す。
マオイの中にわだかまり、凝り固まっていたものを、シンの優しさが僅かだが溶かしつつあるようだ。
「マオイはいくつか間違っている。そしていくつか正しい」
「何が間違っていて何が正しいと言うの?」
「まずマオイは、負ける事は恥ずかしいと思っている。ここが一つ間違っている」
「だって、負けるってことは弱いってことだろ。それは恥ずかしい事じゃないか」
これまでとは違う少し尖ったマオイの口調に、シンは笑みの割合を幾分増やした表情で言った。
「そこが間違っている。負けることも弱いことも、それは決して恥ずかしいことじゃない」
「シンの言ってる意味が判らない」
少し拗ねた様な子供らしい口調ではあるが、先ほどまでは無かった声の張りがあった。
「俺はね、マオイ。弱くても負け続けても、それでも強い人を一人知っているんだ」
「何なの、それ?弱くても強い人って。シンの言う事、今日は変だよ」
そのマオイの質問に、直接的な答えではない言葉をシンは口にする。
「マオイが言っている事で、正しいことが一つだけある」
「それは何?」
「それはね、恰好悪いということさ。今のマオイがね」
マオイが感情を一気に膨らませる。
何か口を開こうとしたマオイの勢いを躱すように、シンが言う。
「今のマオイが恰好悪いのは、チェンに負けたからじゃない。マオイが恰好悪いのは弱い自分に負けているからさ。だから恰好悪い」
声色は穏やかであったが、それでも痛烈なその言葉にマオイは言葉を失っている。
「じゃあ、会いに行ってみるかい。弱くても強い、その人に」
「どこにいるの?その人は?」
「パタヤ。なに、俺のホンダなら、ここから1時間さ。さあ、行こう。マオイ」
少し躊躇したマオイは、結局シンの運転するホンダの荷台に跨ることとなり、そしてその2時間後、後に彼の人生に大きく影響を与えることとなる一人の日本人に出会うのである。
この時、マオイ・ポムアソンディ、13才。シンサック・ジューヌガン、29才。