1-5
「また泣いてんのか、“篠突く雷火”」
背後からのその声に、一人の天使が背中をびくりと震わせて顔を上げる。“篠突く雷火”。地上に降りて一年にも満たない天使だ。髪は短く、表情にもあどけなさが残っている。
雷火に声を掛けたのもまた、天使だった。何かと雷火の世話を焼く、面倒見のいい上官だ。
「……泣いてなどいません」
「お前なあ……そういうのはせめて一応でも顔拭いてから言えよな……」
雷火の頰と耳は赤く染まり、瞳は潤んでいた。涙を拭って、雷火はかぶりを振る。
「……違います。泣いてなんて……」
「……今回は何を言われたんだ?」
上官は雷火の隣に腰を下ろす。煙草を勧められたが、雷火は受け取らなかった。
「……いつもと同じです。私のせいで彼らの友が死に、戦にも負けたと……」
「はは、マジで代わり映えしねーのな。つまんねぇ〜」
上官は煙を吐き出し、ひらひらと手を振る。
「前にも言ったが、そんなん気にすんなよ。お前のせいじゃねえんだからさ」
「……いえ。彼らの言うことは正しいと思います。私にもっと力があれば……」
思い詰めた雷火の表情を見て、上官は呆れたように首を振る。
「……お前さあ、そんな生き方で苦しくねえの? 俺も散々部下達を死なせてきたけど、一々気になんてしないって。しょうがねーじゃん、気にしてもさ。もっと適当でいいんだよ」
上官は諭すように、あるいは慰めるように言う。しかし雷火は頷きはしなかった。
「……確かに苦しいです。でも、これはきっと試練です。神が私に与えた、乗り越えるべき苦難です」
「…………」
「神は意味のある試練しか与えません。それに屈する者には、救いなど与えられるはずがありません。だから私は耐えられます。苦難に打ち勝った者には、きっと神の祝福があるはずですから」
澄んだ瞳でそう言った雷火を、上官は複雑な感情の入り混じった目で見つめ、ふっと笑みをこぼした。
「ああ、……そうだな。俺もお前さんに、神の祝福があることを祈ってるよ。……マジでな」
その視線に込められた感情を読み取るには、まだ雷火はあまりにも幼すぎた。
◯
随分と、昔の夢を見た。
苦い記憶だ。まだ純粋な心で神と正義を信じていた、幼い頃の自分の記憶。
結局それからどれだけ耐えようと、祈りを捧げようと、神の救いなど訪れることはなかった。現実を変えられる力など与えられるはずもなかった。幼い雷火は次第に打ちひしがれ、失意の淵へと沈んでいった。
そこでようやく悟った。世界は優しくなどない。自分は特別な存在などではない。神は信仰に報いず、罪と邪悪への裁きは訪れない。救いはあまりにも遥遠かつちっぽけで、そのほとんどは紛い物に過ぎない。
そんなことはきっと、誰もが当たり前に知っていることだったのだ。知らなかったのは雷火だけで、ようやく気付いた時にはもう、雷火はあまりにも傷付きすぎていた。
今でこそ分かる。かつて幼い雷火に向けられた、上官の視線に込められたもの。あれはきっと、純真な信仰心への憐れみと、ほんの少しの憧憬だったのだろう。彼の心情が、今の雷火には――リリィと出会った今の雷火には、僅かばかり理解できた。
優しくなりたかった。
他人の為に平気で自分の身を投げ出せるような。或いは、孤独な少女の言葉を無条件に信じてやれるような。
そんな、天使のような優しい心を持ちたかった。
それが出来ないのなら一層、どこまでも残酷になりたかった。
他者を踏み躙っても少しも痛まない心で、自分の快楽の為だけに生きていく。
そんな、悪魔のような外道にでもなってしまえば楽だと思った。
けれど、それも叶わなかった。
天使にも悪魔にもなれない雷火は、どうしようもなく中途半端な紛い物でしかなかった。
それでも、生きていたいと思った。信じられるものが何もなくとも、幸福を望んでしまった。譲れない一線が確かにあった。
故に雷火は、天使にも悪魔にもなり切れない自分が、それでも自分として生きられるだけの――力が欲しいと願ったのだ。
◯
「――雷火さんっ!!」
リリィが叫ぶ。刎ね飛ばされた雷火の頭部は地面に落ちてごろりと転がり、首を失った身体は激しく血を噴いて糸の切れた人形のように無造作に倒れた。
「ら……雷火……?」
「……嘘……」
アルテミスは銃を撃つ手を止め、想兼も立ち尽くし、茫然と呟く。
「子供を捕らえろ。天使は殺して構わん」
カイムの命令で、悪魔達がリリィに歩み寄る。アルテミスの手は震え、弾の生成と装填もままならない。想兼は力無くへたり込んでしまう。
悪魔の一人がリリィに手を伸ばす。
「来い。殺しはしない」
「……私は言う通りにします。……だから、あのお二人にはどうか、何もしないでください……!」
「……それは約束できないな。こっちも仲間が殺されてる」
「それは……!」
悪魔はリリィの腕を掴み、ぐいと引っ張る。
「いいから来い。お前は大事な標的だ」
リリィは必死に抵抗しながら叫ぶ。
「離してください! ……アルテミスさん! 想兼さん! はやく!! はやく逃げて!!」
「ああ? お前……」
「――この状況で他人の心配かよ。バカじゃねえのか?」
悪魔の脳天がかち割られる。頭蓋にめり込む刃は斧――否、斧槍。引き抜くと同時に斧槍は大きく振るわれ、周囲の悪魔を追い払う。
リリィは驚愕に目を見開く。
頭を割られた悪魔が崩れ落ちる。そこに立っていたのは、〝篠突く雷火〟だった。
「……雷火さん!?」
「えっ何!? 雷火生きてたの!?」
「……雷火さん……!」
三人が驚愕に目を見張る。雷火の頭部の輪郭はまだ僅かに燐光を残し、首は血塗れだった。切断された元の頭はそのまま地面に転がっている。
「うわっ……自分の生首見るのエグッ……」
どよめく眷属達を、再びアルテミスの弾丸の嵐が襲う。
「雷火さん……生きてたんですか……!? いや、でも、あれ、首取れて…… 天使って首が取れても大丈夫なんですか!?」
「夜明けだ」
「え?」
リリィが地平線に目をやると、丁度東の空が白み始めたところだった。だが言葉の意味は分からず、雷火に視線を戻して困惑顔で首を傾げる。
「……え、あの、どういう事ですか?」
「……さっき、あの猪を食べただろ。あの異能を複製して、一度だけ蘇生能力を……ああ、もう、面倒くせえ! そんなこと言ってる場合じゃないんだよ!」
雷火はリリィの肩を掴み、押し殺した声で言う。
「……いいか。この状況を打開できるかもしれない手段が、一つだけある」
「……! 本当ですか!?」
ぱっと輝いたリリィの表情とは対照的に、雷火は苦々しく言う。
「……オレとお前が、契約を結ぶことだ」
「契……約……?」
リリィはぽかんとした顔で固まった。
契約。それは天使と悪魔が人間と結ぶ、破れぬ誓いだ。
古くはファウストやジャンヌ・ダルク、近代ではロバート・ジョンソンのように、天使や悪魔と契約して力や才能を得た例は数え切れない。
契約を結べば、天使と悪魔は契約者から魔力――魂とも表現される――の直接供給を受けられるようになり、契約者はその見返りに様々な報酬を与えられる。強力な魔力の持ち主と契約すれば、得られる力は計り知れない。
だが、無論欠点もある。
まず第一に、契約は一度の地上への顕現につき一度に限るということだ。契約者の素質が期待外れだったからといって、破棄して他の契約者を探す事は出来ないのだ。
そして、通常は多くの人間の放つ膨大な魔力の渦からほんの少しずつ供給されるはずの魔力が、契約者一人のものしか受け取れなくなることだ。契約によって回路が切り替わるようなものであり、故に契約者次第で、むしろ元より弱体化する恐れまであった。
雷火は思わず歯噛みする。取り返しの付かない選択。本来ならば十分な時間を掛け、慎重に考えて取り決めるべき重大な事柄。それが契約だ。それをつい数時間前に出会ったばかりの、言動も思考もまったく理解できず信用もならない、こんな子供と結ぶことになろうとは。何もかもを疑ってきた自分が、何の担保も保証も無しに、全てを賭けてこのちっぽけな少女を信じなくてはならないとは。
だが目の前の状況を打破できるかもしれない選択肢は、他には無かった。
「……カイム様! どうなってるんです!? 確かに死んだはずでは……!?」
「狼狽えるな」
襲い来る弾幕の中、予想外の事態に動揺する眷属達のざわめきは、カイムの一言でぴたりと鎮まった。
「自己再生の異能など珍しくもない。そして再生には多大な魔力がかかる。他の能力は大したことが無いのが常だ。慎重に囲んで仕留めるぞ」
雷火は舌打ちする。カイムの推測は当たらずといえども遠からずだった。確かに雷火の魔力は先程の再生で底を突いていた。もはや武器の生成すらままならない。
「……ら、雷火さん……契約って、具体的にはどうすればいいんですか!?」
「……具体的……具体的にか……そうだな……」
雷火はリリィの目をじっと見つめ、溜息を吐いた。
「……お前、オレのこと信じられるか?」
「はい!!」
「………………即答かよ……」
逆に急速に不安になり顔を覆って項垂れる雷火を、しかしリリィは真っ直ぐに見つめた。
「雷火さんには先程も、今も、助けてもらいました。あなたがいなければ、私は今頃どうなっていたか分かりません。だから当然、信じられます!」
その紅の瞳があまりにも力強く感じられて、雷火は自嘲気味に笑った。
「……オレは、お前が思ってるほど大した奴じゃないぞ。あの時も一瞬お前を見捨てようかと思ったし、今だって逃げ出したくて仕方ないんだ。そんなオレを……」
「でも、雷火さんは今ここに立ってます」
リリィは場違いなほど嬉しそうに、笑う。
「だから私は信じられます。信じたいんです、あなたを」
雷火は面食らって固まり、それから表情を緩めてまた溜息を吐いた。
「……後悔するなよ?」
「私がですか? しませんとも!」
雷火の掌上に、金の光を放つ小さな鎖が現れる。鎖はふわりと宙を揺蕩って、二人の心臓を貫き、繋いだ。
その光景を見て、カイムの顔色が変わる。あるいはそれは、彼の持つ予知の異能によるものだったのかもしれない。
「何か、何かまずい……! 止めろ!! 全員!! そいつを殺せっ!!」
悪魔達が叫び、雷火のもとへ殺到する。輝く鎖は虚空へ溶けるようにして消えていく。同時に雷火は全身に、確かな力の充足を感じた。
これならやれる――。
「どけぇぇッ!!」
雷火は群がる悪魔を追い払おうと、威嚇で大振りに斧槍を振るう。
――夜明けの地平に、太陽がもう一つ生まれた。
一瞬そう錯覚するほどの凄まじい熱、轟音、閃光、爆風、衝撃波。
吹き荒れる破壊の嵐。放たれた膨大な魔力は巨大な白い雷となり、悪魔達を一瞬で蒸発させる。
魔王カイムもその例外ではなく、下半身は吹き飛び、残った上半身も黒く炭化していく。逃げようとした悪魔すら、青白い電光が這いずる蛇のように余さず捕らえて焼き焦がす。周囲のビルの窓という窓が粉々に砕け、アスファルトは融解し煮え滾った。
ほんの数秒で、辺りは悲鳴と呻き声だけがこだまする、酸鼻を極めた地獄絵図へと変わり果てていた。
想兼とアルテミス、そして雷火が、唖然としてリリィを見つめた。
「お前……一体、何者……」
言うや否や、雷火の口からどろりと血が溢れる。目鼻や耳からも出血し、斧槍は粉々に砕け、更にはそれを持った腕も裂けるように、或いはどす黒く壊死したようになり、血が噴き出す。
「え……何……は……?」
名を呼ぶ声を遠くに聞きながら、雷火の意識は闇に沈んでいった。
◯
目を覚ますと、古ぼけたソファの上だった。辺りを見回すと、寝床に使ったオフィスの中らしい。全身あちこちの疼くような痛みに顔を顰めながら身を起こすと、ソファにもたれかかるようにして、ローブを脱いだ薄着のリリィが眠りこけていた。その背中が目に入り、雷火はぎょっとする。
「……雷火さん!起きたんですか!」目覚めた雷火に気付き、想兼が駆け寄ってくる。「良かった……!」
表情こそ笑顔だが、顔色には精気が薄く、涙の滲んだ目もどこか虚ろだ。鎮痛剤を大量に服用したのはすぐに分かったが、それは口にはしない。
「……ああ、悪い。心配かけたみたいだな……。どのくらい経った? ……アルは?」
「数時間は。もう昼です。アルテミスさんは外でずっと見張りをしてくれてます。……マジで大変だったんスからね? 雷火さんは血まみれだし、起きないからここから動けないし、戻ってきたら猪がまた復活してたし……」
「……オレは一体……どうしたんだ?」
雷火は口元を押さえ、首を振る。全身が鉛のように重かった。
「恐らく、許容量を超えた魔力の流入で、その容れ物としての身体がパンクしたんでしょう。……リリィさん、ついさっきまでずっと治癒の力を使い続けてたんスよ」
「……そうか……」
雷火はリリィに目をやる。ローブを脱いでチューブトップにショートパンツという薄着で、背中が大きく露わになっていた。そこには一面に、巨大な魔法陣が刻まれていた。刺青らしきそれは複雑怪奇な文様と見たこともない言語で構成され、見るものを圧倒する迫力を秘めていた。
「……これは? 何なんだ?」
「……本人に訊ねましたが、いつからこうなのかは分からないそうっス。魔術的に刻まれたか、あるいは眠らされて彫られたか……。本人は覚えてないって言ってましたけど……」
「…………どう思う?」
「……見たこともない構成と術式言語です。情報が圧倒的に足りません。専門家を当たらないと解析は無理でしょうね」
「そうか……」
雷火は魔法陣を見つめ、考え込む。
契約で得られたあまりにも強大、いや、異常な魔力。
十年間の幽閉。
十年前の大災厄。
魔王が直々に出向いて来た理由。
そして、背に刻まれた魔法陣。
全ての点と点が結びつき、雷火の頭の中では一つの思考が朧に結実しようとしていた。
雷火はソファを軋ませ、腰を上げる。
「……なあ、モイ。……突飛かもしれねえんだけどさ……」
想兼もリリィを見て頷く。
「ええ。……多分、私も同じ考えっス」
「……とりあえず、アルのところに行こう。……ほら、起きろ」
雷火が頬を軽く叩くと、リリィは寝惚け眼で目を覚ました。
「あ……雷火さん! 起きたんですね……大丈夫ですか? まだ痛みます?」
「大丈夫だ。……もう痛くない。それよりはしたないだろ、ローブを着ろ」
「なに未通女いこと言ってるんスか雷火さん。一人で清純ぶろうとしくさっても駄目っスよ!! ウケる!! グハハハハ!!」
「情緒不安定にも程があるだろ! クスリをやめろ想兼!」
狂気じみた馬鹿笑いを続ける想兼をよそに、リリィは慌ててローブで身を隠す。
「えっ! コレ世間的にはしたないんですか!? そういうことは早く言ってくださいよ!」
「……これから今後について相談する。お前にも関係のあることだ。付いてこい。……それから……そのだな……」
雷火はバツが悪そうにもごもごし、ローブを着る途中できょとんとするリリィを見た。
「……ありがとな。治してくれて……疲れただろ」
リリィの表情は見る間に輝き、満面の笑みになった。
「お安い御用です!」
◯
「あー、モイちゃん。どうしたの…………雷火! 起きたんだ! よかった〜!」
外に出ると、気付いたアルテミスが嬉しそうに走ってくる。遠目につい先程の戦闘の跡が目に入った。アスファルトが根こそぎ剥がれ、周囲のビルの窓は皆砕け、壁面までもが焼け焦げている。悪魔達の消し炭と化した死体がごろごろと転がり、さながら大規模な爆撃の後のようだ。とても自分がこれをやったとは信じ難かった。
「悪い、もう大丈夫だ。……少し話したい、いいか?」
「えー、何々ー?」
雷火はアルテミスと想兼、それからリリィに目をやる。
「……まどろっこしいから単刀直入に言うぞ。少し考えたんだが、オレはこのリリィが、今起きてる全ての出来事の発端……大災厄、人間の屍者化と何かの関係があるんじゃないかと思う」
「え? え? どういうこと?」
「何ですそれ!?」
「…………」
アルテミスとリリィは困惑し、想兼は薬の抜けぬ虚ろな目で水飲み鳥のように頷く。
「……あの魔力はどう見ても異常っス。大天使どころか、神格の領域に足を突っ込んでるレベルです」
「だよな。どう考えても人間の魔力じゃないし、天使か悪魔が関わってるものだとしても、そんなレベルの存在はそう易々と出てくるものじゃない。……天使側か悪魔側かに関わらず、その存在を把握されていれば戦線に投入されないわけがない。そんな貴重な魔力の持ち主が無意味に放り出されてるわけがないんだよ」
「……?」
リリィはオロオロと二人の顔をしきりに見比べる。
「リリィさんは十年間幽閉されていたと言いましたね。もしその魔法陣が収監と同時に刻まれたものだとすれば、丁度人間が屍者に変わるようになった時期と一致します」
「え、つ、つまりどういう事ですか!?」
「誰がどんな目的で、どうやってかは知らないが、お前の背中の魔法陣が、この戦争の原因に関わってるかもしれないってことだ」
「わ……私の……!? 私が……!?」
「そうでなくても、相当な厄モノなのは確かだろうな」
予想外の話に狼狽するリリィと対照的に、早々と理解を放棄したアルテミスは大きな欠伸をする。
「んー、それで? わたしたちはこれからどうするの?」
「決まってんだろ」
雷火はアルテミスと想兼に顔を寄せる。
「オレ達でこの魔法陣の謎を解き明かして人間の屍者化を解決すれば、戦争の理由も無くなって人間もまともに生きられるようになる! 世界が救われるんだぞ!」
「えー? 流石にそこまでは考えてませんでしたけど……」
「雷火……いつの間にそんなキレイな心を持つようになったの……? わたし感動したよ……!」
「違う。いいか、よく聞けよ。……モイ、言ったよな。オレ達はこのまま無為に屍者を狩り続けるか、前線に戻って死ぬしかないって」
「ええ、確かに……」
「これは第三の選択肢だ。もしオレ達が人間を救って戦争を止めでもしてみろ。オレ達の名は世界中に轟いて、人類の歴史に刻まれることになる。それはもう、新しい神話そのものだ。オレ達の存在は後世の人間達にも救世主として語り継がれ、永遠に祀られることになる。どうだ?」
「えー! ホントに!? やるやる! 絶対やる! 今すぐやろうよ!」
「……えー? そ、それは流石に……夢見過ぎじゃないっスかぁ……?」
アルテミスは無邪気にはしゃぐ。想兼は口ではそう言ったが、熱っぽく語る雷火と同じように、その頬は緩んでいた。
偉業を成し遂げて神話に、人類史に名を刻む。それは人々の信仰によって力を得る天使にとっては単に名声を得るだけに留まらず、永遠の存在証明と絶大な力を手にするのと同義だった。特に神話に描かれず個としての名を持たない雷火にとっては、これ以上ない魅力的な考えだった。
「あのー、私はどうすれば……?」
おずおずとリリィが手を上げる。
雷火はその顔をまじまじと見つめた。
リリィとの契約で得た桁外れの魔力。それは雷火がかつて焦がれ、いつしか求めたことすら忘れていた、大きな力に他ならない。その力が公になれば、天使も悪魔も血眼で彼女を追い求めるだろう。雷火にも危険が及ぶのは間違いない。
だが、やってみる価値はある。この力があれば、リリィと共にいれば、何かが――まだ言葉にもできない何かが、変わるような気がした。
「……お前、自分が何者なのか知りたいって言ってたよな?」
「! ……はい!」
リリィは背筋をぴんと伸ばす。
「……なら、オレ達と来い。オレ達の目的が、そのままお前の正体を探ることに繋がる。……それに……」
雷火はそっぽを向きながら、リリィに手を差し出す。
「……契約、しちまったからな。お前がオレを信じる限りは、オレもお前を信じてやる。……不本意だが」
リリィはその掌を両手で握り――。
「……はい! よろしくお願いします!」
そうして屈託の無い笑顔を見せた。
◯
陽が頂から少し傾き始めた頃、八重山篝は古ぼけた車を走らせていた。
篝は今や貴重な人間の生存者集団の取り纏め役だ。この終わった世界で生き延びるべく、日夜地べたを這いずり回るように奔走している。仲間の一人がいつか言った。『まるでゴキブリかドブネズミみたいな生活だ』と。確かにその通りだ。僅かな食糧や領地を奪い合い人間同士で争い、悪魔に媚び諂う。天使はそんな篝達をまるで見て見ぬ振りをして、遥か上空を飛んでいくばかりだ。
それでも篝は、希望を捨ててはいなかった。人としての尊厳を削ぎ落とされていくような日々の中、いつか必ず全てをひっくり返せるような出来事が、出会いがあると信じていた。いや、そう信じたかっただけかもしれない。少なくとも、今日の今日までそんな出会いは訪れていない。
「どこだ……? この辺のはずだよな……」
廃墟街の荒れ果てた道でがたがた揺れる車の中、篝はキョロキョロと辺りを見渡した。こうして篝が車を走らせているのは、この日の明け方、誰もいないはずのこの廃墟街で巨大な爆発と魔力の反応があったという報告を確かめるためだ。
ここは篝達の拠点からは数十キロほどに位置するが、もし天使と悪魔、もしくは悪魔同士の戦闘があったのなら、一応用心しておく必要がある。或いは既に全て片付いた後ならば、死体から何か掘り出し物が漁れるかもしれないという期待もあった。
そのまましばらく走行していると、少しずつ篝の鼻に独特な臭いが漂ってきた。
「これは……」
篝も良く知る、降り始めた雨の香りにも良く似たそれは、悪魔の死体が発する特有の匂いだった。そしてそれを塗り潰さんばかりに強烈な、焼け焦げた灰と炭の匂い。
車を降りて匂いの元へと走り出し、その光景を目にして息を呑む。廃墟街の広々とした道路が、中央から殆ど焼け野原と化していた。周囲のビルまでもが焼け焦げ、道路標識は融解している。どれほどの破壊力が放たれればこうなるのか、想像もつかない。
しかし真に篝の目を奪ったのは、それら破壊の痕跡ではなかった。
辺りに散らばる、恐らく元は悪魔だったであろう夥しい焼死体。その中央に、生きた悪魔らしき影が蹲っていた。悪魔は黒い外套に身を包み、鳥の頭蓋骨を思わせる仮面を被っていた。
そして悪魔の腕の中には、下半身が吹き飛んだ黒焦げの死体があった。
そう、死体だと思ったのだ。誰の目にもそう見えただろう。だがその焼死体は表面からぼろぼろと炭化した組織を零しながら身じろぎをし、絞り出すような声で悪魔に何か話しかけているようだった。
――あの状況でまだ生きてるのか? 嘘だろう――!?
驚愕に硬直する篝が見入る中、とうとう力尽きたのか、黒焦げのそれは動かなくなった。
悪魔は何かを呟いて、その胸に手刀を突き刺した。
篝は目を見開く。
悪魔が焼死体から抉り出したのは、まだ新鮮な赤黒い臓器――心臓だった。悪魔は大きく上を向き、その心臓を喰らう。鳥骨の仮面を鮮血が染めた。
「オオオオオ……オオオオオオォォッ!!」
悪魔が、吼えた。それはこの世全ての憤怒と憎悪をかき集めたような、聞く者の心を掻き乱す絶叫だった。
「雷火……“篠突く雷火”……!! 覚えたぞ、その名前……!! 待っていろ……私が必ず……お前の全てを焼き尽くしてやるッ……!!」
それが悪魔の異能なのか、腕の中と周囲の骸達が見る間に発熱し、白い骨となって崩れ風に散っていく。
高温の余波をその身に受けながら、篝の目はいつまでも、激情に身を焦がす一人の悪魔に奪われてしまっていた。




