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足が竦む。鉛でも呑まされたかのように悪寒が止まらない。
一体何者だ? どうしてこの場所が分かった? アルテミス達は気付いているのか? こちらに向かってきているのだろうか? そもそも何の為に? 狙いは何だ? オレ達を殺す気なのか? 勝てる? 馬鹿な。では逃げる? 逃げられるのか――?
混乱した思考は高速で転回するが、結局身のある答えは一つも出て来ない。そうして雷火が硬直している間にも、停車した軍用車からはわらわらと搭乗者達が降りてくる。
姿形は様々だが、皆翼や嘴といった鳥を思わせる特徴が共通している。やはり悪魔、それも恐らくは統一された眷属だろう。考え得るに最悪の相手だ。
そしてその内の一台から、燕尾服に身を包んだ紳士然とした悪魔が姿を現わす。携えるは鈍い銀に輝くサーベル。無骨な軍用車と瀟洒な燕尾服がいかにも不釣り合いな異様な光景だったが、そんな事は気にも留めさせない有無を言わさぬ風格を放っていた。間違いなくこの男が魔王だろう。
「雷火さん……あの……お知り合いですか……?」
リリィは不安げに悪魔達を見つめる。
「アレと同類だと思うなら、お前のオレに対する認識を改めさせる必要があるな……」
「そこの天使」燕尾服の魔王が声を張り上げる。「その子供をこちらに引き渡せ。大人しくすれば見逃してやる」
「……何……?」
必死に呼吸を整えながら、思考を動かす。
口振りからすると、悪魔達の目的はリリィにあるらしい。問答無用で襲って来ない辺り、殺す気は無いのだろう。しかし捕らえるつもりであったとしても、ただの子供にこれほどの人員を裂き、あまつさえ魔王が直々に出張ってくる理由など何処にあるのだろうか。
雷火はリリィの話を思い返す。
十年間の幽閉生活。仮にそれが事実だとするなら、そこには必ず意味があるはずだ。少なくともリリィには悪魔にとって、何らかの利用価値があるという事になる。
今目の前にいる悪魔達は、逃亡したリリィを捕らえるために派遣されたか、もしくは手柄を狙って来たか。大まかにはそんなところだろう。
「雷火さん、私は大丈夫ですから早く逃げてください!」
「バカかあんなん嘘に決まってんだろ! お前を渡したら後はオレを殺さない理由の方が少ないわ!」
「えっ!? そうなんですか!?」
心底予想外といった顔でリリィは魔王を見遣る。魔王は少しも表情を変えなかった。
「……別に、渡さないならそれでも構わないが。力尽くで奪うだけだ。……よもや勝てるとは、思っていないだろう?」
魔王がほんの一歩、足を踏み出す。それだけで一気に血の気が引き、全身からどっと汗が噴き出す。極寒の水中に丸裸で放り込まれたような感覚。一刻も早くこの場から離れ、全てを投げて逃げ出したくなる。
その時ふらふらとした足取りで、魔王の隣に一人の悪魔が歩み出る。梟のような頭に驚愕の表情を貼り付け、口をぱくぱくさせている。
「……あ……あり得ない……」
「……どうした?」
魔王が訝しげに訊ねると、梟は突如絶叫した。周囲の驚愕と疑問の視線の中、脂汗を浮かべ半狂乱でリリィを指差す。
「あっ……こっ……殺せぇっ! 誰かそいつを……いっ……いやっ……逃げっ……!? 逃げっ……! こんなっ……嘘っ嘘だっ……あり得ないぃぃっ……!」
「おい! どうした!? 何が見えたんだ!!」
魔王が肩を掴み揺さぶった梟のその額に、大穴が穿たれた。魔王は続く銃撃をサーベルで弾き落とし、すぐさま飛び退く。梟の身体は物言わぬ骸となって崩れ落ちた。
「雷火っ!」
廃ビルからアルテミスと想兼が走り出てくるが、悪魔の集団を目の当たりにしてぎょっとした顔を見せる。
「どっ……えっ……どうなってるのこれ!?」
「オレが聞きてえよ!」
「……あの悪魔……」
想兼が燕尾服の魔王をじっと見つめる。その顔には汗が滲んでいた。
「……分かるか?」
「……はい……。あの悪魔はカイム。ソロモン七十二柱にも数えられる悪魔っス。原典で描かれている異能は、動物との会話と未来予知ですね」
「……七十二柱……嘘だろ?」
「マジっス。……お薬キメてもいいスか?」
「オレもキメたくなってきたわ……」
「えー、どうすればいいのかなー、これ?」
話しながらもアルテミスは引き金に手を掛けた銃をカイムに向けているが、ただの虚仮威しに過ぎない。撃ったところで先程のように叩き落されるだけだろう。
「……モイ、逃げられると思うか?」
「……私達だけならば、可能性は低いですが……あるいは。……ですが……」
想兼はそれ以上口にはしなかったが、何を言わんとしているのかは分かった。当然の話だ。リリィを抱えていては、この魔王達から逃げ延びるなど出来るわけがない。当人もそれを理解したのか、唇を引き結ぶ。
「……あの! 私なら本当に大丈夫なので! 皆さん逃げてください! ……多分、殺されはしないと思いますから! 気にしないでください!」
「……だろうな……」
「だったら!」
「…………」
雷火は重々しい息を吐き、魔力で斧槍を顕現させ、カイムへと足を踏み出す。ひとつ歩むごとに胃がねじ切れそうに痛んだ。その歩みはまさしく断頭台への行進そのものだ。
「ら……雷火さんっ!!」
「黙ってろ……気が散る……」
押し潰されそうな重圧の中、とうとうカイムの目の前まで辿り着く。既に魔王の間合いの中だ。ほんの一瞬の読み違えと気の緩みで、雷火の命は容易に搔き消える。
「逃げないのか? 見上げた勇気……いや蛮勇と言うべきか。……一応、名を聞いておこう」
「…………。……“篠突く雷火”」
「……“篠突く雷火”だと……!?」
カイムの顔色が変わった。
「はははっ! お前があの“篠突く雷火”か! まさかこんなところで恩人に会うことになるとはな!」
「ああ? 恩人だと?」
初対面の、それも魔王の不可解な言葉に、雷火は怪訝な顔を浮かべる。
「……私には、少しばかり先のことが見通せる力があってな。その力で幾度となく難局を乗り越え、成功を掴んできた。……中でも最も大きい手柄は、九年ほど前のものだ」
「………九年前……」
雷火が地上に降りた時期だ。
「当時、軍は天使達が強力な大天使の召喚儀式を執り行っていると情報を掴み、進軍か撤退かの二択を迫られていた。進軍してもし大天使が本当に召喚されていれば甚大な被害を被る、しかし撤退すればそれまでの苦労が無駄になる。常人では測りかねる状況で、私の予知が見通したのは進軍の成功だった」
「…………!」
雷火は息を呑んだ。
「そう、主天使ハシュマルの召喚が失敗し、“篠突く雷火”……お前が生まれてくれたお陰で、私は大きな手柄を立てて今の地位に着くことができた。お前には感謝しなくてはな」
「……野郎……」
歯軋りをし、カイムを睨む。面識こそ無かったが、単なる下っ端の雷火と魔王であるカイムは、妙なところで因縁の相手でもあったわけだ。
雷火はひとつ、大きな息を吐く。
「……なあ、あんた。スコット・ハルピンを知ってるか」
「……何?」
「イギリスのロックバンド、ザ・フーのドラムスだったキース・ムーンは相当なドラッグ中毒でな。ある時、ライブの最中に薬で昏睡しちまったんだ」
「…………?」
カイムは怪訝に眉を顰める。
「普通はライブ中止になるところだが、その時メンバーは観客に向けて『誰かドラムが上手い奴はいるか』と呼び掛けたんだ。そうして代役としてステージに上がった少年が、当時十九歳のスコット・ハルピンってわけだ」
「……何だ、いきなり。何の話をしてる?」
「分からないか? つまり、オレが言いたいのは……」
瞬時に斧槍が膨張し、巨大な剣へ変わる。雷火の腕に魔力が流れ込み、大剣を一瞬で振り抜いた。
渾身にして全力の不意打ち。受ければ魔王とてただでは済まないだろう。
しかしその一撃は、カイムのサーベルによって容易く受け止められた。夜闇に火花が散り、甲高い金属音が虚しく鳴り響く。
「……その剣……!」
振り下ろされた大剣を見て、カイムが表情を変えた。
「クソッ!!」
雷火は大剣を斧槍へと戻し、距離を取る。この大剣は昼間に戦った四本腕の悪魔のものであり、それを振るった魔力も、その悪魔の魔力だった。
雷火の持つ異能は、他者から吸収した魔力の持つ性質や異能を自分のものとして使用できるというものだ。一見すれば強力なものに思えるが、そう大したものではない。
まず、複製した魔力は一度きりしか使えない。昼間の悪魔の魔力の『身体強化』の性質は単純ながら大変有用なものだが、今しがた使ってしまった為にもう二度とは使えない。
そして、この異能は大変燃費が悪い。他者の魔力を無理に自分のものとして使う為に消費される魔力は無駄なロスが多く、現に先程の複製で雷火は魔力をかなり消耗してしまった。
故にこの不意打ちの一撃に全てを賭けたのだが、結果はこの通りだ。殆どダメージを与えられなかった上に、カイムの表情は怒りに染まっている。
「その魔力……そうか……お前か……フランツを殺したのは……」
「……ああ……!?」
カイムの反応に違和感を覚え、雷火はようやく現状の一端を飲み込む。
言動からするに、昼間にリリィを助けるべく戦った悪魔達はカイムの眷属だったのだろう。そして姿は見えないが、恐らくはその時逃した片割れの悪魔がこの場所を仲間に伝えたのだろう。
なんて事だ、と雷火は悔恨に苛まれる。あの時リスクを恐れず確実に仕留めておけば、こんな事にはならなかった。少なくとも、日が落ちてからでも場所を移動すれば良かったのだ。
「気が変わった。お前は逃さん。この場で私が殺す」
カイムの放つ魔力が急速に高まっていく。完全な臨戦態勢に入ったのだ。雷火は気圧され一歩後ずさり、口端を歪めた。
「……最初から逃すつもりなんて無かったくせに」
「無論だ」
銀のサーベルが振るわれる。なんとか斧槍の柄で受け止めるが、薄刃には信じられない程の凄まじい力が込められていた。そのまま斧槍を切断されそうになり、慌てて魔力で補修するも、間髪入れず剣撃は続く。恐ろしい速度と威力。何とか致命傷を受けないように防御するのがやっとで、とても反撃など叶わない。
「雷火っ!」
近付き取り囲もうとする眷属達を、アルテミスの射撃が牽制する。手元がブレて見えるほどの凄まじい速度で装填と発射を繰り返し、元は単発式のはずの銃から、魔力の弾丸が機関銃の如き超高速で連射される。眷属達はそれを受けて攻めあぐねているが、それも時間の問題だ。アルテミスの魔力にも限度があり、また雷火がカイムの攻撃を捌くのも数分と保たないだろう。リリィは勿論、想兼も戦闘要員には数えられない。最初から分かっていたことだが、状況は絶望的だった。
ほんの三十秒にも満たない間に、雷火の全身には幾つもの深い傷が刻まれていた。何度か反撃も試みたが、カイムの身体には傷ひとつ無い。むしろその度にこちらが深手を負わされていた。刃に電流を纏わせたところで、当たらなくては意味が無い。手傷を負わせられるような有用な複製魔力のストックも持ち合わせていなかった。
――勝てない。
じわじわと絶望が胸に去来する。
そもそも存在からして格が違うのだ。七十二柱の悪魔と、神話にも描かれない下っ端の天使。挑むこと自体が間違いだったのだ。
力が欲しい。目の前の魔王に勝てる力が。
思えば雷火はこの地に生を受けてから、常に力を欲し続けてきた。現状を変えるための力。理不尽を跳ね退けるための力。守りたいものを守るための力。
そうだ。もしも自分が何の間違いもなく、強大な天使として生まれてきていれば――。
そんな考えを否定する無慈悲な斬撃が、雷火の胸を袈裟に深々と切り裂いた。
「ああぁっ!! クソッ!!」
激痛が走る。傷口から命そのものが溢れ落ちていくのを感じる。
せめて一矢報いようと繰り出した苦し紛れの斬撃も、まるで難なく躱される。雷火はどうしようもなく、無力だった。
そして返しの刃が閃く。言葉を発する間もなく、雷火の首は切断され、無様に宙を舞っていた。