3-15
“不死殺し”とは、歴戦たるアスモデウスに付けられた多くの異名の中でも最も有名なものである。大災厄からなる戦乱の初頭、多くの敵を屠り悪魔の侵攻を押し留めた高名な天使“流転輪廻す孤影”を単身で打ち滅ぼしたのを発端としてそう呼ばれるようになった。
ひとえに不死、再生能力者と言っても傷を治すもの、基本の形に戻るもの、身体構造が不定形なスライムじみたもの、はたまた自身の時間を巻き戻すものなど様々だが、どの能力にも必ず共通することがある。それは、真の意味での『不死』など存在しないということ。そして『不死』は『無敵』とは違うということだ。
天使だろうと悪魔だろうと魔術師だろうと、身体を再生するには必ず魔力を消費する。個体が扱える魔力が有限である以上、魔力消費を上回るスピードで殺害を繰り返せば、必ずいつかは底をつく。魔力が空っぽの状態で殺してしまえば、もう再生は出来ず、ただ死んでいくしかない。アスモデウスが“流転輪廻す孤影”を滅ぼした際は、実に五時間をかけて絶え間無く命を断ち続けた。
そして、再生能力に対処するのはそう難しいことではない。アスモデウスが“流転輪廻す孤影”を殺し続けたというのも、当時の彼がまだ対処に不慣れだった故であり、分かってしまえばそんな手間を掛けずとも容易に無力化できる。
まず第一に拘束。縄で縛るだけで済んでしまうことも多々あるし、事前に準備が出来るのならばコンクリートや溶鉄で固めてしまうことも出来る。彼が大量にぶら下げている肉に喰い込む形状の脇差も、突き刺して相手の自由を奪うための、いわば剣というより銛に近い武器だ。また、脳に異物を埋め込んで固定し、思考能力を奪うというのも有効だ。
しかし、更に手っ取り早い方法がある。それは戦意を喪失させることだ。アスモデウスは人体のどこをどう傷付ければどのような痛みが生まれるのか知り尽くしている。指先を摩り下ろし、内臓を掻き回し、皮を引っ剥がす。痛覚があるタイプの再生能力者なら、そうして戦う意思を萎えさせてしまうのが最も手軽で簡単なやり方だ。
アスモデウスにとって再生能力者など、ただ仕留めるのに必要な手順が増えるだけで、物の数にも入らない。それも彼が“不死殺し”と言われる所以でもあった。
だが、そんなアスモデウスは今、久方振りに再生者に対して辟易していた。
「おい……いい加減諦めろよ……」
アスモデウスが持つ脇差は、血肉が刃のギザギザの返しにべっとりとこびり付いて見る影もない有様だった。彼の足元には、紅のローブを血で黒く染めた人物が、芋虫のように蹲っていた。――リリィだ。
「う…………」
リリィは銀の剣を支えとし、よたよたと起き上がる。ローブは至る所引き裂かれ血まみれだが、身体には傷ひとつない。全て再生しているのだ。対して手にした銀の剣はほとんど汚れていない。アスモデウスに全く手傷を与えられていない証だった。
「あああ……!」
銀の剣で斬りかかるリリィ。アスモデウスは溜息をつき、その腕を斬り飛ばした。
「っ……!」
剣を取り落すリリィ。だが失われた腕は見る間に再生し、再び剣を拾い上げてアスモデウスに向き直る。先ほどから延々この調子だ。手足や指は何度切り落としたか知れない。内臓もミキサーにかけるようにグチャグチャに攪拌し、あらゆる苦痛を与えてやったというのに、未だリリィは立ち上がってくる。
アスモデウスはこの無意味な、戦いとすら言えない一方的な虐待に辟易していた。先程交わした約束――アスモデウスに負けを認めさせれば彼女を助けた悪魔の名を教え、殺人を反省し償うという、リリィとの約束。後者はともかく前者については別に教えてやっても構わない、むしろコレが終わるのならばさっさと教えて済ませたいというのが本音であったが、こと戦いについての約束事は出来る限り守るというのが彼の信条であるため、そういうわけにもいかなかった。
「あー……やめとけって言ってんだろ? そこに転がってる奴ら見ろよ、その剣の持ち主だった奴」
アスモデウスは転がる死体の山の中、リゴル・モルティスの二人の少女を指し示す。
「こいつらもそれなりに手練れだったが、俺に負わせたのはかすり傷くらいだ。ましてやお前、どう見ても素人だろ。何度やっても無駄だっての」
「…………」
そんな制止に耳を貸さず、リリィは再び斬りかかる。アスモデウスは舌打ちをし、彼女の両目を横一文字に切り裂いた。
「……ッあ……!」
不揃いな刃で眼球を裂かれる激痛に、リリィは顔面を押さえて硬直する。
「……なあ、おい……聞けよ……」
アスモデウスは諭すように語りかける。
「こんなナリだが、俺は別に弱い奴虐めてもなーんも楽しくねえんだよ。そりゃ俺の仲間にゃ拷問が趣味の奴やら逆に痛めつけられるのが大好きな奴やらがわんさかいるけどよぉ……俺は強い奴と戦いてえんだよ。てめぇみてえなガキ刻んでもちっとも楽しくねェーの。言ってるコト分かるか?」
「…………」
「分かったらマジでいい加減諦めて帰ってくれや。な? 別に追いもしねえしよ。俺ぁただせっかくの貴重な時間を無駄にしたくねえの! 分かるか!?」
リリィの眼球が急速に再生する。鮮血に濡れてなお紅玉のように輝くその瞳には、まるで褪せない強い意志が宿っていた。
「……分かりません。無駄などではありません。……私にとっては」
「…………」
アスモデウスは心底うんざりしたように溜息をつき、一瞬で身を屈めた。
「あっ……!」
そして、一閃。切れ味など皆無に等しい血肉にまみれた刃ながら、凄まじい膂力と卓越した技量により、リリィの両脚を膝から切断する。支えを失い、無力に倒れるリリィ。アスモデウスはそんな彼女の脚を引っ掴み、ずるずると引き摺っていく。
「はっ……! 離してください!」
アスモデウスが向かった先は、広場に植えられた一本の大木のもと。彼は脚の無いリリィを片手で持ち上げると、肋骨の隙間を脇差で深々と貫き――大木に磔にした。
「……! ……ぅ……ごぼっ……!」
目を見開くリリィ。口からは呼吸の度に大量の血が溢れ、叫ぶことすらできない。肺と肝臓を、鋸のような刃が貫いていた。自重と彼女自身の身動きで、再生する度に傷付けられ続ける。
「あ……ぅ……が……ぶぁ……」
胸と口からどろどろと血を溢れさせながら足掻くリリィに、アスモデウスは背を向ける。
「じゃあな、クソガキ。そこで大人しくしてろよ。暴れれば余計に苦しいだけだぞ」
ようやく片付いたと息をつき、アスモデウスは踵を返して歩き出す。だがそんな彼の耳に、かちゃかちゃという小さな金属音が届いた。
「…………」
ゆっくり――いや、恐る恐る、アスモデウスは振り返った。
「……が……ぶぁっ……ご……ぼっ……」
磔にされたリリィが、胸を貫く剣を自ら掴み、引き抜こうとしていた。ほんの少し動かす度に、刃に刻まれた不揃いな返しが肉を引き裂き、大量の血を溢れさせる。再生する毎に皮膚と肉とがちぎれ、ぶちぶちと嫌な音を立てる。肋骨の隙間を貫かれているゆえに、骨も力任せに鋸を立てるように削られていく。
「い……ぎ……っ……ぐ……ぅぅううう……」
口からは止めどなく大量の血が溢れる。肺が血で満たされているのだ。恐らく既に何度か溺れ死んでいるはずだ。顔色は蒼白を通り越して真っ白になっている。滝のような汗。傷口からは血液だけでなく引き裂かれた肉片までもがぼろぼろと零れ落ちる。
「……嘘だろ……おい……」
アスモデウスが呆然と呟く。常人ならとっくに何度も発狂しているはずだ。そうなるように刺したのだから。
ならば目の前のこの子供は、尚も刃を握る手を止めないこの少女は、一体何なのだ――。
「あぁぁ……ああああああッ!!」
力任せに、リリィが脇差を引き抜いた。肉が裂かれ、大量の鮮血が噴き出す。支えを失い、リリィの身体はどさりと地に落ちた。血反吐を吐いて咳き込む。
「……は……ッ……あ…………あ…………」
自らの血の海の中、幽鬼のようにゆらりと立ち上がるリリィ。その腕には未だに、銀の剣が握られていた。
「何なんだ……てめぇ……?」
幾百幾千の人外を屠ってきたアスモデウスが、奇怪なものを見る顔で呟く。
「何でそこまで出来る? 何の為だ? そんなにあいつの名前が知りてえのか?」
「……ええ……それもありますが……」
リリィが顔を上げた。破れたフードが落ち、血まみれの顔と色素の薄い髪が露わになる。その瞳に宿るのは、狂気とも無垢とも言えないものだった。或いは、その両方だったかもしれない。
「……私は、これが正しい行いだと信じているからです」
銀の剣を手に、リリィは一歩踏み出した。一歩、また一歩、アスモデウスに歩み寄る。
アスモデウスは目を瞑り――
「……気違いか、底抜けの馬鹿か。……まあどっちでもいい。……その根性だけは認めてやるよ」
新たな二振りの脇差を解き放った。
「……ナメてかかったのは悪かった。だがこれで終わりだ。お前と遊ぶのも、もううんざりだ」
リリィが言葉を返そうと口を開いた瞬間、突風が吹き抜けた。そう思った時には、腹から刃が生えていた。
「……え」
瞬時に背後に回ったアスモデウスが、リリィの背中を貫いていた。そのまま突き倒し、脇差で地面に串刺しにする。
「ぅあ……が……ッ……!」
悲鳴を上げる間も無く、右手、左手、右足、左足、腰にも次々と刃が突き立てられた。さながら昆虫標本のように、全身貫かれ縫い止められる。
「ぐ……ううっ……!」
必死に足掻こうとするが、既に再生された肉が刃を巻き込んでしまっている。四肢の全てを固定され、まともに身動きすることもできない。
「う……う……ぐ……!」
力任せに自ら手足を切断して脱出しようとするも、それより先に勝手に傷が再生してしまい、無駄に血が溢れるばかりでびくともしない。
「離してください……! こんな……ずるいですよ……!」
「ズルくねえ、実力だ。……お前くらい再生速度が速けりゃ、そのやり方で固定できるのか。勉強になったわ。……じゃあな、今度こそ大人しくしとけや」
「ま……待って……!」
アスモデウスが歩み去っていく。リリィは磔にされたまま必死にもがくが、全く動けない。
「嫌だ……私は……絶対に……」
渾身の力で腕を上下に動かし、鋸で木を切る要領で骨を切断しようとする。神経が刻まれては再生し、激痛を通り越して脳が煮えそうになる。
「ここで負けちゃ……いけないのに……!」
だがそうまでしても、リリィの手足は動かなかった。
ようやく手にした、恩人の名を知る機会。いくら感謝しようと足りない恩に、ほんの少しでも報いられると思った。だが、結果はこの有様だ。結局何も出来はしなかった。一矢さえ報いることも出来なかった。人を殺すのが悪しきことだと、ほんの一時でも省みさせることすら出来なかった。
「私……は……!」
己の無力さに、涙が零れた時――。
「……ちょっと目え離したら、ハヤニエみたいになりやがって……」
聞き覚えのある、声が響いた。
不意に、リリィを繋ぎ止めていた刃が折れ、砕け、引き抜かれる。
「……え……」
突如現れた膨大な魔力を感じ取り、アスモデウスが悠然と振り返る。
「……おーおーおー、この魔力……ようやっと大物のお出ましかよ」
リリィは呆然と顔を上げた。見上げたその背中には、猛禽のような一対の翼が揺らめいていた。彼女は驚愕と共に、その名を呟く。
「……雷火さん……!」
“篠突く雷火”は電光を纏う斧槍を手に、リリィを庇うように構える。その刺すような眼光の先には、獣のような笑みを浮かべた、アスモデウスが立っていた。




