3-12
「能乃……!」
菜乃は愕然と妹の名を呼んだ。記憶にある幼い姿からは随分と成長している。街を出た時はまだ六歳だったが、それから十年が経っているとすれば、もう十六歳ということになる。菜乃と殆ど変わらない。
成長した妹の姿に場違いな喜びすら覚えそうになる菜乃だったが、『聖歌隊』の制服に身を包んだ能乃は、ナイフを構えた臨戦態勢のまま口を開く。
「……やっぱり、生きていたの。死んだと聞いて信じてはいなかったけど……。……でも、その姿。まるで十年前と変わらない……。悪魔に魂を売ったのね」
「……『聖歌隊』に入ったんだな、能乃……。……お父様とお母様は……どうしている……?」
「あなたにそれを聞く権利は無いッ!!」
身を屈め距離を詰める能乃。斬り上げるナイフの一閃を菜乃は身を反らして躱し、続く突きを剣の腹で受け止める。能乃は拳銃を抜き撃ち、弾丸が菜乃の胸を掠める。間髪入れずに繰り出されるナイフを必死で捌く。鼻先が触れそうな距離。剣の間合いではない。
「能乃……! 聞いて、私は……!」
能乃は言葉を待たず足払いを繰り出す。体勢を崩した菜乃が倒れるより速く、ナイフと共に飛び掛かる。
「黙ってッ!!」
「ッ……!!」
覆い被さるようにして、全体重を乗せた刃が突き出される。菜乃はそれを、掌で受け止めた。ナイフが深々と掌を貫通する。
「……!」
能乃はナイフを引き抜こうとするが、菜乃が能乃の掌ごとしっかりと掴み、手を離せない。
かつて菜乃は家族の危険を鑑みて、何も告げずに街を出た。自分が死んだと装って。彼らを傷付けることになると分かってはいたはずだが、いざ現実を目の当たりにすると、やはり身を裂かれるような思いだった。
「能乃……私がここに来たのは、お前の為でもあるんだ」
「離して! 聞きたくない、そんな話……!」
能乃は駄々をこねる子供のように首を振り、姉の腹を膝で思い切り蹴りつける。だが、菜乃はまるで何の反応も示さなかった。
能乃は目を見開く。急所を捉えた手応えは確かにあった。よろめいたり蹲ったり、どころか眉のひとつも動かさないのは、鍛えているなどといった話ではない。能乃は菜乃の掌を、そこから溢れる血液に目をやる。噴き出す血は赤色のようでいて、僅かに灰色に濁っていた。
「……その……身体…………?」
「…………」
能乃が怯んだ一瞬の隙を突き、菜乃はするりと体を入れ替え背後を取り、裸絞めで頸動脈を絞め上げる。
「……あ……っ!!」
「……すまない、能乃」
「…………!」
「…………愛している」
能乃は数秒抵抗したが、やがて意識を失い脱力した。菜乃は妹を抱き止め、ゆっくりと床に寝かせる。
「……まるで説得力が無いな……」
菜乃は自嘲気味に笑い、血まみれの掌を軽く拭う。既に聖堂内は静かになっていた。天使達は皆リゴル・モルティスの隊員達によって排除されるか、既に逃げ出していた。無論、ラジエルの姿も無い。
「……隊長!」
「ああ」
菜乃は通信機を取り出し、連絡担当の第三班に通話をかける。
「こちら第一班。ラジエルの暗殺には失敗したが、大聖堂の制圧には成功。これから爆破作業に入る」
「了解です、二班も既に任務を済ませて帰還準備に入っています。なるべく急いでください、結界が長くは保ちそうにありません! ミラが死にそうです……!」
「そうか、分かった。作業が済み次第速やかに撤収する」
菜乃は通話を切り、部下達に指示を出す。
「聞こえたか? 時間が無さそうだ。速やかに爆破準備に入ろう。五分後にはここを出るぞ」
「はいっ!」
急がねば体勢を整えた天使達も戻ってくるだろう。持ち込んだ強力な爆薬を抱えて大聖堂内に散らばっていく部下達。菜乃も聖堂の要ともいえる巨大な十字架と豪奢なステンドグラスの足元に爆薬を仕掛け、それから気絶した聖歌隊員達を聖堂から離れた物陰に避難させる。部下達が指示を済ませて帰ってくると、最後に意識の無い能乃を抱き上げた。
「よし、済んだな。急ごう」
菜乃と部下達は急ぎ大聖堂から走り出る。聖堂のある丘の上から見下ろした街は、あちこちから火の手が上がり、さながら戦場のようだった。
「…………」
生まれ育った街の惨状に顔を歪めそうになるのを堪え、菜乃は部下を先導し丘を下る。ようやく道がなだらかになってきたところで振り返ると、大聖堂がぽつんと小さく見えた。
「……頼む」
「了解です」
緊張の面持ちで、部下の一人が手元の端末を操作する。
「……行きます」
彼女が最後のキーを打つ。一瞬の静寂。そして、爆発音が鳴り響いた。
大聖堂から上がる膨大な土煙。さらに続いて幾度も爆発が巻き起こる。地響き。轟音。業火。
カルィベーリ、楽園の象徴である荘厳な建築が炎で焼かれ、吹き飛ばされ、そして支えを失い――崩れていく。五十年に渡り街の頂上に聳え立ってきた大聖堂が、ほんの数秒で瓦礫の山へと成り果てる。小さな破片が菜乃達の元までぱらぱらと飛んでくる。
街に刻を告げていた巨大な鐘が地面に叩き落とされ、街中に断末魔の音色を響き渡らせた。
その凄まじい光景に自身の過去までもが粉々に打ち砕かれたような思いがして、菜乃は息を呑んだ。
住民達は皆家の中に避難しているはずだが、それでもどよめきや悲鳴が聞こえてくる。街の象徴はそれほどまでに彼らの価値観に根付いていたのだ。
そして――間も無く、カルィベーリの上空、青い空に一筋の亀裂が走った。
リゴル・モルティスの目的。それはカルィベーリを覆う結界の破壊だった。カルィベーリを隔絶状態から解放し、ラジエルの支配と時間流の加速を無力化する。そうして街の人間達の前に、真実を露わにする。
それでも天使の支配を受け入れるのか、自分で生きるのか、それとも――戦う道を選ぶのか。どの選択肢を選ぶのかは、当人の選択に委ねる。それが彼女達の最初の目標だった。
第二班は術式管理棟を無力化し、結界を維持・管理する者を排除する。そして第一班は、建物そのものが巨大な術式の役割を果たしている大聖堂を物理的に破壊し、カルィベーリを覆う大結界本体を破壊する。
その目標は、こうして達成された。
青空が、引き裂かれるように割れた。魔力の迸りが稲妻のように天に走る。その向こうから現れたのは、カルィベーリの造られた青空でない、灰が舞い雲のかかる本物の空だった。
街中の空気が揺れ、風が吹き抜ける。隊員達は皆、食い入るようにその光景を見つめていた。
「……動くなっ!!」
その時不意に、背後から声。見ると『聖歌隊』の少女がたった一人、菜乃達に拳銃を向けていた。
「何者だ、お前達……! ……その子を離せっ!!」
少女は必死な顔で叫ぶ。菜乃はしばらく何のことかと考えて、隊員に指をさされてようやく自分が抱きかかえている能乃のことだと気が付いた。
「……君、この子の友達か?」
「……何……!? ……それがどうした!」
「そうか……」
銃を前にして微笑を浮かべ、菜乃は能乃をゆっくりと寝かせる。
「……この子に伝えておいてくれないか。いつか、必ず全てを話すと」
「お前、何を……。……!?」
不意に菜乃が小さな物体を地面に転がす。思考を奪う高音と、視界を焼き尽くす閃光が迸った。
「ぐ……ま……待て……この……っ!」
聖歌隊の少女の視界が回復する頃には、菜乃達の姿はもうどこにも無くなってしまっていた。意識の無い能乃の目元には、うっすらと涙が滲んでいた。




