0-3
紙に書かれた簡易な見取り図を広げ、薄暮は指を滑らせる。手元にあるのは一本の太いロープだ。
「いいか、お前はこのロープで外に出て、この塔のすぐ下にしばらく隠れてろ。茂みがある。俺が中から行って、外への見張りを潰す。松明を消して合図をするから、そうしたら……」
見取り図の隅、小さな建物を指し示す。そこは倉庫にも使われていない、完全な空き家だった。
「ここに走れ。転移術式が用意してある。起動準備は済んでるから、魔法陣の中に入ればそれだけでいい。念の為に転移先の座標は固定してないから、後は自分で何とかしてくれ。一応、悪魔のいない場所になるよう設定してある」
リリィは理解が追いつかない様子で頭を抱える。
「ま、待ってください……。いきなり言われても、何が何だか……。 ……悪魔さんは、悪魔さんはどうするんですか!?」
「見張りを消せばすぐに気付かれて騒ぎになるだろう。だが騒ぎが大きいほど、お前がいないことがバレるのは遅れるはずだ。せいぜい連中を引きつけて、大暴れしてやるさ」
「そういうことじゃありません!! あなたは……!!」
「バカ野郎、大丈夫だよ」
リリィの頭に手を置く。
「大騒ぎになったら、隙を見て逃げ出すさ。後から行くから余計な心配するな。お前の為に死んでやるなんてまっぴらだ。これは俺の為にやることで、お前はただそのついでってだけだ。変な勘違いして足を引っ張るなよ?」
「……本当ですか?」
リリィはじっと薄暮を見つめる。
「……ああ、本当だ」
二者の視線が交錯する。そのまましばし見つめ合い、やがてリリィがふっと息を吐いた。
「……分かりました。でも、無理はしないでくださいね?」
「当然だ。俺を誰だと思ってる?」
「知りませんよ。教えてくれないじゃないですか、名前」
むくれた顔をするリリィに、薄暮は虚を突かれた思いだった。
「……あれ、そういえばそうだったか?」
「そうですよ。私は最初に教えたのに……」
「……それじゃあ、次に会った時に教えよう。それでいいだろう?」
「……約束ですよ?」
「後学のために言っておくけどな、そう易々と悪魔と約束なんてするもんじゃないぞ」
「それでも、約束です」
「……ああ、分かったよ」
二人はそうして別れた。リリィは扉を出てすぐの通路からロープを伝って降り、薄暮は周囲に気取られぬように何食わぬ顔で見張りの元へと向かった。
既に辺りは宵闇に包まれ、新月の夜に星が一層明るく輝いていた。
◯
「よう」
薄暮は極めて平静を装って、見張りの悪魔に声を掛ける。見張りは二人。どちらも二、三度ほど世間話をしたことがある顔見知りだ。
「おう」
「どうした?」
然程の関心も払わない様子で、見張りは薄暮に目を向けた。薄暮もごく普通のゆったりとした足取りで近付く。
「前に発注した菓子が余ってな、良かったら食べないかと思ってな」
掲げて見せたのは、小さなバスケットだ。それを見て片方の悪魔が目の色を変えた。
「マジか!? やったぜ! ラッキー!」
「俺はいい、腹減ってないんだ」
もう片方の悪魔は関心を失ったようで、視線を外してまた警戒に戻る。
「中身は何だ!?」
「おいおい、そう急かすなよ。何だと思う? 見てのお楽しみだ」
薄暮は甘党の悪魔の至近距離まで歩み寄り、バスケットを開く。その中身は空だった。
悪魔が疑問符を浮かべるより前に、その首を魔力で編み上げた曲剣で斬り飛ばす。
声すら上げずに悪魔は絶命した。
物音に気付きこちらを向いたもう片方の見張りの顎を、肘からのスナップを効かせた拳の側面でかち上げる。
「ぶむっ……」
見張りは舌を噛んだのか、くぐもった声と共に仰け反る。その髪をひっ掴み、眼窩から斜め上に深々と剣を突き立てた。脳まで達する刺し方だ。見張りはすぐに脱力し、髪を放すと同時に崩れ落ちた。傷口からどろりと脳漿が溢れ出す。
訪れた静寂の中、薄暮は呼吸と鼓動を整える。
長らく戦いからは遠ざかっていたが、身体は自然に動いていた。胸の底から湧いてくる高揚感に、やはり自分はどこまで行ってもこちら側の存在なのだと思い知らされる気がした。
目の前に転がる二つの死体を見下ろす。いくら悪魔とはいえ、肉体を得て地上に顕現している以上、肉体の制限と物理法則には縛られざるを得ない。端的に言えば、悪魔も首を切り落としたり心臓をぶち抜けば死ぬのだ。
もっとも、高位の天使や悪魔は瞬時に再生したり、そもそも肉体が恐ろしく強靭だったりするものなのだが。
薄暮は気を取り直して近くの松明を消す。これでリリィは目的の空き家に向けて動き出すはずだ。この場所の見張りさえいなければ、空き家までのルート上でその姿を城塞から見られることはないはずだ。
見張りが消されたことはすぐに知られるだろう。数分もかからずに他の悪魔たちが押し寄せてくるはずだ。
さて、どこから来る。何分保たせられるか━━。
独りその身を窮地に置いて、しかし薄暮は不敵に笑った。
◯
灯りが消されたのを見て、リリィは身を潜めていた茂みから出て、辺りを窺った。人の気配は無い。すぐさま目的の空き家に向けて走り出す。
長年の収監生活が祟り、脚は思うように動かず、すぐに息が切れ、脇腹に鈍痛が生まれる。
しかし足を止めるわけにはいかなかった。既に背後が騒がしくなってきている。薄暮が今も、リリィのために時間を稼いでいるのだ。
本人は自分の為だと言っていたが、言い訳なのが丸分かりだった。本当に悪魔なのかと言いたくなるほど、薄暮は嘘がヘタだった。
だがそんな彼だからこそ、リリィも信じてその身を預けたのだ。
━━悪魔さん、約束ですからね━━。
リリィは振り返らず、一心不乱に走り続けた。
◯
「何やってんだ! 囲め囲め!!」
「ああ!? 今どうなってんだよ!? 敵何人!?」
「おいスゲェ死んでんじゃねーか! やべえだろコレ!!」
複数の怒号が響き渡り、城塞は混乱に包まれていた。薄暮はその混乱に乗じ、次々と悪魔たちを斬り伏せていく。既に十人近くは倒しただろうか。また一人、余所見をしていた悪魔の心臓を、背後から深々と刺し貫いた。
「おい! ガキの見張りじゃねえか!! これやったのあいつかよ!?」
「“果てなき薄暮”だ!! やべえぞ、頭数足りねえって! 誰か呼んでこい!」
「クソがッ!! ふざけんな、トチ狂いやがって!!」
槍を構えた悪魔の鋭い突きを曲剣でいなし、穂先を足で踏み付ける。背後から切り掛かってきた大剣の一撃を躱すと、そのまま大剣は槍使いの脳天をかち割った。こちらに背を向ける形となった大剣の悪魔に対し、その頭蓋を左右から両拳で挟むように殴り付ける。大剣使いの頭はコロッケサンドの様相を呈した。
薄暮の鬼気迫る戦いぶりに、周囲の悪魔たちは皆気圧されているようだった。息を切らし、全身あちこちから血を流しながら薄暮はせせら笑う。
「ああ!? どうしたよ、これで終わりか!? ガン首揃えて俺一人も殺せねえのかよ!? 全く使えねえ情けねえどうしようもねえカス共だなァ!! ビビりやがってそれでも悪魔かよ!? 相手してやるからまとめてかかって来いよ!!」
薄暮の挑発に、周囲の悪魔が一斉に躍り掛かった。心中でほくそ笑む。苛立ち任せの攻撃ほど読み易いものも無い。
振り下ろされた剣を曲剣の背で受け流し、鍔に鍔を引っ掛けてつんのめらせる。潜り込むようにその持ち主と位置を入れ替えると、彼は薄暮の代わりに滅多刺しになってくれた。
彼の犠牲に感謝しつつ、巨大化した拳で殴り掛かってくる悪魔に対し、紙一重でこれを避ける。同時に腕の表面を滑らせるように手首から肩まで斬り裂いた。だが思ったよりも浅い。筋骨隆々とした巨体の悪魔、このような乱戦では厄介な相手だ。思うように刃が通らず、一撃で仕留めきれない。
気を取られた隙に、背後から短剣で左腕を切り裂かれる。舌打ちと共に振り向きもせずに裏拳を放つと、小柄な悪魔の顔面にクリーンヒットして吹き飛んだ。
巨体の悪魔が薄暮を押し潰さんと、重ねた両拳を思い切り振り下ろす。飛び退いて間一髪躱すと、凄まじい轟音と振動と共に床の石材にヒビが入る。身を屈めた体勢になった巨体の両目を、横一文字に斬り裂いた。
「あああああッ!! 見えねえっ!! 何も見えねえっ!!」
半狂乱で暴れまわる巨体が腕を振り回し、周囲の悪魔が何人か吹き飛ばされる。薄暮はその場から距離を取って息を整える。
これならいける、まだ十分時間を稼げる━━。
そんな薄暮の思考を読んだかのように、飛び込んできた悪魔が声を張り上げた。
「おいっ!! まずいぞ!! ガキがいねえ! 逃げやがった!!」
舌打ちと共に腕を振り抜く。飛来したナイフが喉に突き刺さり、叫んだ悪魔はごぼごぼと血の泡を吹く。
どうやらもう時間の余裕は無いらしい。果たしてリリィはもう逃げられたのだろうか。
薄暮は再び曲剣を構え直した。
「……ガキなんかに構ってる暇あるのか? もっと俺と遊んでくれよ」
「ああ、是非とも遊んでもらいたいね」
聞き覚えのある声に総毛立つ。
振り向いた薄暮の背後に、笑みを湛えたアスモデウスが立っていた。
◯
「神を信じ、善行を為し、清く生きなさい。全能の神はいつもお前を見守っている。正しく生きれば、必ず救いがあるのだよ」
深く脳裏に刻まれた、幼きリリィに父が繰り返し言い聞かせた言葉。
あれから長い年月が過ぎた。父も母も、今生きているのかどうかさえ分からない。自分を悪魔に引き渡したのが、本人達の望みなのか、そうではないのか。その真相も今や届かぬ闇の中だ。
リリィに残されたのは言葉だ。言葉はそれを発する人間の意によって、如何様にも姿を変える。
幼き日のリリィに与えられたその言葉が、悪魔に捧げる我が子を黙らせる為の方便なのか。それとも、我が子のみならず自分にも言い聞かせるような、真摯な祈りだったのか。やはり答えは何処にも無い。きっと永遠に見つからない。
故にリリィは、あまりにも長く膨大な孤独の中で、ただ自分の信じたいものを信じようと決めたのだ。
◯
「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」
白い顔色を更に蒼白にして、リリィは目指した建物の入り口に手をついた。足は限界を越えてがくがくと震え、道中で嘔吐すらしていた。だが、ようやくこうして辿り着いた。
建物は城塞と同じような石造りだった。恐らく元は城塞の一部であり何らかの用途で使われていたのだろう。古びた木の扉を開くと、室内には薄暮の言った通り、半径二メートルほどの魔法陣が描かれていた。
リリィが背後を振り返ると、あれほど巨大だった城塞が小さく見えた。普段よりも煌々と明かりが灯っているように見える。リリィ、あるいは薄暮を捜しているのだろうか。だとすれば、ぐずぐずしている時間は無い。
だが、薄暮の姿はまだ見えない。薄暮は先に行けと言ったが、彼の説明通りに転移先がランダムだとするならば、一緒に転移したほうがいいのではないだろうか。
薄暮を待つべきか。しかしそうしている内に追っ手に捕まってしまえば、彼の努力を無駄にすることになる。
一体、どうすれば━━。
そこまで考えて、リリィは大きく息を吐いた。
本当は分かっているはず。認めたくないだけだ。
後から行く、次に会った時に名前を教える。そう言った時の薄暮の目は、リリィには見覚えのあるものだった。
それは彼女を石牢に置き去りにして、すぐ戻ると言った時の父の目だ。本心を隠した、嘘つきの目。━━ただし、薄暮のそれは父のものよりずっと優しかった。
薄暮は最初から、逃げる気など無い。リリィを逃がす為に犠牲になるつもりなのだ。
それを分かっていながら、目を背けていた。
薄暮と出会ってからのリリィの日々は、これまでの彼女の人生の中で、最も楽しく、充ち足りた日々だったから。
自分は行かなくてはならない。彼の努力を、犠牲を無駄にしない為に。
こんなに優しい人が本当に悪魔なのだろうか。そんな事を考えて、リリィはうっすらと笑った。
嘘が苦手な優しい悪魔。名前も知らない彼は、必ず来ると約束したのだ。ならば自分は、どうするべきか。
「……約束、信じてますからね。悪魔さん」
薄暮に貰った靴が石床を叩き、コツコツと音を鳴らす。
足を踏み入れると、魔法陣が燐光を放ち始める。術式が起動したのだ。
涙は流さない。彼は来ると言ったのだ。それを信じているなら、泣く必要など無いはずだ。
微笑を浮かべたリリィの姿が、石造りの小屋からかき消えた。
◯
肺に空いた大穴の所為で、上手く呼吸が出来ない。
薄暮は喀血し、崩れそうになる身体を剣で支えた。
そんな薄暮を、アスモデウスが見下ろしていた。周囲に他の悪魔はいない。皆、自分が殺した。
薄暮の身体には何本もの細い剣が突き刺さったままになっていた。アスモデウスの脇差だ。刀身にいくつもの返しが付いていて、容易には抜けないようになっている。
「残念だよ」
アスモデウスは感嘆と無念の入り混じった表情で周囲の屍山血河を見渡す。
「お前が万全で一対一なら、もっといい勝負が出来ただろうに」
薄暮は薄笑いを浮かべ、血混じりの咳と共に首を振った。
「買い被りすぎだ。もし万全だったとしても、俺じゃあんたには勝てなかったよ」
「……何だと……? ……それなら、どうしてこんな事をした? 勝てないと分かっていながら……まさかあのガキを逃がす為でもねえだろうに」
「いいや……その、まさかだよ」
アスモデウスは怪訝な表情をさらに深める。
「……ますます意味が分からん。そんな事をして、何の意味がある? お前に何か得があるのか? あのガキと契約でも結んでたわけでもないだろ?」
薄暮はくつくつと笑う。
「分かんねえか。分かんねえだろうな……。自分でも、何やってんだろうと思うぜ本当……」
薄暮の視界は霞みつつあった。とうとう身体を支えきれず、仰向けに転がる。自らの死が近い事は明白だったが、心は不思議なほど穏やかだった。嘲笑の幻聴が聞こえなくなったのは、いつからだっただろうか。
「何かを証明したかった、いや、地面に落ちたままのサイコロを振り直してみたかった……。……何て言ったらいいんだろうな」
「……お前の話はよく分からん。俺にも分かるように言ってくれ」
憮然とした顔で苦言を呈するアスモデウスに、薄暮は大きく息を吐いた。
「……そうだな、悪魔らしく言えば……あのガキを取り巻く何もかもがムカついたから、全部ぶっ壊したくなったのさ」
「なるほど、それならスゲー分かりやすいな!」
アスモデウスはようやく合点が行ったというように頷いた。
「……なあ、最後に一つだけ頼みがあるんだが」
「ん、何だ?」
「あと一歩、横にズレてくれないか?」
「……?」
アスモデウスは訝しげながらも、言われた通りにその場から退く。
倒れた薄暮の視線の先には、崩れた壁に空いた大穴があった。さらにその遥か向こうには、月の無い夜空に、無数の星々が煌々と輝いていた。
気付けば傷の痛みも流れ出る血も忘れ、星空に目を奪われていた。
「……ああ、なるほど」
薄れ行く意識の中で、薄暮はリリィと初めて出会った時のことを思い出していた。あの時、あの娘もこんな風に、我を忘れて星空を見ていたのだろう。
「……綺麗じゃないか」
そうして薄暮は、充ち足りた笑みを浮かべた。