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カルィベーリはおよそ十年前、屍者の発生と核戦争、人に仇なす悪魔の出現からなる世界規模の混乱――“大災厄”の際、悪魔と戦うべく天使達が築いた拠点である。
当初は単なる砦程度だったが、改築に改築を重ねてやがて城塞となり、そして五年前、七大天使の一人ともされるラジエルが地上に降りて指導者の地位に就いた際、城塞の内側に生存者の居住地を築くという大規模な改築を施し、現在の姿となった。いずれも建築にまつわる異能を持った天使達の力無しには成し得なかった大事業だ。
特筆すべきはその堅牢さであり、張り巡らされた三千層の各種魔術防壁と稀代の魔術師ミカ・シルヴェスタ・ヴェステライネンによる大結界は接近するどんな些細な異物も見逃さず、半径十キロ圏内は未確認の術式定義をも全て無効化してしまう。また世界最大級の魔力炉心による防衛術式は、どんな強大あるいは膨大な敵に対しても迅速かつ甚大な損害を与え、尚且つ外部からの物理・魔術的攻撃は一切受け付けない。当時南米の大部分を領地としていたとある強力な魔王と彼の数万を数える軍勢がカルィベーリを攻め、まるで損害を与えられぬままに壊滅したことは、世界中に大きな衝撃を与えることとなった。
まさしく難攻不落、絶対防御とうたわれるカルィベーリの存在は、天使と悪魔を巡る世界情勢にも大きな影響を与え、カルィベーリが現在の防衛体制を完成させた五年前から、天使と悪魔の間にはかつてのような大規模な戦争は一度たりとも起こっていない。これは白日連合の指導者となったラジエルが現状維持と戦力増強の方針を取ったことと、天使と人間をそっちのけに悪魔同士での勢力争いが激化したことにも起因していた。そうして激化する悪魔間の不毛な勢力争いは、結果的に有力な魔王達による『十二の比翼』同盟結成の呼び水ともなった。
ザドキエルと合流し、雷火達はカルィベーリ市街地の中央広場を訪れていた。
雷火と想兼、アルテミスは大改築が行われる少し前にカルィベーリを出たので、街を見るのは初めてのことだった。外縁の城塞部はかつてと同じく天使達ばかりだったが、反対に居住区に足を踏み入れればどこもかしこも人間ばかりで、天使はまばらに見かける程度だ。
市街地の多分に漏れず石畳で舗装された中央広場は活気に溢れ、行き交う人々や出店で賑わいを見せていた。
「すごい……すご……あっ! あれ何ですか!? あれは!? あれも! えっ!? 何あれ!?」
「はしゃぐな、恥ずかしい……」
「だって! だって雷火さん! すごいですよ! すごい! 見たことないものばっかり!」
大勢の人混みというものを殆ど初めて目にしたリリィは、市街地に足を踏み入れた時から少しも止まらず騒ぎ続けていた。反対に人混みが苦手な想兼は青い顔をして黙りこくっている。
「モイちゃん、大丈夫……?」
「…………」
アルテミスに背中をさすられ、想兼は弱々しく頷いた。ザドキエルはそんな彼女達の様子を見て愉快そうに笑みを浮かべていた。
「なあ、お前らいつもこんなんなの?」
「いやぁ……まあ……こんなんすね……」
「雷火さん! あれ! あれ何ですか! ほらあれ! あっ! すごい! 道に小石が落ちてる! 路傍の石ですよ! すごい!」
「はいうるさいうるさい! はい注目! 全員注目!」
雷火は手を叩いてリリィを黙らせようとしたが、まるで効果が無かったので口を手で引っ掴んで静かにさせた。
「もう一度確認するぞ。これからオレはザドさんと出掛ける。……で、モイは図書館で例の資料探しで良かったよな?」
「モイ!」
想兼は最早返事をするのも億劫なのか、不明瞭な言葉と共にピースサインをつくった。
そもそも雷火達がこうしてカルィベーリを訪れたのは、リリィの背に刻まれた魔法陣を解読すべく、魔術師ヴェステライネンの要求でこの街の大図書館にあるという資料を求めてのことだ。しかし当のリリィとアルテミスは、そんなことはまるで忘れているようだった。
「……それで、リリィとアルは……」
「リリィちゃんまずどこから行く〜? わたしあそこの極大ハンバーグがいいな〜」
「最初からは重くないですか? まずは甘味で少しずつ……などと甘えたことは言いませんよ行きましょう! ハンバーグは食べたことないですから!」
「そうこなくっちゃ〜!」
雷火は深々と溜息をつく。
「観光な……」
「……大丈夫でしょうか? 二人で」
想兼が心配そうな顔を見せると、ザドキエルが頷いた。
「いやぁ、大丈夫だろ? この街は現状、世界で一番安全な場所だよ」
「いや、そうではなくて……。……この中でIQ最下位と次点でコンビを組ませていいんでしょうか……?」
「……あー…………」
ザドキエルは口を開いたまま苦笑いをする。雷火も渋い顔を浮かべた。
「…………。……どっちが最下位かは意見が分かれるところだが……」
「ちょっとー、なんか失礼なこと言ってない〜? 大丈夫だって! 通信術式も持ってるし、はぐれたらまたこの広場に来るからさ!」
「そうですよ! 私達を何だと思ってるんですか!」
「二人のバカだろ」
「ンッ!」
「ぐぅッ……!」
リリィの手刀が突き刺さった脇腹を庇いながら、雷火は広場の中央、ひときわ目立つ時計台を指し示す。
「じゃあ、はぐれたらアレを目印にここに集合な。まずは通信で連絡しろよ、いいな?」
「は〜い」
「了解しました!」
「返事だけはいいんだよな……。……よし、解散!」
「それではまた後で」
「リリィちゃん! はやく行こう行こう!」
「勿論ですよ! 一箇所でも多く回りましょう!」
雷火の号令と共に、想兼は大図書館に向け、リリィとアルテミスは街中へとそれぞれ去っていく。雷火はザドキエルへと向き直った。
「どうも、お待たせしました」
「はは、お前さぁ……何だかんだいって面倒見よすぎだよな」
「んなことないっすよ……放っといたほうが面倒なだけです」
ザドキエルはくつくつと愉快そうに笑う。雷火は至極嫌そうな顔をした。
「誰の影響だ? 俺か?」
「いやそれは無いっすね。……それで、何かお話があるんでしたっけ? どこで話します? その辺に落ち着けるところでも……」
「ああ、そうそう。それなんだが……ぴったりな場所があるんだわ。見たらお前、絶対驚くぞ」
悪戯っぽい笑みを見せるザドキエルに、雷火は怪訝に眉をひそめた。
◯
和やかな賑わい。奏でられる弦楽器の音。そして漂うのは、強いアルコールの匂い。ザドキエルに連れられ、カルィベーリの一角にあるその店を訪れた雷火は、入り口で既に絶句し硬直していた。
「…………酒場…………!?」
「そう、酒場だ」
あんぐりと口を開ける雷火に、ザドキエルはその顔が見られて満足とばかりににんまりと笑んだ。
雷火が驚くのには理由があった。かつて雷火がカルィベーリにいた五年前までは、白日連合では酒に溺れるなど天使として失格だと、規則とまでは行かないながらも飲酒行為は暗黙のうちに禁じられていたのだ。当然、酒場などあろうはずもなかった。
「……どうしたんですか、これ……」
「二年くらい前だなー、まあ、アレがコレで、ちょちょいとな」
ザドキエルは目を逸らし、含みのある表情を見せる。彼は膨大な天使達を擁する白日連合でも二番目の権力者だ。少しばかりルールを曲げて店を作らせる程度は造作も無いだろう。
「うわー、職権乱用……」
「乱用はしてないぞ、乱用は。見ろよ、みんな楽しそうだろ!」
言われて雷火は店内を見回す。確かに店の客達は皆心から酒を楽しんでいるようだった。人間ばかりと思いきや、ちらほらと天使らしき姿も見える。
「まあ、とにかく座れよ。飲もう飲もう、久々にな」
ザドキエルに促され、雷火は席に着く。程なくしてジョッキに注がれたエールが運ばれてきた。
「懐かしいなー、覚えてるか? 二人でよく飲んだだろ、こんな堂々とじゃなくこっそり、それもクソ不味い密造酒だったけど」
「……ええ、覚えてますよ。いたいけだったオレにひたすら飲ませまくって酔い潰してくれましたね」
「いやしょうがねーだろー? 俺は飲んでも酔えねーから、人が酔ってるの見て気分に浸るしかできないんだからさあ」
「パワハラっすよ、まったく……」
雷火は愚痴を垂れるとエールをあおった。ザドキエルはそんな雷火を頬杖をついて見つめる。
「いやー、それにしてもお前、ホントにあれだよな、グレてひねくれて捻じ曲がっちまったよなあ……」
しみじみと言うザドキエルに、雷火はエールを噴きそうになって咳き込んだ。
「ほっといてくださいよ!」
「さっきもお前、来るなりアレだろ? おっさん参っちゃったよ。係員の奴怒り狂ってたぞ? なんとか宥めておいたけどさあ」
「アレはその……すいません……」
「だってお前、昔はさあ……ホント可愛かったのになあ……。すごい素直でさあ、こう、レトリバーの子犬みたいだったぞ?」
「あー! 昔の話はやめてください! マジでやめてください! 死にますよ!」
雷火は赤らめた顔を机に突っ伏して隠す。ザドキエルは面白そうに笑い、椅子に背を預けて天井を仰いだ。
「別に、今のお前がダメってわけじゃないさ」
ザドキエルの雰囲気が変わったのに気付き、雷火は顔を上げる。
「俺はさ、天使にももっと色んな奴がいていいと思ってる。こうして酒場を作ったのもそれが理由だ。酒を飲む天使や、不真面目な天使……。それに、お前さんみたいなひねくれ者もな」
「……その方が自分が過ごしやすくなるから、でしたっけ」
「あれぇ? 言ってたか! あっはははは! ……ま、そういうことだ。真面目な奴ばっかりじゃ息が詰まっちまうよ」
ザドキエルの笑顔を見ながら、雷火は酒を口に運んだ。雷火はこの上官のこういうところが嫌いでなかった。彼がこのような人間だったからこそ、かつての雷火は同胞であるはずの天使達から虐げられる悲惨な日々を乗り越えることができたのだ。
ひとしきり笑うとザドキエルはふっと息を吐き、真剣な面持ちで雷火を見つめた。
「……でもなあ雷火、分かってんだろ? 一度こうして戻ってきたからには、また気軽に出ていくわけにはいかないぞ」
「…………」
雷火は俯き、黙り込む。考えてはいたことだった。元々雷火達は半ば脱走のような形で連合から離れた身だ。これまで連れ戻されなかったのは単に運が良かったか黙殺されていただけで、一度こうして戻ってしまえば今度はそう簡単に抜け出すことはできないだろう。
「……どうするつもりだ?」
「……それは……」
言葉に詰まる雷火を、ザドキエルは鋭い眼差しで見つめる。答えに窮した雷火の頬に一筋の汗が流れた時――。
「……やっぱりな」
ザドキエルの表情が緩んだ。雷火は目を瞬かせる。
「なんも考えてねえんだろ? バッカだねーお前、昔っから後先考えなかったもんなー」
「…………」
否定しようとしたが返す言葉も無く、雷火は顔を赤くしてエールを飲んだ。
「つーわけで、だ」
ザドキエルは姿勢を正し、雷火を真っ直ぐ見つめた。何となくぎくりとして雷火も背筋を伸ばす。
「昨今の情勢不安を鑑み、私ザドキエルは各地に直接派兵しての諜報活動の有用性をかねてより訴えてきた」
「……え? な、なんすか?」
文脈を無視したザドキエルの言葉に、雷火は当惑する。
「そして今回、試験的に本来の指揮系統から独立し、自由に諜報活動を行う特別部隊の編成を決定した。……“篠突く雷火”!」
「え……は……はい!」
「貴殿を白日連合軍特別諜報部α分遣隊、隊長として任命する。光栄に思うように」
「……は?」
「返事ィ!」
「はいっ!」
「よーし」
ザドキエルは満足げに頷き、姿勢を緩める。雷火は何が何だか分からず硬直したままだ。
「え……なんです今の?」
「察し悪いなあ……建前だよ、建前。俺が許可出すからどこでも好きに行っていいってこったよ」
悪戯っぽく言うザドキエルに雷火は目を見開き、その表情をみるみる明るくさせる。
「……ザドさん! 職権乱用最高!」
「だろー? ほら、もっと飲め飲め」
ザドキエルが注ぐエールを、雷火は嬉しそうにごくごく飲み干す。そうしてから小首を捻った。
「……にしても……何でオレ達にここまでしてくれるんです?」
ザドキエルは眉をひそめる。
「えー……そういうこと聞くか、お前? 恥ずかしいヤツだな……」
「だっ……! だって気になったんですよ! オレなんて大した力も無い、木っ端もいいとこなのに……」
「……そうなあ……」
ザドキエルはジョッキいっぱいのエールを喉を鳴らして一気に飲み干す。天使としての格ゆえか、その顔色にはほんの少しの変化も無かった。
「……まあ、大体はさっき言った理由だよ。俺は天使にも色んな奴がいてほしいんだ。お前らみたいなのがどっかで元気にやってると思うと、俺も多少気が楽になるんだよ」
ザドキエルはふっと表情を緩めて言った。本心からの言葉であろう、雷火はそう感じた。
「なあ、雷火……。昔の話はやめてくれって……お前、さっきそう言ったよな」
「……ああ……言いましたけど……」
「……お前、もう泣いてないか?」
「ちょっともう、何を……」
茶化されているのかと思い笑いかけた雷火だったが、ザドキエルの目は真剣なものだった。
かつて雷火は天使達に毎日のように虐げられ、罵倒され、それでも正しくあろうとした。だが雷火には、とにかく力が足りなかった。理想を実現するだけの力が。ままならぬ現実と届かない理想に苛まれ、雷火はいつも独りで泣いてばかりいた。ザドキエルは、そのことを知っているのだ。
雷火は少し考えて、頷いた。
「……ええ。もう大丈夫です。心配いりません」
「…………」
「……生き方を変えたんですよ」
雷火は慎重に言葉を選ぶように、ぽつぽつと口を開く。
「昔のオレは、常に正しくあろうとしてました。でもそれは本当に難しいことで、そもそも本当に正しいのかどうかも曖昧で、結局散々傷だらけになりました。……それに多分、そういう生き方をすることで、誰かを傷付けもしたと思います」
ザドキエルは無言のまま、雷火を見つめる。
「……後悔しました。数え切れないくらい。後悔ってのは……すごく嫌なものです。取り返そうとしても取り返せない、だけど心にはずっと残り続ける、棘だらけの重荷です。……オレはもう、二度と後悔だけはしたくないと思います」
雷火は机上に置いた拳を、強く握り締めた。
「だからオレは、自分の心に従って判断して、選択します。何が正しいのかは分からなくても、自分の心に従った結果なら、たとえそれがどんな結果でも納得できますから。納得できれば、後悔は残りませんからね」
「…………」
ザドキエルは大きく息を吐き、微笑と共に頷いた。
「……それが聞けて満足だ。お前を呼んだ甲斐があったよ」
「……ザドさん……」
「よくもまあ言うようになったこと。あのお嬢ちゃんの影響か? リリィちゃんだったか?」
その言葉に雷火は机を叩いて立ち上がる。
「ちっ……がいますよ! 誰があんなバカに! 大体まだ会ったばっかりですよ!」
「えー、ホントかよ? だいたいあの子……くくっ……昔のお前にそっくりじゃん。ビビったぞマジで」
「えっ……オレあんなんでした……?」
ショックを受ける雷火をよそに、ザドキエルはまたエールを一気飲みした。やはり少しも顔色は変わらない。
「しかし、後悔、ね……。……そうだな……。……お前を呼んだ理由は、もう一つあるんだよ」
「……なんすか? まだ何か?」
ザドキエルはゆっくりと目を閉じる。
「……俺にはずっと後悔してることがある。……白日連合のこと。そして……」
雷火は息を呑む。
「……この街の秘密のことだ」
ザドキエルの声色はひどく冷たく、どこまでも重苦しいものだった。




