2.5-4
街全体に定められた門限と灯火管制とで、カルィベーリの夜はほとんど真っ暗闇になる。真夜中に外を出歩いているのを見つかれば、それだけで大きく住民査定に響きかねない。私は息を殺しながら、点々とした街灯の僅かな明かりのみを頼りに何とか自宅まで辿り着いた。
音を立てないように慎重に鍵を挿し、扉を開く。暗い室内の様子からとっくに寝入っていると思っていたが、私が玄関に入るとすぐに居間から母が飛んで来た。
「菜乃!」
「お……お母様……! 申し訳ありません、私……」
言を待たず私を抱き締める母に、思わず息を呑んだ。
「無事なの? 何ともないのね? よかった……!」
「あ……お……お母様……私は……」
「いいのよ菜乃、大丈夫だから……」
安堵した表情で私を抱く母を見て、胸が痛んだ。これまで門限を破ったことなど一度たりともなかった。叱責されるものだとばかり思っていたが、母は私を慮ってくれていた。ここ数日の様々な出来事で、きっと心配をかけてしまっていたのだろう。私は自分が思う以上に、愛情をもって育てられてきたのかもしれない。
「菜乃」
車椅子を押して、父も顔を出した。
「大丈夫なんだね? いや、よかった」
「お父様、申し訳ありません……私は……」
「いいんだよ、菜乃。色々あったからね。一人で悩むのも必要だ。……ただ、能乃が待ち疲れて眠ってしまってね。ベッドに運んでくれるかい?」
「はい、勿論……!」
菜乃は居間のソファで毛布を被り眠りこけていた。起こさぬように静かに抱きかかえ、子供部屋のベッドへと運ぶ。あらためて毛布をかけ直し、私は妹をじっと眺めた。いつもは穏やかであどけないその寝顔が不安げに見えた。こんな幼い妹にまで心配をかけるなど、姉として失格かもしれない。
妹の頭を撫でながら、私はつい先程の、クロとの会話を思い出す。
第一区画の片隅、大壁に空いた穴のすぐ近くで、私はクロの放った言葉に愕然と立ち尽くしていた。
「……どういうことだ……時間だと……? そんな……バカなことがあるか」
「今こうして自分で体験したじゃないか? 口ではそう言っても、本心では理解してるんだろう? 嘘やまやかしじゃない、本当のことだって」
クロは試すように、あるいは嘲るように言う。まんまと掌上で踊らされているようで癪だったが、想像もしていなかったことに私の心中は激しく掻き回され混乱し、冷静さを取り繕う余裕など無かった。
「……仮にそうだとして! ……何の目的があってそんなことをする? そんなことをして、誰が得をするというんだ?」
「そりゃあ当然、この街を創り、そして支配しているもの達だろうね」
つまらなそうなクロの言葉。その答えはひとつしかない。
「……天使様……か……?」
「そう。正解だよ」
「……どういう理屈だ。この街の時間を速めることで、何故天使様が得をする?」
「この街が出来た時、人間の住民はどのくらいいたと思う?」
唐突な質問に虚を突かれた。
「……な? 何?」
「現在の十分の一以下だ。ほんの四十年、外の時間にすれば四年ほどで十倍……。驚異的な数字だと思わないかい? 天使達の執拗な管理と教育の賜物だよ」
「……それとこれと、何の関係があるというんだ」
「言ってみれば簡単さ。人間の精神……もっと言えば信仰心は、天使にとって大きな糧となる。外で悪魔と戦うため、天使達は手っ取り早く人間を増やそうとした……その結果がこの街さ。外の時間からすれば凄まじいペースで人口を増やせる、画期的な発明。街の住民が増えれば、それだけ天使達の力も増す……」
脳裏にラジエル様やザドキエル様の姿が浮かんだ。下位の天使達はともかく、彼女ら上位の天使はカルィベーリを監督する立場であるにも関わらず、滅多に姿を見せない。単に忙しいのだろうと思っていたが、もしクロの話が本当だとすれば辻褄が合ってしまう。外部に根差す天使がこの街に長く留まって時間を浪費するのは、本末転倒だからだ。
「君は訊いたね。この街を鳥籠だと思うかと。私はそんなことは思わない。この街はそんな優しいものじゃない」
内部で時間を圧縮することで外部に対して最大限の効率を生み出す装置、それがこの街の本質だ。
「この街は、養鶏場だよ」
私は言葉を失い、立ち尽くした。身体の芯が冷え切っていって、臓物だけが煮え滾っているような感覚。足元はふらつき、ひどく喉が渇いていた。
どれだけそうしていたのか、私は何とか呼吸を整えて口を開く。
「……だとしても……」
熱い息を吐き、半ば睨み付けるようにクロに相対する。
「……だとしても、何の問題があるというんだ」
常に涼しげな表情だったクロが、ぴくりと眉を動かす。
「……何だって?」
「……たとえお前の言ってることが真実だとしても……今、カルィベーリの人々は幸福に暮らしている。それに、滅びかけた人類がその数を回復させたことは確かなはずだ。私には……それが悪だとは思えない」
「……それが、偽りと犠牲の上に成り立つものだとしても?」
「……犠牲だと?」
怪訝な顔をする私に対し、クロは脱力するように目を瞑り、帽子を脱ぐ。
「……三日後の午前十一時、今日の喫茶店で会おう。その時に私の知るすべてを明かすよ。話はそれからだ」
私は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……これ以上、一体何があるというんだ?」
「言葉では伝わらないことがね。……君の目で見て確かめることだ。それじゃあまた会おう、如月さん」
クロはそう言って踵を返した。私は呼び止めたが、彼女はすぐに夜闇に紛れてしまった。
妹の寝顔を眺め、私は大きく息を吐く。
確かにクロの明かしたこの街の秘密は事実であるのだろう。理由はどうあれ、天使達が人々に対し偽りを持っていたこともまた事実だ。それは見方によっては悪ともいえるものなのかもしれない。
だが――。
能乃の頭をそっと撫でる。私のたった一人の、大切な妹。この子を護れるのは、私しかいないのだ。
私はいつも肌身離さず持ち歩いている、古ぼけた聖書を開いた。室内は薄暗く、内容もほとんど暗記しているが、昔からこうすると心が落ち着くのだ。
私はこれまで命懸けで戦ってきた。それは何も自分の評価の為ではない。両親の為。妹の為。友人に、名も知らぬこの街の人々の為。私が戦うことで彼らの幸福を護ることができると思ったからこそ、悪魔や屍者との危険な戦いに身を投じることができたのだ。その決意は揺らぐことはない。
そもそも、クロの言葉は彼女の思想に根差して恣意的に捻じ曲げられたものだ。きっと天使達は人々を想うからこそ、真実を隠してきたのだ。現にカルィベーリの住人達は皆幸福な生活を謳歌している。ならばいたずらにそれを暴き立てるべきではない。
それがどんなものであろうと、真実の重荷を背負うのは私だけで十分だ。
小さな寝言を漏らす能乃に微笑して立ち上がり、私は静かに妹の部屋を出た。
◯
三日後の朝、私はクロとの約束の喫茶店に向かうべく家を出た。その日もカルィベーリの空はいつもと変わらない晴天だった。水路には透き通った水がゆるやかに流れて陽光にきらめき、鮮やかな薔薇が咲き乱れていた。
行き交う人々と街のざわめきの中をゆっくり歩いていると、石畳の舗道の先に見知った顔ぶれを見つけた。『聖歌隊』の隊員達だ。隊の中でも特に何かと私を慕ってくる少女達であり、先日もお茶会に誘われた。何となく今の私には会わせる顔が無いような気がして身を隠そうかと逡巡したが、それより前に向こうに見つかってしまった。
「菜乃さん!」
数人の少女達が走り寄ってくる。先日街中で出くわした少女もいる。内心関わらないでいてほしいところだったが、私はつとめて穏やかな微笑を浮かべた。
「奇遇ね、こんなところで。お揃いでどうしたの?」
「これから任務なんです、また悪魔が出たそうで」
「そうだったの……。くれぐれも気を付けてね」
「はい……。……あの、菜乃さん!」
一人の少女が意を決した顔で歩み出る。
「その……この前のこと……お悔やみ申し上げます」
「……ああ……」
私は曖昧に頷く。当然の事ながら、先日の惨事は既に『聖歌隊』中に広まっているのだろう。どんな顔をすればいいか分からず、ほんの少し俯いた。
「菜乃さん、どうか気に病まないでください!」
「そうです、如月隊長がどのような処遇を受けようと、私達は隊長の味方ですから!」
少女達に口々に激励の言葉を浴びせられ、私はどうしたらいいのやら分からなくなりたじろいでしまう。
「菜乃さん……私、貴女に憧れて『聖歌隊』に入ったんです! だからどうか、辞めたりしないでください!」
己の胸に手をやり、痛切な表情でそう言った少女に、他の少女達も次々と同じる。そんな彼女らを見て、ふと遠い記憶が蘇った。
幼い私は、『聖歌隊』の任から帰る姉を迎えるのが好きだった。命懸けの戦いから帰ったばかりの姉の顔はいつも張り詰め、強張っていたが、私を見るとすぐに華が咲いたように朗らかな笑顔を見せてくれたのだった。
そうだ。そんな姉に憧れたからこそ、私もまた『聖歌隊』に入ろうと思ったのだ。悪魔との戦いがいかに苛烈であろうとも、姉のように無辜の人々を護りたいと幼心に強く誓ったのだ。
何故こんなにも大切なことを忘れてしまっていたのだろうか。私はふっと表情を緩め、眼前の少女達に笑いかける。
「……ありがとう。大丈夫、私は隊をやめたりしないよ。例え平隊員になったとしても、私は悪魔と屍者達と戦うから」
「本当ですか!?」
わっと歓声が上がる。こうして隊員にちやほやされるのは日常茶飯事だったが、やはりいつになっても慣れなかった。姉や妹ならともかく、無愛想極まる私のどこがいいと言うのだろうか。
「……ほら、任務があるんでしょう? 私は大丈夫だから、もう行きなさい」
「あっ……そうでした!」
言われて思い出したのか、少女達は口々に私を励ましながらそそくさと去っていく。その背中を見送ってから、私も再び歩き出した。
◯
クロが約束の店に現れたのは、私が三杯目のお茶を飲み終えてシチューを食べ始めてからのことだった。
「や、如月さん。待った?」
「二時間ほどな……」
「あっ、それ美味しそう。頂戴?」
「誰がやるか」
「ええーいいじゃない如月さぁん恵んでおくれよぉ、僕と君の仲だろう?」
「笑わせるな」
本人の適当さに反してソプラノの猫撫で声が異様に蠱惑的で癪に触ったが、私はシチューを食べ進める。
「……今朝、隊から連絡が来た。私の処遇は明日通達されるそうだ」
「へえ、そうかい」
「お前と会うのもこれが最後かもしれないな」
「おや、寂しいのかい?」
「笑止」
クロはたっぷりの砂糖を入れた紅茶を啜って、口を開く。
「……ところで、覚悟は出来たかい?」
「何の覚悟だ」
「本当のことを知る覚悟さ」
私は箸を置き、クロを見据える。
「無論だ。もっとも、何を見せられようと私の意思はもう決まっている」
「へえ?」
「下される処遇やお前が見せるものが何であろうと、悪魔が無辜の人々を脅かす限り私は戦い続ける。この街が鳥籠だろうと、養鶏場だろうと、その偽りは意味と価値のある偽りのはずだ」
クロは何やら眩しそうに目を細め、私を見た。
「……君は本当に真っ直ぐな人だね」
「馬鹿にしてるのか?」
「まさか。……それは尊く、素晴らしいことだよ。本当さ。……だからこそ、心苦しい」
その言葉の意味を問う前にクロは立ち上がり、私に手を差し出した。
「さあ行こう。君を取り巻く、全ての疑問に答えるよ」




