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天魔屍侠譚  作者: スキャット
第0話「悪魔たちは星を見ない」
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0-2


「……星?」


「はい! 綺麗ですよ!」


 少女に促され、薄暮は窓の外を覗き込む。

 確かに夜空には数え切れない小さな星々が輝いていた。

 知識としては勿論知っていたが、地上に降り立ってからの約十年の中で、それを気に留めたことは一度たりとも無かった。

 こうして改めて眺めてみても、何の感慨も湧かない。言われてみれば確かに光っているな、という程度のものである。何故こんなものを寒空の下で喜んで見ているのか、まったく意味が分からなかった。


「あと一歩横にズレてみてください! そっちの方がよく見えますよ!」


 ニコニコと笑む少女に、薄暮は眉を顰めた。


「……どうでもいいが……寒くないのか」


「え? ……あっ!」


 少女はようやく気付いたとでもいうように、牢の隅にあった擦り切れた毛布を身に纏う。


「もう! 気付かなければ寒くなかったのに! あっ! 冷たい! 足が! すごい冷たい!」


「そうか……そりゃ悪かったな……」


 ぶるぶると震えて毛布を被りながらも、少女は窓を閉めることはしなかった。この星空の何がそんなに良いのかと、薄暮は理解に苦しんだ。


「悪魔さんは寒くないんですか?」


「……まあ、この程度ならな」


「へえー! すごいですね!」


「……それ……」


「え?」


「その、星を見るの……何がそんなに楽しいんだ? 俺にはさっぱりなんだが」


 少女はきょとんとした顔を浮かべた。


「だって、綺麗じゃないですか! それに、季節によって見える星も変わって面白いんですよ! 本当は名前も色々あるらしいんです。私は全然知りませんけど……」


 少女の言葉が引っかかり、薄暮はぴくりと眉を動かす。


「……『季節によって』……? ……お前、どのくらいここにいるんだ」


「え? えーと、そうですね……」


 指折り数えて、少女は少し考え込む。


「五つの時からですから……そろそろ十年になりますかね?」


「じゅっ……!?」


 何でもないように話す少女に、薄暮は面喰らった。目の前で朗らかに微笑む少女は身体的には痩せ細ってはいるものの、精神的には健康そのものに思えた。とてもではないが、こんな何もない狭い牢獄に物心付く頃から閉じ込められていたようには思えなかった。


「十年って……その間、ずっとか? 途中で出る事も無く? こんな何も無い牢で?」


「はい、そうですよ? 私としては、そろそろ出られるんじゃないかなーって思ってるんですけど」


「……どうしてだ?」


「特に理由は無いです。 何となく、です!」


 頭がくらくらしそうだった。人生の大半を出口の無い牢獄で過ごして、それでも尚根拠の無い希望を抱ける人間などいるのだろうか? 常軌を逸した頑強な精神の持ち主か、底抜けの莫迦か。いずれにしても、狂人の類いだろう。

 狂気に染められた者は、目を見ればすぐに分かる。薄暮は誰もが等しく精神をヤスリで擦り下ろされ続けるような戦場で、恐怖、憤怒、悲嘆、重責など様々な感情を背負いきれずに壊れてしまった者たちを、飽きる程見てきた。

 だが、少女の瞳は彼らと同じようには見えなかった。


 一体何なんだ、こいつは――。


 いつしか枯れ果てていたはずの薄暮の心に、動揺と共に何か別の感情が生まれようとしていた。

 薄暮は深く息を吐き、なんとか平静を取り戻そうとする。


「……お前、名前は?」


「私ですか? リリィって言います!」


「…………」


 薄暮は僅かに目を見開き、それから「そうか」と頷く。


「悪魔さんのお名前は? 何とおっしゃるんですか?」


「……俺のことはどうでもいいだろう」


「えーっ!? どうしてですか!? こんなにお話ししてくれる方は初めてだから、すごく嬉しいのに!」


 少女━━リリィは見るからに不満げな表情を見せる。


「……他の見張りたちは違ったのか?」


「はい。皆さんいつも食事を持ってきてくださっただけで、それ以外は……」


「……だろうな」


 悪魔などそんなものだろう。人間の子供と世間話などする筈がない。元々は薄暮もそうするつもりだったのだ。というより、自分は何故こうして話しているのだろうかと、ふと我に返って奇妙に思った。


「ですから本当に嬉しいんです! こんな素敵な出会いを与えてくださるなんて、神に感謝ですね!」


「神、ね……」


 無邪気に喜ぶ様子のリリィに対し、薄暮は嘲り混じりに苦笑した。

 或いはその信仰こそが、彼女が希望を捨てずにいられる理由なのだろうか。

 だとすれば、神とはなんと薄情なのだろう。

 敬虔な信徒たる少女を十年も閉じ込めて、未だ救いのひとつも差し伸べないとは。







「よう、ここ空いてるか?」


 食堂でもそもそと昼食をとる薄暮の対面に、アスモデウスが顔を見せる。形こそ問いだったが、薄暮の答えを待たずに着席し、マッシュポテトにしこたま調味料をかけている。


「どうだ調子は? 上手くやってるか?」


「……まあ、ぼちぼちだな」


「はは、そりゃ結構」


 アスモデウスは変色した大量のマッシュポテトを一口で頬張り、ハムスターのごとき相貌を見せた。

 薄暮がこの城塞に来てから、既に数週間が経とうとしていた。

 当初の予想通りの退屈な生活で、やる事といえば三食ごとに牢に出向いてリリィと話すか、近場を散策してぼんやりするかしか無かった。常人ならば死にたくなりそうな暇っぷりだったが、元より今の薄暮には他に何かをするような気力も無かった。


 数週間を共に過ごしたが、やはりリリィは奇妙な少女だった。窓から外を眺める以外に何もする事がない牢獄での生活にも関わらず、常に鬱陶しいほどに溌剌としており、食事を持って行く度にやれ今日は雲が面白い形をしている、やれ今日はそこの樹が風でしなって折れそうだなどと小さくてどうでもいい事を至極楽しそうに話したり、逆に外の世界の事や体験談をせがんだりと、あれこれ尽きる事なく話しかけた。いつからこの調子なのか、果たして十年前からこうだったのかは定かではない。

 また、リリィは取るに足らないほんの些細な事でも神へ感謝の祈りを捧げた。食前食後は勿論、薄暮との話が楽しかった時、気温が温かく過ごしやすかった時、さらには空が綺麗だというだけでも。恐らくこれまで一度もその信仰の見返りなど無かっただろうに、どうしてその信心を保ち続けられるのか、理解に苦しんだ。


「……あの子供……十年もここにいるらしいな」


「ああ、それくらいとは聞いてるが。多分城主以外ではここで一番の古株だろうな」


「……何? 他に古参の部下はいないのか?」


 アスモデウスは呆れ顔で薄暮にスプーンを向けた。


「お前、本当に何も知らないんだな! 俺以外の連中ともちゃんと喋ったほうがいいぜ? それとも何か? 人付き合い苦手なタチか? まあ得意そうには見えないが」


 図星だった。


「……余計なお世話だ……」


「今ここにいる連中はみんな他所からの寄せ集めさ。言わば傭兵に近いな。誰も彼も何かやらかして飛ばされてきた連中ばかり。お前もそうだろう?」


「……あんたも何かドジを踏んだのか?」


「ああ、敵陣のド真ん中に突っ込んでつい気持ち良くなりすぎて、捕虜にするはずの敵の参謀をざく切りにしちまってなあ……いやあ失敗したぜ! 干されるのなんのって!」


「そりゃまた……盛大にやらかしたな」


「ここの城主……多分魔王なんだろうが、奴は他と違って自分の眷属を持たない。もしかしたら居るのかもしれないが、少なくともここには居ない。それで他所から人材を集めてるわけだな。ただ、それで他の魔王共がこぞって部下を寄越すわけだから、相当の実力者なのは確かだろう。まあつまりは、他の魔王共にとってはここの城主に恩を売ると同時にヘマをした部下の一時的島流し先にも出来て一石二鳥ってことだろうな」


「実力者ね……あんたほどの悪魔から見てもか?」


「ああ、実際に会ったことは無いが、是非とも手合わせ願いたいね。本当言えばお前さんとも機会があれば一度やり合ってみたかったんだがな、こんな辺鄙なところで会うことになるとは残念だよ」


「……まあ、機会があればな……」


 薄暮は顔を引攣らせる。自身もそれなりの実力者であるとは自負していたが、アスモデウスと戦うなど冗談では無かった。アスモデウスは血気盛んな悪魔の中にあって尚武闘派として名高く、噂に聞く彼の武勇伝だけで一大英雄譚が編纂できるだろう。つまりはそれだけ多くの敵を殺した筋金入りの戦闘狂ということだ。三大欲求の全てを戦闘欲に置き換えたような連中と戦うような趣味は、薄暮には無かった。


「……しかし、そんなお偉いさんが、なんだってあんな人間のガキをずっと閉じ込めておくんだ?」


「さあねえ、言ったろ? 俺も知らんよ。まあ、ただの人間を何の意味も無く趣味で、ってのは考えにくいとすると……」


 本人から聞いたところによると、リリィには多少の怪我を治癒するような魔法の才能があるらしかった。魔力を自らの意思で扱える人間――魔法使い――は貴重だ。それが現状と関係しているとすれば、自ずと答えは絞られる。


「……魔術関連の生贄か何かか」


「ま、おおむねそんなところだろうよ」

 

 一度だけ、ローブを脱いだリリィの背中を見たことがあった。そこには複雑怪奇な文様で描かれた、大きな魔法陣が刻まれていた。本人は知らないらしいところを見ると、恐らくあれが何らかの形で関係しているのだろう。

 思わず黙り込む。リリィは五歳の頃からここにいると言った。殺されたにせよ他の理由にせよ、おおかた両親も既にないだろう。

 これまで十年。そして恐らくはこれからもずっと、彼女が牢から出ることは無いだろう。いつか、彼女が死ぬまでは。あの小さな牢で独り、窓の外を眺めながら少しずつ老いて朽ちていく少女の姿を思い描いた。それは何という、途方も無い虚無なのだろう。


 そこまで考えて我に返り、自嘲する。

 あの娘に同情でもしているとでもいうのだろうか? 悪魔であるこの自分が。何もかもを失って、未だ教訓が足りないのだろうか。

 あの時、痛みによって学んだはずだ。身の丈にそぐわぬ事は、すべきではないと。


 しかし――。


「ああ、そうそう。忘れるところだった」


 アスモデウスが胸元から一枚の紙切れを取り出して手渡してくる。


「……これは?」


「発注用紙だ。必要な物があればこいつで注文すれば、転移魔術でここに届く。この一番下の空欄は、用紙に無い欲しい物を好きに書いていいことになってる。まあ、勿論業者が調達できる物だけだがな」


「……欲しい物、ねえ……」


 薄暮は眉間にしわを寄せ、用紙の空欄をまじまじ見つめた。







 それから暫く経ったある朝、薄暮はいつものように牢を訪れた。

 扉を開くと、壁を背に座り込んでいたリリィがパッと顔を上げる。


「悪魔さん! おはようございます!」


「おう、飯だぞ」


「わあ! 今日のご飯は何ですか!?」


「潰した芋だ」


「わあ! いつも通りですね!」


 せっせと芋を口に運ぶリリィを前にして、薄暮は唸る。

 その様子に目敏く気付き、リリィは「どうかしましたか?」と首を傾げた。


「ん……いや、その……な……」


 薄暮はばつが悪そうに、あるいは照れ臭そうに、背後に隠していたものを恐る恐る差し出す。


「……これは……?」


 リリィが首を傾げる。それは一冊の本だった。押し付けるように手渡されて開いて見ると、そこには美しい天体の写真が頁一杯に広がっていた。

 先日駄目元で発注したものだ。まさか本当に届くとは、自分でも思っていなかった。


「悪魔さん! これ!! これなんですか!? これは! これ!! これなんですか!? くれるんですか!? 私に!? これを!?」


 興奮しきった様子で目を輝かせ、リリィは本と薄暮を交互に見る。


「ああ、お前にやる。いいか、勘違いするなよ? 毎回食事の度にお前に長話されると困るから、こうして……。……おい……、……おい! 聞けよ!」


 リリィは既に薄暮の言葉も耳に入らない様子で、夢中で本にかじり付いていた。それを見て薄暮は、溜息交じりの苦笑を浮かべた。

 こんな事を他の悪魔に知られたら、きっとまた嘲笑われるだろう。人間に同情でもしているのか、そんな行為に何の意味があるのか。またそんな幻聴が耳元で聞こえた。

 しかし、薄暮はそんな幻聴を、逆に嘲笑ってみせた。


 気まぐれで自分勝手なのも、悪魔の特権だろう。








「……悪魔さん! これ! これ何ですか!」


「ああ? 見れば分かるだろ、海だよ」


「海……! これが……!」


 リリィは陽光に煌めく青い海の写真をまじまじと見つめた。手にしている本は『フルカラー 世界の絶景百選 DVD付き』だ。薄暮が彼女に与えたものであり、これでもう二十冊目になる。これまでの本はどれも文字通り擦り切れるまで読み返されて、くたくたになっている。


「そういえば昔聞いた事ある気がします! 大きくてしょっぱくてヤドカリって生き物が住んでるそうですね!」


「微妙に偏った知識だな……。 ……昔って、お前がここに来る前か?」


「はい! 確か父に聞いたと思います!」


「……親父……」


 薄暮はぴくりと眉を動かした。


「……お前の両親は、どんな人間だったんだ?」


 その問いに、リリィは笑顔を見せた。


「父も母も、とっても素晴らしい人でしたよ! 毎日私にご飯をくれて、言葉や色々な事を教えてくれました!」


 それは人間の親としてはごく当たり前のことなのではないかと口に出そうになったが、止めた。少なくとも、そんな当たり前の責務さえ果たせなかった自分には、それを言う資格は無いと思ったからだ。


「お前のよく言う神様ってのも、その両親に教わったのか?」


「はい! 父も母もよく言ってました。神はいつでも私を見ていて、時には試練をお与えになるけれど、最後には必ず救ってくれると」


「……なるほど、な」


 薄々予想はしていたが、リリィにとっての神とは、聖書に描かれたものや教会で語られるものではないらしい。それは言わば絶体絶命の窮地に無宗教の人間でも思わず救いを求めてしまうような、漠然とした概念的な存在なのだろう。

 それはいかにも幼稚で陳腐だったが、それ故の一種の純粋さを帯びており、だからこそ彼女はこうしてその神を疑う事なく信じ続けていられるのかもしれないと思った。


「……その両親は、今はどうしてるんだ」


 言ってから、薄暮はほんの少しばかり後悔した。答えの分かっている問いだった。リリィがこうして悪魔に幽閉されているのなら、ほぼ確実に両親は彼女を捕らえる際に殺されているだろうと思っていた。しかし、返ってきた答えは予想に反するものだった。


「…………分かりません」


「……ん?」


「十年前に見たのが最後です。その日私は父と母に連れられて、ここに連れて来られたんです。小さな部屋に入れられて、少しの間だけ待っているように言われたのですが、それきり父も母も帰ってきていません」


「……何だと……?」


 薄暮はこれまで、ごく普通の家庭で育てられたリリィに悪魔が目を付け、攫ったものだとばかり思っていた。

 だがリリィの話が本当だとすれば、両親がリリィを悪魔のもとへ連れてきたという事になる。脅されていたとすればまだいいが、もう一つの可能性としては、考えたくもないことだが――。


「私は多分、ここで閉じ込められるために産み育てられたんだと思います」


 リリィは平然とそう言った。

 聞いて薄暮は息が詰まるような思いだった。実の娘を悪魔の生贄にするために育てるなど、それこそ悪魔の如き所業だ。人間のする事とは思えない。

 しかし衝撃だったのはそれ以上に、リリィがそんな自分の運命を受け入れているように見えることだった。諦観から成せる余裕かと疑ったが、彼女の表情はとてもそんな風には見えなかった。


「……どうしてだ……?」


 思わず、問いが溢れる。


「どうして、それが分かっていて、まだ自由を諦めずにいられるんだ……? お前はここに幽閉される、ただその為だけに生まれて、育てられた。それが自分でも分かっているなら、希望なんてどこにも無いはずだろう……?」


 気付けば、リリィの肩を掴んでいた。


「教えてくれ……自分の人生の意味を知って、どうしてまだ希望を持てる……? 希望なんて忘れて、その身の丈に沿って生きたほうが、ずっと楽だろう……? 」


 薄暮の声は震えていた。その言葉は少女への問い掛けのようでいて、自身に言い聞かせる言葉のようでもあった。

 リリィは肩口に置かれた手にそっと触れ、ゆっくりとかぶりを振った。


「それは、違います」


 その紅の瞳は、強い意志を秘めていた。


「確かに、生まれてきた意味は変えられません。あなたが悪魔として生まれたように、私は贄として生まれてきました。それはきっと自分が自我を持つより前、生まれる前から決められていたことで、子が親を選べないように、選択肢はありません」


 その通りだ。薄暮はこの世にひとつの個として成立した時から既に悪魔だった。選択の余地など何処にも無かった。

 リリィの眼を見て、薄暮はどこか既視感を覚えた。

 自分は確かに、この眼を何度も見たことがある。どこだ。一体、どこで――。


「……でも」


 穏やかに微笑むリリィを見て、息を呑んだ。

 そうだ。この眼は――。


「……生まれた意味は変えられなくても、生きる意味は自分で選べると思うんです。私の人生は私だけのものです。他の誰にも手出しは出来ません。たとえ何があろうとも、人に何を言われても、最後に選ぶのは自分自身なんですから」


 薄暮の脳裏に、遠い記憶が鮮明に蘇った。






「ねえ、名前を付けてあげて」


 それはよく晴れた日のことだった。

 戦うために生まれた悪魔であろうと、出産は人と同じく危険を伴う一大事だ。難産だったこともあり、その日薄暮は出産後はじめて自らの娘と対面していた。

 悪魔は成長が早い。既に目も開き、首も座った娘は、興味深そうにあたりをキョロキョロと見回していた。

 悪魔でありながら、眷属でもない自らの子をつくる。それはまさしく、人の真似事たる滑稽な行為だ。他の悪魔たちに嘲笑われても無理はない。薄暮自身も、産むことに然程乗り気ではなかったのだ。


「名前……、お、俺がか……!?」


「他に誰がいるの? お父さんでしょう?」


 普段穏やかな妻の有無を言わさぬ様子にたじろぐ。一体どうしたものかと視線を彷徨わせると、ふと窓際の花瓶が目に付いた。

 花を飾るようなまともな精神の持ち主が、悪魔の中にいたとは驚きだった。このところ篭りきりだった妻によるものでもないだろう。

 薄暮にはその一輪の白い花が、何かとても貴い、希望のように思えた。


「……決めたぞ」


 その名を告げると、妻は嬉しそうに微笑んだ。娘もつられて楽しそうに笑った。それを見て薄暮は初めて、妻に対するそれともまた違う、深い愛しさを覚えた。

 いつか娘にその名と同じ花を見せてやろうと、そう思ったのだった。

 それは彼にとって、掛け替えのない幸福な記憶だった。






 姿形も性格も、まるで似ても似つかない。

 けれどリリィの眼を見て、薄暮は何故か、妻と娘のことを思い出した。

 後悔は絶えない。犯した罪も消えない。

 自分は悪魔だ。他者を害し、滅びと災厄を振り撒くべく生まれた存在だ。

 だが、そんなことは関係無い。

 薄暮が抱いた家族への愛は、決して偽物などではない。その想いは、今も少しも色褪せてはいない。

 たとえ自分が悪魔だろうと、それは決して譲れない。

 そんな当たり前のことに、自分はようやく気付くことが出来た。


「……リリィ」


 初めて名を呼ばれて、リリィは目を瞬いた。


「……ありがとう」


「……え、え、何がです?」


「……何でもないさ」


 リリィは意味が分からないというように首を傾げる。薄暮は窓の外の空を眺め、心中で亡き妻に問い掛けた。


 やっぱりこんなのは間違ってると思うだろう、君も――?


 当然、返事は無い。だがそれでよかった。妻が何と答えるか、とっくに分かりきっていたからだ。


「……なあ、お前、普段身体は動かしてるか?」


「え? いえ、この狭い中では……」


「運動はちゃんとしておけよ。スクワットくらいはな」


「……すくわっと……?」


 また首を傾げるリリィに、薄暮はふっと表情を緩めた。







 数週間後。陽が落ち、夜の帳が下りかけた頃、薄暮はいつものようにリリィの牢に食事を運んできた。


「悪魔さん!」


 もう慣れきったことのはずだが、リリィはまたいつものように、薄暮を見て表情を輝かせた。


「夕飯は何ですか!?」


「潰した芋と焼いたニンジンだ」


「……わぁー……」


「……残すなよ、ニンジン」


「うっ……! ……だって……」


「好き嫌いするからそんなに貧相なんだ! ほら! ちゃんと食べなさい!」


「ウワーッ!! 嫌だーッ!!」


 リリィの口にニンジンを無理やり押し込んで一息つく。リリィはハムスターのように頰を膨らませ、涙目でニンジンを咀嚼している。


「……リリィ」


「……何ですか?」


「お前は今でも、外に出たいと思うか?」


「ええ、勿論です!」


 薄暮はリリィの笑顔をじっと見つめる。


「……十年前、この世界は終わった」


「……え?」


 リリィは突拍子も無い言葉に硬直する。


「人はある日を境に、自由に死ぬ権利を失った。血に飢えた屍者になって、生者を襲うようになった。世界は焼き尽くされて、荒野では今も天使と悪魔が殺し合ってる。その本に出てくるような、『当たり前』の世界は、もうどこにも無いんだ」


「え……な……何を言ってるんですか……?」


「……いずれ分かる。……お前が……」


 薄暮は目を伏せ、静かに問うた。


「……お前が思ってるほど、外の世界は良いものじゃないかもしれない。それどころか、この牢獄に篭ってたほうがマシなくらいの、地獄のようなところかもしれない。……そうだとしても、お前は外に出たいか?」


 リリィは真っ直ぐな眼差しで薄暮を見つめた。


「はい。例えそうだとしても、それは自分の目で見て確かめたいです」


「……そうか……。……そう言うと思ったよ」


 小さく微笑して、


「……食べるのはゆっくりでいいが、終わったらすぐに準備しろ」


「準備……? 何の準備ですか?」


「お前をここから逃す準備だ」


 そう言うと薄暮は、リリィに一揃いの革製の靴を手渡した。彼女は一瞬きょとんとして、それからニンジンを詰まらせて激しくむせた。





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