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天魔屍侠譚  作者: スキャット
第2.5話「揺り籠は虚飾に満ちて」
19/44

2.5-3


 数メートルほどもある暗い穴を潜り抜けると、開けた場所に出た。それまで味わったことのない空気の感触。見上げた空はどんよりと灰色に曇っていた。見慣れたカルィベーリの青空ではない。これが本物の空、街の外だというのだろうか。


「……ここは……?」


「カルィベーリの外は、天使達の要塞になってるんだよ。話くらいは聞いたことがあるだろう? ここはその隅っこさ」


「……ここが……」


「ところで、大丈夫かい?」


「何が……」


 言いかけて、口元を抑えた。視界が揺れるような猛烈な吐き気と倦怠感が急激に襲ってきて、私は蹲る。


「うっ……!? あっ……はっ……!」


「大丈夫かい?」


 クロに背中をさすられ、私は涙目で奴を睨む。腹の中のものを吐き出しそうになったが、なんとか寸前で堪えた。


「お前っ……何……何を……!」


「急激な環境の変化に身体が付いていけてないんだよ。僕は慣れてるけど……ちなみにそれ、帰りもなるから気を付けてね」


「こいつ……そういうことは先に言え……!」


「言ったよ? 言った言った。とにかく少し休もうか」


 大壁の外側に背中を預け、私とクロは並んで座った。辺りは荒涼としており、石造りの無骨で巨大な建物が幾つも見えるばかりで、整然と家々が建ち並ぶ壁の中とは似ても似つかない。壁一枚隔てただけだというのに、まるで世界の果てに来たかのような錯覚に襲われた。


「ここが……外なのか」


「そうだよ。もっとも、まだ要塞の中ではあるけどね。……おっと」


 不意にクロが私の口元を塞ぎ、物陰に引きずり込んだ。抗議しようとすると、指で「静かに」のジェスチャーを作って後方を指し示す。

 見ると、遠くに制服姿の人影が一人歩いているのが見えた。背には銃を負っており、おそらくは天使だろう。もし見つかれば大事だ。居住者がカルィベーリの外に出ることは固く禁じられている。


「あれは多分ただぶらついてるだけだね。大丈夫、この辺りは何も無いから巡回も来ないよ。ああいう暇を持て余した天使は別だけどね」


 天使が見えなくなるのを待ってから、私はクロに向き直った。


「……お前、どうしてそんな事を知っている?」


 クロは何も答えない。正体も目的も知れないこの女に、私は警戒と疑念を抱かずにはいられなかった。


「一度や二度、たまたま外に出ただけの口ぶりには思えない。……お前、何者だ?」


 緊張の糸が張り詰める。私はクロとの間合いを測り、いつでも攻撃に移れるよう神経を研ぎ澄ませたが、クロはまるで意に介さずににやりと笑んだ。


「いやだなあ、人間だよ、人間。……ただのね。それとも、僕が悪魔にでも見えるのかい?」


 じっとクロを見つめる。焦げ茶の髪、私よりほんの少し低い背丈に女性らしい体躯。異様に整った面貌ながら男性のような口調で話す姿はどうにも奇妙に思えたが、私がこれまで数え切れないほど屠ってきた悪魔達とは到底似ても似つかなかった。体表は黒くないし、角や尻尾も生えていなければ、翼も備えていない。確かに彼女は人間なのだろう。だからといって、信用できるわけでもないが。


「そんなに疑わなくてもいいじゃないか。いくら僕だって傷付いてしまうよ」


「ふざけるな。碌な説明もせずに信じられるわけがないだろう。疑われたくないのなら話せ。お前の目的は何だ? 何故私にこんな事をさせる?」


「そうだねえ……」ずっと薄笑いを浮かべていたクロの表情が、やや真剣味を帯びたものへと変わる。「それじゃあ少し、話をしようか」


 再び、私とクロは壁を背に座った。埃っぽい空気に、私は何度か咳き込んだ。クロは私をじっと見つめて口を開く。


「如月菜乃。君は、幸せかい?」


 唐突な問いに、私は眉をひそめた。


「……どういう意味だ」


「そのままの意味さ。君はこの街での暮らしが幸せかい? 人々の暮らしが満ち足りたものに見えるかい? 価値のあるものだと思えるかい?」


「……お前も、この街が鳥籠だとでも言いたいのか」


 『鳥籠』。それは、この街の体制に不満を持つ一部の人間達が使う蔑称だった。彼ら曰く、カルィベーリは天使が人間を支配する、自由なき檻に過ぎないのだと。住民は皆偽りの自由と幸福に溺れる無知蒙昧の徒なのだと。

 そんな考えを持つ者は、自らのエゴで大勢の幸福を脅かす危険分子だ。いずれ悪魔に取り入られ、『聖歌隊』に粛清されるのが関の山だ。

 この女もそういった輩なのかと思い私は顔をしかめたが、クロは掌を振って否定した。


「いいや、とんでもない。鳥籠だなんて思っていないよ。ただ聞いてみただけさ。ただ、君が今幸福だと言うのなら……今すぐ引き返したほうがいい。その方が君のためだ」


 クロの眼差しに私は言葉を詰まらせた。ほんの少し逡巡したが、結局私はかぶりを振った。


「……言っただろう。覚悟は出来ている。ここまで来て引き下がるなど出来るか」


「そうかい。それじゃあ……」クロはポケットから小さな箱を取り出す。中身はカードの束――トランプだった。「ゲームをしようか」


 私は息を呑んだ。


「……何かの、魔術か」


「え? いや、普通に暇潰しだけど?」


「は?」


「何がいい? 大富豪? ポーカー?」


「……おちょくってるのか?」


「いやだなあ、違うよ。少し時間を潰す必要があるってことだよ。その間退屈だろう? さ、君の手札だ。ババ抜きしよう」


「二人でか……?」


 何やら毒気も抜かれてしまい、私は溜息を吐いてカードを受け取った。







 それから一時間ほどが経ち、何のゲームを何度やっても惨敗を喫し続けた私が不機嫌になってきた頃、クロはおもむろに腰を上げた。


「さて、じゃあそろそろ行こうか」


「ようやくか……。どこに行くんだ?」


「帰るんだよ、中に」


「……は?」


 呆気にとられる私を尻目に、クロは元来た壁の穴へと歩いていく。


「おい、待て! 待て!」


「何だい?」


「何だい、じゃないだろう! まだ何もしていない! 覚悟は出来てると言っただろう、いいからさっさと……!」


「落ち着きなよ、如月さん」


 不意にずいと顔を寄せられ、私は一歩後ずさった。


「焦れったいのも分かるけど、今日はここまでだ。目的は果たしたからね」


「目的? だからまだ何も……」


「すぐに分かるさ。おいで」


 来た時と同じように壁に空いた穴に入っていくクロ。私も仕方なく、その後に続いた。


 違和感を覚えたのは、それからすぐだった。

 穴を進んでも、先が明るくならない。今来た後方を振り返れば光が見えるのに、前方には何も見えない。真っ暗だ。つい一時間前に来た時はこうではなかったはずだ。


「……おい、どうなってる? 出口が塞がれたんじゃないのか」


「うん? ……ああ、違うよ。大丈夫さ」


 すぐ前を進むクロは、何も気にしていない様子で四つん這いでどんどん前進していく。不安は拭えなかったが、私も前に進むしかなかった。

 それから少しして穴を抜けた私は、目を疑った。

 穴は塞がれてはいなかった。辺りは元来た時と同じくカルィベーリ第一区画の外れ、家々はまばらで人の気配も無い。何も変わってはいなかった。

 ――辺りが真っ暗になっていること以外は。


「……何だ……これは……」


 呆然と立ち尽くす私に、先程と同じく猛烈な吐き気が襲ってくる。嗚咽を漏らし喘ぎながらも、頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。

 つい数分前までは間違いなく昼間だったはずだ。壁を出る前にクロに時間を訊かれた際は、確か午後の三時だった。それから一時間と少ししか経っていないはず。腕時計を確認しても、文字盤は四時をいくらか過ぎたところだ。だが今、辺りは暗闇に包まれ、街の喧騒もまるで聞こえず静まり返っている。ほんの一時間で、昼だったはずの街が真夜中になっていた。

 私は血相を変えて振り向き、クロの肩を掴んだ。


「これはどういうことだ……! お前、何をした!」


「私は、何も。ただ少しの間だけ街の外に出て、戻ってきただけだよ」


 クロは平坦な声色で言う。暗闇で表情は見えない。確かに掴んだはずのその肩が予想外に華奢で小さく、まるで幽霊にでも触れているかのように思えて、私は思わずぞっとした。


「……今、この街は夜の一時ごろだね」


 言葉にされると改めて事の異常さがまざまざと感じられ、私はたじろいだ。


「……何故だ。一体何が起こっている……!?」


「君が体験した通りのことだよ。この街を出て外で一時間過ごしたら、街の中では十時間が経っていた。それ以上でも以下でもない」


 クロは突き付けるように言った。


「この街で四十年が経つ間、外の世界では四年しか経っていない。カルィベーリの時間は、外の十倍の速さで流れているんだよ」




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