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天魔屍侠譚  作者: スキャット
第2.5話「揺り籠は虚飾に満ちて」
17/44

2.5-1


 覚えているのは、薔薇の香り。

 その街には縦横に沢山の水路が張り巡らされていて、水路沿いには一年中、真っ赤な薔薇が咲き乱れていた。

 あれから月日は流れたけれど、薔薇の香りを嗅ぐ度に、私はその光景を郷愁と共に思い出す。


 覚えているのは、降り注ぐ賛美歌。

 大壁に囲まれたその街は中心に行くにつれ高くなる円錐状の地形をしており、その天辺に聳える荘厳な大聖堂は、街中のどこからでもその威容が目に入るようになっていた。

 大聖堂ではほとんど毎日のように聖歌隊による賛美歌の合唱が行われていた。神と天使を讃える歌。私の生家は聖堂に近かったため、いつも賛美歌が耳に入ったし、そもそも私も物心ついた頃から聖歌隊の一員だった。

 かつて私は熱心な信徒として評価を受け、同じ聖歌隊の面々からは称賛と尊敬を集めていた。

 今なお数多くの賛美歌が、歌詞も音階も頭の中に染み付いている。未だ鍵盤に置けば私の指は勝手に動くだろうし、喉は旋律を奏でるだろう。

 だが、私が賛美歌を口にすることはもうない。きっともう、二度と。


 覚えているのは、幼い私。

 あの頃の私はまだ何も知らなくて、与えられたすべてのものを、何の疑いもなく信じていた。

 私は幸福で、無垢で、そしてこの上なく――愚かだった。







 土曜日の集会が終わり、聖歌隊服(ゴスペルガウン)の少女達が聖堂から一斉に退出していく。私も帰り支度をしていると、背後から声を掛けられた。


「如月さん」


 振り返ると、穏やかな笑みを浮かべたシスター・アビゲイルが立っていた。


「如月さん、今日の歌唱と朗読も素晴らしかったですよ。皆への指導も行き届いていましたし、ラジエル様も貴女には期待を寄せていらっしゃいます」


 シスター・アビゲイルは私が生まれるよりも前からこの大聖堂を取り仕切っている人物だ。温和で朗らかな彼女の人柄は誰からも愛され、私も彼女が好きだった。既に五十代後半だった為、あと数年で報労特区に移住して会えなくなってしまうと思うと寂しくなるなと思っていた。

 私は深々とお辞儀をする。


「はい、恐縮です。皆様のご期待に応えられるよう、これからも精一杯精進する所存です」


「あらあら、いつも言っているでしょう? そんなにかしこまる必要などありませんよ? 貴女はまだ子供ですし、偉大なのは神と天使の皆様で、私ではないのですから」


「いえ、しかしそんな……」


 十六の私には子供扱いされたくないという一丁前の反抗心があり、一度は反論しようとしたものの、シスターの大きな掌で頭に触れられると何だかそれも悪いような気がして黙り込んでしまった。

 シスターが立ち去ってから、私は帰り支度を再開した。荷物をまとめて急いで帰ろうとすると、また誰かに呼び止められた。


「あ、あのっ、菜乃(なの)さん……」


 僅かばかりの苛立ちを押し殺して振り向くと、そこにいたのは数人の少女達だった。いずれも私と同じ『聖歌隊』の隊員で、隊服を着込み、何やらもごもごと恥ずかしそうにしている。


「何かな?」


 聖書を鞄にしまいつつ、努めて穏やかに尋ねる。先頭に立つ少女は、顔を赤くして意を決したように口を開いた。


「あの、そのっ、今日、これからお時間は空いていらっしゃいますか? もしよろしければ、その……私達とお茶会を、と……」


 数人の少女達は全員が期待と不安の入り混じった目を私に向ける。内心でまたか、とうんざりしつつ、私は笑顔をつくってみせる。


「すまない、今日は少し用事があるんだ」


 少女達は明らかに落胆した顔を見せたが、私が「だが、誘ってくれてとても嬉しい。今度の土曜日なら大丈夫だから、その日でいいだろうか」と続けると、途端に表情を輝かせた。

 上気した顔の少女達を横目に、私は荷物を持ってそそくさと出口へ向かう。


「それじゃあ、これで。お茶会、楽しみにしているわ」


「あっ、菜乃さん? そんなに急ぎの御用なんですか?」


 その問いに私は足を止め、作り物でない笑みを浮かべた。


「ああ。今日は妹の誕生日なんだ」







 家に帰ると、幼い妹が私を迎えに駆け寄ってきた。


「お姉様!」


能乃(のの)、ただいま。いい子にしていた?」


「うん! いい子だよ!」


 妹の能乃は私と違って明るくてやんちゃな性格で、まだ六歳だった。人には姉馬鹿と笑われるだろうが、まさに目に入れても痛くないほどに私は彼女を溺愛していた。


「お帰りなさい、菜乃。もう準備できてますよ」


 エプロン姿の母が顔を出す。


「はい、お母様。今いきます」


 身支度を済ませて席に着くと、普段は質素な食卓に豪華な料理が並べられていた。能乃が目を輝かせる。食卓には車椅子姿の父も既に着いていた。


「お帰り、菜乃。集会はどうだった?」


「いつも通りです、問題ありません。お父様」


「そうか、それはよかった」


 父は穏やかに頷く。間も無く母も席に着き、ささやかな誕生日会が始まった。小さなケーキに立てられた蝋燭を懸命に吹き消す妹と、それを笑顔で見守る両親。絵に描いたような幸福な一時だった。その光景につい忘れるべきことを思い出してしまい、ちくりと胸が痛んだ。


 私にはかつて、姉がいた。とても美しくて、優しい姉だった。今はもういない。死んだのだ。そのことを両親は話題にも出さないし、幼かった妹は知る由も無い。私も早く忘れてしまうべきなのだろうに、こうして幸福を感じる度にどうしても姉の顔が頭をよぎり、素直に享受できないでいた。

 そんな小さな棘を抱えながらも、それでも私は確かに幸福だった。優しい両親と、可愛い妹。『聖歌隊』としての日々。何もかも充ち足りて、世界は美しかった。少なくとも、この日までは。


 食事が終わり、居間で妹と話していると、玄関がノックされた。出て行って扉を開けると、その向こうにいたのは聖歌隊服の少女だった。よく見知った顔。『聖歌隊』でも特に私と親しい隊員、ジーナだった。褐色の肌に黒髪。丸っこい顔に申し訳なさげな表情を浮かべている。


「菜乃さん、すいません。お休みのところ」


「『聖歌隊』だもの。当然の義務よ。……それで、その様子だとやっぱり……」


「ええ」


 ジーナは頷き、険しい表情を見せる。


「悪魔が確認されたそうです」







 『聖歌隊』は、十八歳で結婚する以前の幼い少女達で構成されていた。隊員は三百名前後。厳しい審査を通過した者だけが隊員の資格を手にすることができ、『聖歌隊』となることは神と天使に直接奉仕できるこの上ない名誉とされていた。

 日常的には神に祈りを捧げ聖書を朗読したり、賛美歌を奏でたり、人々を啓蒙する活動が主だが、それだけが『聖歌隊』の仕事ではない。


「前回はいつでしたっけ? 確か……」


「二十一日前。随分と早いな」


「最近、かなり頻繁ですよね。何か悪いことの前触れじゃなければいいけど……」


 大聖堂への坂道を上りながら、ジーナは不安げに胸元を掴んだ。気弱で内向的な彼女がよく見せる仕草だった。


 『聖歌隊』の最も重要な任務。それは、悪魔と屍者を駆除し、この街――カルィベーリの平和と治安を守ることだ。

 カルィベーリ。人類に残された最後の理想郷。聖書によれば四十年前(・・・・)、人類は未曾有の災禍に襲われ、その大半が死滅したという。地上は汚染され尽くし、とても人が住める環境ではなくなったそうだ。今や天使が造り上げたこの街だけが、人類が生存可能な唯一の領域なのだと。天使達の庇護によって、人類はなんとか今日まで滅びずに済んでいる。

 だが、そんな平穏を乱そうとする者達がいる。それが悪魔と屍者だ。

 悪魔とは知らず知らずの内に人間の内に紛れ込み、人を堕落させ、天使を害し、街に混沌をもたらそうとする邪悪な異形達のことだ。

 屍者はそんな悪魔達に唆され、堕落した人間の成れの果てだ。神と天使への信仰を失った人間は、死ぬと屍者へと変貌し、見境なく周囲の人間を襲い始めるのだ。

 彼らを速やかに駆除し、街の安寧を守ること。それが『聖歌隊』に与えられた使命だった。

 私もこれまで、隊員として数え切れない程の敵を屠ってきた。入隊から六年を数え、その手際は隊でも随一のものだと自負している。だが、屍者を手にかけるたび、どうしても脳裏をよぎることがあった。


 私の姉は、屍者として死んだ。

 聖歌隊員であった姉は任務中の事故で命を落とし、その場で屍者として蘇って居合わせた二人の隊員を喰い殺したと噂で聞いている。私がまだ幼い頃の事件であったが、それから十年近くが経った今でも尚、私にはどうしても信じられなかった。気丈で優しく、誰よりも篤く神と天使に尽くしていた姉が、なぜ屍者になどなったのだろうか。

 屍者の理性のない瞳を、剥き出しの歯牙を見る度に思う。あの美しかった姉も、こんな風に獣のような怪物として死んでいったのだろうかと。

 屍者の細かく分解された四肢が、処理班に淡々と片付けられていくのを見る度に思う。私の姉を駆除したのも、私と同じ『聖歌隊』の少女達なのだろうかと。







 数時間前に後にしたばかりの大聖堂を再び訪れると、シスター・アビゲイルが私とジーナを出迎えてくれた。


「二人とも、帰ったばかりで御免なさいね」


「いえ、『聖歌隊』として当然のことです」


「もう他の班員は到着しています。天使様方も、部屋でお待ちですよ」


 聖堂に入ると、通路で待っていた三人の少女達が一様に姿勢を正した。


「隊長、お疲れ様です!」


「お待ちしてました」


「待たせて悪かったわ、行きましょう」


 『聖歌隊』隊員五人一組で編成される、悪魔狩りの実働部隊。私はその第一小隊の隊長を務めていた。

 明確に実力や序列でナンバリングされているものではないとはいえ、やはり第一小隊というものは特別な意味を帯びていた。その隊長といえば尚更であり、数百人の隊員の先頭という立場は得られる名声と権限も大きかったが、同時に責任も重大で、危険な任務にも真っ先に赴く激務でもあった。現に私の先代と先々代の隊長は任務中に死亡し、さらにその前の隊長は重責に耐えかねてか突如失踪したと聞いていた。


 聖堂の最奥部に位置する謁見室に赴くと、部屋の前に一人の男が立っていた。ひょろ長い体躯、ぼさぼさの髪に無精髭、精気の感じられない瞳と表情。男は私達に気付くと、咥えていた煙草を床で揉み消して怠惰な笑みを浮かべた。


「よう、お疲れさん」


「……ザドキエル様」


「あ、いいからいいからそういうの。ラクにしてくれ」


 頭を下げようとする我々を、ザドキエル様が先んじて制した。一見くたびれた壮年にしか見えないが、彼はカルィベーリで二番目の地位にある高位の天使だった。


「大将なら中にいるぞ。俺は気にしないでいいからとっとと行きな」


「はい、失礼します」


 ノックをして謁見室の扉を開く。中には一人の少女が立っていた。床に着きそうな黄金の髪と、同じく金の瞳。十にも満たないような幼い姿ながら、それに似つかぬ覇気とでも呼ぶべきものを全身に漲らせていた。


「来ましたね」


「第一小隊、只今到着いたしました。……ラジエル様」


 我々は跪き、こうべを垂れる。金髪の少女はゆっくりと歩き、軽く跳ねて大きな椅子に座った。

 ラジエル。カルィベーリの最高指導者にして、この地上で最も強力な天使の一人だ。


「おもてを上げなさい」


 窓から射し込む光がラジエル様の豊かな金髪を照らし、美しく輝かせる。これも計算された演出なのだろうか、などとぼんやりと思った。


「既に話は聞いていますね? 我がカルィベーリの調和を崩さんとする者、邪悪の権化たる悪魔が暗躍し、密かに人心を乱そうとしています。断固として許すべきことではありません。皆さんには誇り高き『聖歌隊』として、この憎むべき悪魔の殲滅に当たっていただきます」


「はい。如月菜乃、以下隊員四名、一同粉骨砕身の覚悟をもってカルィベーリ、そして神と天使様方の為に全力で当たらせていただきます」


 私の口からはすらすらと美辞麗句が並び立てられる。半分は本心だが、ようは決まり切った定例の儀式だ。


「期待しています。では、祝福を授けましょう」


 ラジエル様は椅子から飛び降りると、跪く隊員の一人に歩み寄り、その頭にそっと触れた。するとラジエル様の掌から、ぼんやりとした橙の光が放たれ始める。


 その危険な任ゆえに、『聖歌隊』に属する少女達は皆、神と天使の敬虔な信徒であると同時に卓越した魔術師、そして兵士でもある。日々厳しい鍛錬を積み、さらに任務の前には毎回必ずこうしてラジエル様から直々に守護の祝福を授けられる。

 隊員達の分が済むと、最後に私にもラジエル様の手が伸びてきた。目を瞑り、瞼越しに暖かな光を感じると、多幸感と充足感が湧いてきて、身体に活力が漲ってくる。邪悪を祓い清浄な力を与える、それがラジエル様の施す祝福だった。


「……ありがとうございます、ラジエル様」


「祝福は済みました。お行きなさい、神と天使の代行として、邪なる悪魔に誅を下すのです」


 一糸乱れぬ動作で立ち上がり敬礼する我々に、ラジエル様は小さな腕を振って命を下した。








 生まれてからずっとこの街で暮らしてきた私だが、それでも尚やはりこの街は美しいと思う。手入れの行き届いた街並み、信仰を持って穏やかに暮らす人々、そしてそれを見守る天使達。だからこそ、守らなくてはならないのだ。調和を乱す、悪しき悪魔と屍者の手から。


 悪魔達が潜むとされたのは、第二地区の住宅街にある、白い壁に二階建ての一見ごく普通の一軒家だった。もっとも悪魔は民衆の内に紛れ込むものであるため、大抵の場合はこうした民家に潜伏しているのが常だった。

 我々第一分隊は少し離れた物陰からその一軒家の様子を伺っていた。既に人払いは済んでおり、近辺は静まり返っていた。ジーナの持つ“写し砂”が激しく動き、細やかな砂が家の内部構造を精巧なミニチュアのように形作る。その中ではこれも砂で出来た人型が数体、それぞれ小さく動いていた。


「一階に二体、二階に三体ですね」


「大きさがバラバラだな。一階に大きい物と小さい物が一体ずつ、二階には大が一体、小が二体」


「隊長、どうします?」


 ジーナの問いに、私はしばらく黙して考え込む。


「……この住宅街の只中、最も忌避すべきは悪魔を取り逃がすことと周囲の住人に被害を出すことだ。戦力の分散は避けたいが止むを得ない。一階と二階に分かれて同時に制圧しよう」


 隊員達が頷いた。私は砂のミニチュアを指しながら指示を出す。


「私とジーナが一階、それ以外は二階を当たってくれ。制圧完了次第、速やかに互いの階の状況確認と応援に向かうこと。以上だ、何か確認はあるか」


 全員の同意を確認し、腰を上げる。


「では、これより作戦行動に移る。全員、油断するなよ」


「はいっ」


 隊員達が小声で応え、我々は件の民家へと向かった。







 軽やかな身のこなしで音も無く出窓に脚を掛け、隊員達が二階への突入準備を整えていく。私も銃とナイフの最終点検を行い、砂のミニチュアで内部の間取りを頭に叩き込み、戦闘に備える。二階組がジェスチャーで準備完了を告げる。傍らのジーナが“写し砂”を解除して頷くのを確認し、私はハンドサインで突入決行を示した。

 素早く玄関を開け放ち、屋内に駆け込む。リビングの戸を蹴り開けると、先程砂で探知した通りソファに一体の悪魔が腰掛けていた。全身漆黒の身体、蝙蝠のような翼と細長い尾、禍々しい二本角に爛々と輝く瞳。これまで幾度となく見てきた悪魔そのものだ。

 突如現れた我々に、悪魔はひどく掠れた甲高い声を上げる。神経を逆撫でするような耳障りな音だ。即座に拳銃を抜き放ち、額と胸に銃弾を叩き込む。その二発で悪魔は沈黙したが、さらに三発を頭部に撃ち込む。用心しすぎるということはない。


「お見事です」


 言うや否や、ジーナが銃を連射する。悲鳴と銃声に気付いてか、もう一体の悪魔がリビングのドアを開けようとしていた。ジーナはマガジン一つを丸々撃ち尽くし、悪魔は穴だらけになって倒れた。


「撃ちすぎだ、無駄弾を使うな」


「あは、すいません、びっくりして……」


 ジーナはほっとしたように苦笑する。それ以上責める気にもならず、私は廊下に出た。


「エマ! 状況は!」


 二階に行った隊員の名を呼ぶ。返事は無い。何をしているというのだろうか。一刻も早く処理しなければ、一度倒した悪魔も屍者として蘇ってくるというのに。


「……サウカル! アニータ!」


 私が階段に足をかけようとした時、返答の代わりに悲鳴と破砕音が聞こえてきた。







「ジーナ! 上だ!!」


 血相を変えて階段を駆け上った私が見たものは、血を流し床に伏す小さな悪魔の死体が二つ、掠れた声で吠える大きな悪魔、そしてひしゃげた聖歌隊服の死体だった。


「…………!!」


 息を呑んだ私に気付き、悪魔が叫び声を上げる。反射的に物陰に飛び込んだ直後、不可視の衝撃波が巻き起こり、私のいた位置の壁や床がめきめきと音を立てて剥がれた。

 魔法だ。これまで魔法を使う悪魔に出会ったのは僅か二度しかない。いずれもまだ私が平隊員だった頃の事で、多くの負傷者を出した。だが今回は死者まで出る事態となってしまった。それも、私が隊長である部隊で。


「隊長! どうしたんですか!」


「来るな!!」


 下階のジーナに叫ぶ。悪魔が動く気配を察知して、腕だけ出して発砲し牽制する。また衝撃波が放たれ、私の隠れている壁がみしみしと嫌な音を立てた。

 即座に判断する。相手は一体。魔法は強風、もしくは衝撃波のようなエネルギーを放つタイプ。人体に当たれば甚大な被害をもたらすが、建造物を粉砕するほどの威力は無い。短時間での連発は不可能。銃撃を防御するのも恐らく不可能。

 懐から一つの丸っこい物体を取り出し、悪魔の方へと投擲し、即座に伏せる。手榴弾だ。飛散する破片で周囲を攻撃する、対人用のもの。

 悪魔は驚愕の声を上げ、私のいる方へと飛び出してきた。即座に足払いを放ち体勢を崩す。床に倒れた悪魔に対し間髪入れずに銃撃を叩き込もうとしたが、躱される。悪魔は横跳びに転がり、銃を構えた私に対してその腕を向けた。超至近距離。空気が陽炎のように揺らめく。血の気が引いた。まずい、衝撃波が――。

 銃声と共に、私に向けられた眼前の腕から血が噴き出した。悪魔が呻く。見ると、階段を上ってきたジーナが銃を構えていた。


「伏せろッ!!」


 私はそう叫んだが、遅かった。悪魔のもう片方の腕から衝撃波が放たれ、ジーナに直撃する。逆巻く空気に皮膚が剥がれ、肉が裂け、骨が砕ける鈍い音が聞こえた。黒髪は乱れ、目鼻から血が噴き出す。

 私はすぐさま悪魔に銃を連射する。一発、二発、三発、弾丸は全て頭部に吸い込まれる。悪魔が鮮血を撒き散らして絶命するのと同時に、ようやく手榴弾の爆発音が轟いた。


「ジーナッ!!」


 階段の途中から一階まで吹き飛ばされたジーナに駆け寄る。肌にはあちこち裂傷が走り、腕と首は妙な方向に折れ曲がりひしゃげていた。――死んでいる。

 凄惨な状況の屋内を見渡し、私は息を詰まらせた。


「……嘘でしょう……?」


 他の隊員達も確認したが、生きている者は一人としていなかった。隊長一人を残して全滅。最悪の結果だ。一体どうすれば? どうしようもない。何もかも後の祭りだ。死んだ者は生き返らない。

 思わずその場にへたり込む。半ば放心状態で茫然としていると、上階から小さな物音が聞こえてきた。最初は聞き違いかと思ったが、音は断続的に聞こえてきた。何かを叩くような音と、引っ掻くような音。

 隊員の誰かが生きていたのかと思い、急ぎ階段を駆け上がる。二階で私が見たのは、床に突っ伏して足掻く一人の少女――部下であるエマの姿だった。


「エマ! おい! 大丈夫か!?」


 慌てて駆け寄ると、エマは床に額を付けたまま、喉に何か詰まらせたような呻き声を漏らした。彼女の震える腕は激しく床を引っ掻き、爪が捲られて血が滲んでいた。明らかに尋常でないその様に、私は一歩後ずさる。


「……エマ……?」


 エマが首をもたげた。焦点の合わない目、生気の無い表情、だらしなく開かれた口。その顔はまさしく、これまで見てきた屍者たちのそれだった。


「ッ……!!」


 エマがゆっくりと腕を伸ばしてきて、私はまた一歩後ずさった。気付けばエマの背後に倒れるサウカルも仰向けのまま空中に手をぼんやりと振り、壁に凭れかかるようにして死んでいたはずのアニータも、口から血の塊を零しながら無理やり立ち上がろうとしていた。そして悪魔達もまた、屍者として蘇ろうとしている。

 私は完全な混乱状態にあった。死後屍者として蘇るのは、邪悪な悪魔とそれに唆され信仰を失った背信者だけのはずだ。だがこの状況はどうだ。悪魔のみならず、篤い信仰で知られる聖歌隊員、中でも最精鋭の第一部隊である少女達までもが屍者として息を吹き返そうとしている。

 神と天使に信仰を捧げた者は、清浄な加護によりたとえ命を落としても屍者となることは無い。聖書にもそう書かれていたはずだ。

 では、隊員達に信仰心が足りなかったとでも言うのだろうか? とてもそうは思えない。私は同じ『聖歌隊』として、彼女らと数年を共に過ごしてきた。日々の礼拝、悪魔の駆除、隊の活動外のプライベートに至るまで、彼女らは皆深い信仰を示し、神と天使のため奉仕することに真に喜びを抱いていたはずだ。

 そんな彼女達が、何故――。


 屍者達が動き出そうとしている二階からとにかく退避すべく、私は階段に向かおうとした。だがその時、下の階から何かを壁にぶつけたような鈍い音がした。


 嫌な予感がした。


 ごつん、ごつんという鈍い音は、段々とこちらに近付いてきているようだった。

 嘘だ。そんなことがあってたまるか。やめてくれ――。

 鼓動が速くなり、心の中でほとんど懇願に等しい否定を繰り返す。だがそれも虚しく、一体の屍者が階段を上ってきた。

 歪に折れ曲がった頭を壁に打ち付け、擦り、血の跡を残しながら、屍者は一段ずつゆっくりと階段を上がってくる。ひしゃげて垂れ下がった腕、無数の裂傷で血塗れの身体、褐色の肌に黒い髪。私の部下であり友人、つい数分前に絶命したはずの少女、ジーナだった。

 喉が潰れているのかジーナは呻き声も上げず、代わりに口からごぼごぼと黒い血の泡を零した。


「………………」


 私は声すら出せず、ただ荒い呼吸をした。

 何故ジーナまでもが。他の隊員にも増して――ともすれば隊長である私よりも遥かに――真摯な信仰を捧げていたはずの、ジーナが。人付き合いが苦手な私にも変わらぬ笑顔で接してくれた、善性の塊のような彼女が。私の数少ない心を許せる友が。どんな理屈で、屍者になどならねばいけないのか。


「……ぐうっ……!」


 私は歯を食いしばり、背後に迫る屍者と化したエマの顔を銃身で押し退ける。他の屍者達が伸ばしてくる腕をすり抜け、二階の一室に飛び込んで扉を閉め、鍵をかけた。そうしてから後悔した。その部屋には窓も、扉を塞げそうな家具類も何も無かったからだ。

 すぐに扉が叩かれ始める。どん、どんという力任せに殴り付ける音と、かりかりという表面を引っ掻く音。何の変哲も無い木の扉だ。そう長くは保たないだろう。

 手持ちの武器を確かめる。拳銃が一丁、残った弾薬は薬室に一発、弾倉に十発。それに大型のナイフが一振り。仮に悪魔と隊員の全員が屍者として蘇ったとすれば、その数は合計九体。屍者が頭を撃ち抜いても平気で動くことを考えると、相当心許ない装備だ。だがそれでも、やるしかない。

 深く呼吸をし、精神を整えて集中する。

 集中しろ。こんな修羅場は何度も潜ってきたはずだ。鈍重な屍者など、ものの数にも入らない。私ならば十分に対処できる。何も問題は無い。

 乾いた音と共に、扉に穴が空けられる。小さな穴はすぐさま破り広げられ、扉の向こうから無数の腕が突き出された。のたうち回る蛇のように、血塗れの腕達が暴れ狂う。


「ふッ……! ふぅッ……!」


 呼吸を整え、真正面に銃を構える。

 来るなら早く来い。全員まとめて片付けてやる。

 とうとうドアが破られ、緩慢な動きで屍者達が室内に入って来る。先頭に立つ元悪魔の額に銃弾を撃ち込み、顎から上向きにナイフを突き刺し、刃を抜くと同時に後ろの屍者達に向けて蹴り飛ばす。屍者たちは狭い入り口で縺れ合い、よたよたと倒れて団子になった。

 そこから抜け出した一体が、体勢を低くして突っ込んでくる。私はその屍者に銃口を向け━━硬直した。

 歯を剥き出しにして獣のように突進してきたのは、ジーナだった。


「うッ……!」


 銃を持つ手が震えた。


 落ち着け。あれはジーナじゃない。屍者だ。

 ジーナはもう死んでいる。躊躇う必要はない。

 ……本当に?

 何故ジーナが屍者になる? あれほど敬虔な信徒だったジーナが?

 ジーナが屍者になるのなら、私だってそうなるんじゃないか? 彼女で駄目だというのなら、死して屍者にならずに済む人間など、どこにもいないのでは?

 本当にこのジーナは、屍者なのか?

 不意に姉の顔が頭をよぎった。屍者として死んだ姉が。

 姉さんは、本当に――。


 時間にすればほんの一秒にも満たない逡巡。だが、それが命取りだった。

 ジーナが私の拳銃に喰らいつく。血の泡を零しながら、鉄の銃身に歯を立てた。


「……ッ……!!」

 

 慣れ親しんだジーナの顔を間近に、私は指を掛けたトリガーを――引けなかった。

 ジーナが首を振り、私は銃から手を離してしまう。室内には次々と屍者達が押し寄せて来る。残されたのはナイフ一本だけ。だが、諦めるつもりなど毛頭無かった。鞘からナイフを抜き放ち、構える。


「……来い……」


 屍者達は緩慢な動きでじりじりと距離を詰めてくる。血走った幾つもの目が私を捉え、嫌な汗が頬を伝う。

 また脳裏に姉のことが浮かんだ。優しかった姉。美しく聡明で、大好きだった姉。彼女もまた、眼前で唸る仲間達のように、屍者と成り果てて死んでいったのだろうか。

 姉と共に遊んだ公園。昔好きだった人形。両親の笑顔。様々な遠い記憶が急速に蘇る。まずい、これが走馬灯というやつか――。

 死の恐怖を振り払おうとした、その時だった。


 幾重にも重なる屍者の唸り声の中、私の耳に、靴底が床を叩く硬質な足音が聞こえてきた。屍者のよろめきとは違う、しっかりとした足取り。

 極限の緊張状態で聞こえた幻聴かとも思ったが、違った。足音は次第にはっきりと、大きく聞こえるようになり、そして一瞬その音が止んだかと思うと、部屋の入り口にいた屍者の首が突如切り落とされて宙を舞った。


「……!?」


 私は目を丸くした。目の前の屍者達が邪魔でよくは見えないが、部屋の外に確かに誰か、生身の人間がいる。

 私が状況を理解するより早く、次々と屍者達の首や手足が切断され、血を噴きながら落とされていく。果たしてどんな武器、或いは魔法を使ったのかは分からないが、私の目では剣が振るわれるのも、魔力の反応光も確認できなかった。さながら刃を持った突風でも吹き抜けたかのように、屍者達は見る間にバラバラになっていく。

 間近でジーナの首が刎ねられて床に転がるのを見て、私は息を詰まらせた。


 最後の一体が崩れ落ち、屍者の声も止んで静寂が訪れる。まだ微かに動く大量の四肢が折り重なった血の海に立っていたのは、暗い短髪に目深に帽子を被り、無骨な手甲を両手に着けた人物だった。


「やあ……」


 硬直する私に、人物がひらひらと手を振りながら歩み寄る。


「大丈夫だったかい?」


 人物は帽子を上げ、ずいと私の顔を覗き込んでくる。背丈は私よりほんの少し低く、その声色と、すぐ眼前に突き出された異様に整った顔から女だと分かった。


「……お前……は……」


 茫然と佇む私に向け、女は幼児にするように一本指を立てて口元に当てた。


「いいかい、如月さん? 他の人には、僕のことは内緒だよ?」


 不意に名を呼ばれ、ぎくりとした。


「……誰だお前は? 何故私を知っている?」


 女は芝居掛かった仕草で肩をすくめ、かぶりを振った。


「そんなに怖い顔をしないでおくれよ。少なくとも、君の敵じゃあないよ。今のところはね」


「はぐらかすな。質問に答えろ」


 私は女を睨み付けたが、彼女はまるで意に介さないように余裕の笑みを浮かべた。


「すぐに分かるさ。それじゃあさよならだ、如月さん。また近い内に会おう」


「……待てッ!!」


 踵を返して歩き去る女を追おうとして、私はようやく自分の足が竦み震えていることに気が付いた。


「……クソッ……!」


 女はそのまま悠々と部屋を出て行ってしまった。私は毒づき、壁を叩いた。なんとか呼吸を整え、壁に背を預けて腰を下ろす。

 何もかも、分からないことだらけだった。

 私は深い溜息をついて、すぐ傍に転がるジーナの生首に手を伸ばし、大きく見開かれたままの彼女の目蓋を閉じてやった。








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