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天魔屍侠譚  作者: スキャット
第2話「屍者の街」
14/44

2-6


 かつて想兼(オモイカネ)は、この世のありとあらゆる真理と繋がっていた。


 個体としての形を持たない天使は単なる魔力の流れに過ぎず、物質世界への一切の干渉力を持たないが、それ故に全知全能に限りなく近いとも言える。知恵の神である想兼はいわば知恵・知識・情報という概念そのものという存在に近く、過去と現在、そして未来に至るまでの宇宙の万物と繋がっていた。彼女にとって、分からない事など何一つ無かった。


 だが彼女が地上に個体として顕現する際、その力はほとんど丸ごと削ぎ落とされてしまった。全てを見通し掌握する全知の力は失われ、残された力はかつての記憶に縋り付くかのような僅かなよすがだけ。幸福な微睡みから叩き起こされて暗闇に押し込められるような、持てる全てを剥ぎ取られて独り打ち捨てられるような、あるいは、母を失った幼子(おさなご)のような。いくら言葉を尽くそうと、常人の感覚ではその苦しみを真に計り知ることは出来ないだろう。


 想兼が地上で初めて知った、『未知』という概念。それは彼女にとって、堪え難い恐怖だった。自分の知らない物事がある、それだけで彼女の心は激しく掻き乱された。何もかもが『既知』である全知の感覚に身を浸してきた彼女にとっては、己の手の届かない暗闇の領域の存在がただひたすらに恐ろしかった。


 そして個人から見たこの世界が、既知という小舟を未知という暗黒の大海に浮かべているに過ぎないのだと悟ってしまった時、彼女の精神の危うい均衡はとうとう崩れた。

 想兼は凄まじい恐怖と自殺衝動に駆られて錯乱状態となり、かつて痛み止めとして処方された薬を咄嗟に服用した。途端に意識は混濁し、思考は鈍り、同時に恐怖も薄らいでいった。


 そのたった一度が皮切りだった。







「あんたさあ、“遥かなる朧星(ろうじょう)”の想兼だろ?」


 想兼は固いベッドの中、聞き覚えのない声で目を覚ました。身体を起こそうとすると、全身をひどい倦怠感が包んでいた。見覚えのある室内━━宿舎の救護室だ。ベッドの傍らで椅子に腰掛けているのは、知らない顔だった。何故自分がこうしてベッドの中にいて、この見覚えのない人物に付き添われているのか、まるで思い出せない。


「……ええと……」


 戸惑う想兼に、傍らの人物は呆れたように溜息をついた。


「覚えてねえのかよ……あんた、西棟の外れでクスリぶち撒けてぶっ倒れてたんだよ」


「……ああ……」


 言われてようやくぼんやりと思い出す。想兼はいつものように人気の無い場所で薬物を服用しようとしたのだ。量の加減を誤ったのか、鼻血を噴いて意識が遠退いていったところまでは何となく記憶している。


「……どうしてあんな場所に……? 普段は誰も来ないはずですが……」


「そりゃ飯を食いに……。……いや、偶々だ。偶々通りがかっただけだよ」


「……はあ……」


 いまいち釈然としないながらも、想兼は曖昧に頷く。まだ薬が抜けていないのだろう。もしもこれが素面ならば、想兼は適当な返答に耐えられず、明確な答えを得られるまで質問責めにしていたはずだ。


「……クスリなんてやめとけよな。流行ってるみたいだけど、カラダに良いもんじゃねえだろ。……まあ、俺の知ったことじゃねえけど。一応忠告はしたからな、俺は。後は知らねえぞ」


 人物は長い髪を揺らしながら頷く。その様子は想兼への忠告というより、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。


「あの……どうして助けてくれたんですか?」


「……ああ?」


 人物が眉間に皺を寄せる。


「失礼ですけど、貴方とは面識も無いですし、私じゃ何の返礼も出来ませんし……オーバードーズで倒れてる相手なんて助けても、面倒ごとに巻き込まれるだけとは思わなかったのですか?」


「あのなあ……言っとくけど、あんたの為に善意で助けた訳じゃないからな。……あ、これ素直じゃない照れ隠しのセリフとかじゃないぞ。マジだからな」


「……では、何故?」


「…………」


 人物は心底嫌そうな顔を手で覆った。


「……俺は見ず知らずのあんたを善意で助けて心配してやる程のお人好しじゃない。でも白目剥いてぶっ倒れてる奴を見つけてそのまま放置しておける程図太くもないってだけだ。それで死なれちゃ飯も不味くなるし、目覚めも悪くなる。要は仕方なく、だ。迷惑だから今後ぶっ倒れる予定があるなら俺の目の届かないところでやってくれ」


「……はあ……」


 分かるような、いまいちよく分からないような理屈だった。少なくとも、想兼がこれまでに見てきた天使の中にはこんな事を言う者はいなかっただろう。薬物中毒者となった想兼に対する天使の反応は大きく分けて二つ。却って居心地が悪い程のあまりにも純粋な善意と配慮か、堕落者への冷たい侮蔑か。そのどちらでもない無遠慮で素っ気ない対応は、想兼にとっては新鮮なものだった。


「本当マジで面倒だったからな? 救護室は遠かったし、医者にも嫌な顔されるしよ……」


「……ええ、すいません」


 本気でげんなりした様子の人物に、想兼は小さく苦笑した。


「想兼ちゃん!」


 救護室の扉が勢いよく開かれ、見覚えのある顔が飛び込んでくる。想兼の数少ない、というよりほぼ唯一の親しい相手であるアルテミスだった。


「倒れて運ばれたって聞いたよー!? 大丈夫なの!? 怪我は? あっ……! お……おっぱいが縮んでる……!」


「元々です」


 アルテミスは想兼を全身べたべた撫でくり回してから、ようやくベッドの傍に座るもう一人に気が付いた。


「あれー? 雷火ちゃん? なんで?」


「え、お知り合いなんですか?」


 驚く想兼をよそに、雷火と呼ばれた人物は腰を上げる。


「おう、来たか。じゃあ行くわ」


「え、ちょっと雷火ちゃんー?」


 そそくさと立ち去ろうとする人物に、想兼は慌てて気怠い身体を起こした。


「あの! 待ってください! あなたのお名前は?」


 呼び止められた人物は一瞬そのまま立ち去ろうかと悩む素振りを見せたものの、結局立ち止まって振り向いた。


「……雷火。“篠突く雷火”だ。これに懲りたらもう倒れたりするなよ? マジで」


「雷火さん……私は想兼といいます。一応、知恵の神やってます。以後お見知り置きを」


「……知ってるよ」


 ほんの少し頬を緩め、雷火はその場を後にした。

 だが忠告も虚しく、その後想兼は総計二十三回に渡り雷火の手によって救護室に運び込まれることとなる。







 激しい咳と共に、想兼は意識を取り戻した。

 朦朧とする意識の中、刺激臭が鼻についた。嗅ぎ慣れてしまった吐瀉物の匂いだ。


「モイちゃん、大丈夫?」


 頭上から声がする。寝返りをうつと、アルテミスが見下ろしていた。そこでどうやら自分は膝枕の体勢にあるらしいと気付く。


「あ……うあ……?」


「大丈夫だよ、まだ寝てていいからね」


 身を起こそうとする想兼をアルテミスが押し留める。その服や腕は想兼の吐瀉物にまみれていた。大量の薬物を一気に飲み込んだ想兼に対し、その喉に腕を突っ込んで無理やり吐かせたのだろう。


「す……すいません……私……」


 掠れた声で言う想兼に、アルテミスはにこりと笑いかけた。


「何がー? 気にしなくていいよー。わたしもちょっと疲れたし、ゆっくり休もう?」


「……はい……」


 何となく気が抜けてしまい、再び身を横たえる。薄汚れた廃ビルの片隅に二人きり、物音も敵の気配も無い。置かれた状況を忘れてしまいそうなほど、穏やかな静寂だった。


「……アルテミスさん」


 ほんの小さな呟きだったが、アルテミスには届いたようだった。


「なぁに?」


「…………」


 たっぷりの沈黙の後、想兼は消え入りそうな声で、「怖いんです」と囁いた。アルテミスは無言のまま、次の言葉を待った。


「……何もかも分からないことだらけです。この世界は難しすぎて、私にはきっと向いてないんです。私が何も分からないせいで、私に力が足りない所為で、雷火さん達も、あなたも、皆が傷付くかもしれない。そう思うと、怖くて仕方がないんです。逃げ出したくなるんです」


 無力感。心細さ。それが想兼が彼女としての意識を得てからずっと苛まれ続けてきた苦しみの根幹だった。


「嫌なんです。私の好きな人達が、傷付いて苦しむ姿を見るのは。だから戦うのも嫌。傷付くくらいなら何もしたくない。何の意味も無い無駄な日々だって、それでいいじゃないッスか。ただ毎日ご飯を食べて眠るだけの生活でも、皆さんがいればそれで、それでいいじゃないですか……」


「……そうだねー」


 アルテミスは指で想兼の髪を梳いた。


「ねえ、アルテミスさん。悪魔と戦うのも、屍者を狩るのもやめて、皆でどこか遠くに行きましょうよ。きっとどこかに、戦わなくても平和に暮らせる場所があるはずですよ、きっと……」


 縋り付くような目で言う想兼の頰に、アルテミスの手が触れる。


「……うん……」アルテミスは微笑する。「そうだね。私も戦うのはきらいだよ。すごく悲しくなるから。天使も悪魔も、みんなもっと仲良く出来ればいいのにって思うけど……きっとそうはいかないんだろうね。みんなそれぞれに、どうしてもガマンできない事があるから。お互いに絶対譲れないものがあるなら、戦うしかないのかもしれない」


 アルテミスは目を伏せた。


「でも……お互いに譲りたくない大切なものがあるとして、負けた方はそれを諦めなきゃいけないとしたら……そんなの、悲しすぎると思わない?」


 幼子をあやすような穏やかな表情。しかしアルテミスの目には憂いが満ちていた。その悲しみは、想兼のそれと同様、彼女が生まれ落ちてからずっと抱え続けてきたものなのだろう。


「……逃げようか。皆で。悪魔も屍者も、それに天使もいない、ずっとずっと遠くまで。雷火もモイちゃんがそうしたいって言うなら、分かってくれるよ」


「……そうですね。行きましょう、皆で……」


 想兼は縋るようにアルテミスを抱き寄せ、その腹に顔を(うず)めた。やがて身を起こし、小さく息をついて表情を緩めた。


「……ありがとうございます。……もう、大丈夫です」


「……ん、そう?」


「……ご迷惑おかけしました」


「大丈夫だよ。モイちゃんが頑張ってるってこと、わたしは知ってるから。雷火だって、きっと分かってるよ」


「……そうですね」


 想兼は何も本気で逃げ出したいと言っていたわけではない。それはいわば儀式に近いものだった。ストレスが限界に近くなると、想兼は時折こうした現実逃避で鬱積を発散する。アルテミスもそれが分かっていて付き合ったのだ。

 まだ数日を共にしたばかりだが、ここでリリィを見捨てるわけにもいかない。また世界そのものに影響を及ぼすような巨大な謎を解き明かす機会を、未知を何より恐れ忌み嫌う想兼が放っておけるはずがなかった。

 そして何より――人類の屍者化の原因を突き止め、救世の英雄として永遠に忘れられることのない強大な存在となる。雷火の語ったその目的は、想兼にとっては抗いがたく魅力的なものだった。本当にそれが叶うとすれば、失った全知の領域にもう一度手が届くかもしれないのだから。


「…………」


 立ち上がり、想兼は窓の外の様子を伺う。雷火達とはぐれてからしばらく経っている。魔力がまともに使えない雷火と、魔法使いとはいえ人間であるリリィ。時間的余裕はもうほとんど無いと考えていいだろう。

 口を開こうとして、ふとあることが気になった。


「アルテミスさん」


「なにー?」


「さっきの話……あなたにも、あるんですか? そういう絶対に譲歩したくないものが」


 先程の会話はほとんど逃避に近かったとはいえ、だからといって全て本心でないという訳ではない。アルテミスの言葉も、そこに籠められた感情は真実のものに思えた。

 アルテミスは朗らかに笑う。


「そうだねー。皆が皆幸せに、っていうのは難しいとしても……せめてモイちゃんに雷火、それにリリィちゃんくらいは……笑顔でご飯が食べられればいいなーって思うよ」


「……そうですね……」


 想兼も頷きを返し、懐から水筒を取り出す。


「とりあえず雷火さん達の位置を特定したいので……その私のゲロまみれの服を洗ってください……申し訳なさすぎて集中できません……」


「別に気にしないけどー?」


「気にしてください! というか私は気にするんスよ!」


「そうなの? わかったー」


 想兼に与えられた異能は、端的に言えば『一を聞いて十を知る』ものである。対象についての情報をある程度集めることで、あらゆる過程をすっ飛ばしてその答えを得ることが出来る。発動に必要な情報量は様々な要素に左右される。時には多大な情報量を要求され、素の頭で推理した方が早いような場合もあり、万能とは言い難い。百科事典というよりは、いわば検索エンジンに近い能力だ。


 水筒の水で服を洗うアルテミスを横目に、想兼は深く集中していく。街一つを丸ごと、それも個人を見つけ出す程の精度で掌握するにはかなりの精神力を必要とするが、今のコンディションは最高値の八割ほどだ。この静かな環境なら十分に可能であろう。

 目を瞑った想兼の左手を、温かな感触が包む。薄く目を開くと、アルテミスが手を握っていた。想兼は微笑するとさらに深く集中し、ほんの数分で周囲一帯の情報を掌握することに成功した。脳に膨大な情報が流れ込む感覚。遠い昔に失った全知の力にほんの数コンマだけ手が届き、また刹那の内に遠ざかっていく開放感と喪失感。この力を使う度、想兼は初めから存在しないはずの母親を想うような郷愁を抱くのだった。


「……掴みました。周囲五十二キロ一二六メートル以内に存在する屍者は六万五千と十六体……例の怪物達が大小合わせて二十七体……魔素炉心の反応が複数……工房用のものとこれは、人造の……? ……雷火さん達の状況……は……」


 想兼は口を開けたまま硬直する。


「…………え…………!?」


 驚愕の表情で窓の外を見た想兼に、アルテミスは不思議そうに首を傾げた。






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